このエントリはあくまで「前期ドリフターズ」の補足です。ま、「後期ドリフターズ」は時間がかかるので、先に晩期からやっておこうと。具体的には1980年代半ばからの「グループ活動停滞期」からメンバーが全員存命だった2000年代はじめまで書こうと。
「8時だョ!全員集合」の放送が終わった1984年頃からしばらく、テレビでメンバー全員が揃うことはほとんどありませんでした。
「ドリフ大爆笑」のオープニングは当然5人揃いで登場していましたが、あれはただの使い回しですし、番組内コントも「加藤茶+志村けん」チームと「いかりや長介+高木ブー+仲本工事」チームに分かれて収録されていたんです。
稀にいかりやチームに加藤茶が混入したり、加藤志村チームに仲本高木が入ることはありましたが、いかりやチームに志村が、加藤志村チームにいかりや長介が混入することは絶対になかった。
つまり、ひらたくいえば、いかりや長介と志村けんの共演はなくなっていたのです。
一般の人は知らないけど、ドリフファンなら当然のようにこのことに気がついていました。というか、遡ること数年前から「いかりや長介と志村けん不仲説」はずっとくすぶっていたんです。
明確な原因は誰も公にはしてないのでわかるわけがないのですが、志村けんは何度か「ノミ行為事件」(1981年、志村けんと仲本工事が書類送検され、謹慎になった事件)に「いかりやも関与していた」とほのめかしており、おそらくはここから「ケン坊」「オヤジ」の関係が崩れた、少なくとも志村けん的にはそうなのでしょう。
いかりや長介著「だめだこりゃ」によるといかりや長介が木曜会議(「8時だョ!全員集合」の翌週のネタを決める会議)を外されたのは1984年だったらしい。
この時点ですでに志村けんは自分のネタ会議を持っていたそうで、内容もどんどん「ドリフターズ主演番組」というよりは「志村けん主演、ドリフターズ共演」というムードになっていた頃です。
アタシは以前から「志村けんのコントはワンマンコント」と言い続けてきましたが、おそらく志村けんがイニシアチブを取り始めた頃に始まった「金田一」シリーズなど、「全員集合」の笑い、ドリフの笑いで育った者にとっては面白い面白くない以前に完全に別物で、ちょうど、この頃からアタシは「オレたち!ひょうきん族」にチャンネルを合わせるようになった。
もっと正直に言えば、何とも言えない痛々しさがあった。
志村けんが軸になって笑いを取るドリフターズには違和感はなかったけど、1980年代に入って、志村けん以外のメンバーが、とくにいかりや長介と加藤茶の比重が軽くなりすぎたことに嫌悪感すらおぼえた。
これはけして一般的なことではないと思う。
しかし、ことアタシにかんしては、十分すぎるくらい志村けんを拒絶する理由はあるんです。
最初は荒井注に変わってメンバーになったこと。これにかんしては志村けんには何の罪もないけど、子供だからそんなことはわからない。極端に言えば「志村けんが荒井注を追い出した」くらいに思った。
そして二度目が「金田一」シリーズの頃で、さすがにこの頃はアタシも中学生だったから<理屈>はそれなりにわかっていましたが、それでも、どうしても「志村が自分が好きだったドリフターズを壊した」というニュアンスを感じてしまった。
というか時代は完全に「ひょうきん族」だった。
仮にアタシがおぼえた嫌悪感がいわれのないものだとしても、無理して「全員集合」を見続ける理由はない。「ひょうきん族」が面白いという評判が立っていたし、何より「ひょうきん族」は<ナウ>であり、「全員集合」は<子供向けの幼稚なもの>扱いだったことを考えれば、「全員集合」に見切りを付けるのは当然だったのです。
志村けんは「全員集合」の後番組「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」を続けながらソロ活動に入った。
志村主演の代表的な番組として「志村けんのだいじょうぶだぁ」がありますが、まったく、ではないものの、アタシは熱心な視聴者ではなかった。たまに見ても、そこまで面白いとは思わなかった。
というか、ちょうどこの頃からアタシはクレージーキャッツにハマりかけており、ダウンタウンや、その他尖った笑いに夢中になっていた頃なので、当時のアタシの<好み>と志村けんの笑いはあきらかにかけ離れていたのです。
アタシのドリフターズ熱が再燃したのは1992年頃です。
サークルにドリフターズマニアの後輩が入ってきたのがきっかけになりましたが、一番大きかったのは「クレージーキャッツ映画3本、ドリフターズ映画2本のオールナイト上映」をその後輩らと観に行ったことで、このことはココに書きましたので省略。
ただ、1992年頃というと志村けんソロ活動の全盛期であり、ドリフターズというグループでの活動はほとんどなかった頃です。
例外は「ドリフ大爆笑」ですが、これは先ほど書いた通り、いかりやチームと加藤志村チームに分かれて別撮りされたもので、数年前に撮影された「ドリフ大爆笑」のオープニング以外、テレビで5人が顔を合わせることは皆無だったんです。
1993年になって少し流れが変わります。
その日の「ドリフ大爆笑」はいつもの構成とは違い、司会に愛川欽也を立てる形でスタジオに5人が揃ったのです。
トーク、と言えばいいのか。ま、いかりや長介と志村けんが直接対話する、というようなことこそなかったものの、愛川欽也を挟む形で(と言うか愛川欽也が各人に話を振るという形で)、5人がとりあえず、ひとつの場に<全員集合>した、というのは「手打ち」のような感じがありました。
しかし一気に雪解けになったかというとそんなことはなく、コントにかんしては相変わらず別撮り状態が続きました。
そしてついに、1994年になって5人揃ってのコント(ただし新作ではなく再演)が作られるようになり、その翌年の1995年からはかつての「全員集合」を彷彿とさせる公開収録もはじまった。
しかし初期の公開収録は志村けんの姿はなく、いかりや長介、高木ブー、仲本工事、加藤茶の4人で行っていたのです。
個人的には久々に加藤茶が<笑い>の芯をとる形のコントが実に懐かしく、志村けんが中心になる以前の1975年頃の、つまりはアタシが熱心に見ていた頃の「全員集合」が帰ってきたようで、面白かったというよりはとにかく嬉しかった記憶しかない。
それでも「いつまで志村抜きでやるんだろ」とも、思っていた。たしかに一時的には5人コントは復活したとはいえ、公開収録で志村がいないのは、何となくマズいと思っていたのも事実です。
ちょうどこの頃、アタシは高木ブーさんと私的な交友があった頃ですが、高木ブーさんから聞いたのか、それとも別の誰かからだったのか、その辺の記憶はさっぱりないんだけど、とにかくこんな話を聞いた。
公開収録の時、志村けんは撮影にこそ参加してないけど、現場にはずっといる
と。
何でそういうことになったのかはまるでわからない。いるのなら出ればいいのに、と素人考えで思うけど、ま、何らかの事情があったのでしょう。
志村けんはリハーサルからいて、自分は出ないけど「あそこはああいうふうにした方がいいんじゃないか」みたいな、ま、スタッフめいた動きをしていたらしい。いかりや長介にさえ「いかりやさん、ここはこうするのはどうですか?」みたいなアイデアまで出していたという。
ちょうどこの頃は志村けんの凋落期にあたり、ソロ番組も30分枠に縮小された後に深夜枠に降格となり、死亡説さえ流れたほどだった。
たぶんそういうこともあって、もう一度、ドリフターズの一員として、やろう、という気分が出た頃だったと思う。
以降のドリフターズは、というか志村けんといかりや長介は「付かず離れず」の状態を続けた。
険悪な時期を乗り越えて、それこそ「ドリフ大爆笑」でも積極的に共演するほどではないけど、グループとして出ることに障害はなくなったと見るべきです。
アタシが個人的に大きかったと思うのは、志村けんの人気凋落もあるのと同時に、いかりや長介の格が上がったのもあると思う。
1997年から始まった「踊る大捜査線」で重要な脇役をつとめたいかりや長介は、役者としてオンリーワンの位置にまで上り詰めた。
こうなると、志村けんもいかりや長介を蔑ろに出来るわけがなく、元の<けん坊><オヤジ>の頃に戻ることが出来た、と思うのです。
その後、ドリフターズは紅白にまで出場しますが、もうこの頃になると、いかりや長介は<コメディアン>という感じじゃなくなっていた。
もっとはっきり言えば、晩年になり、かなりいろいろ落ちていた。
これは「ドリフ大爆笑」の公開収録の頃から感じていたことで、あきらかにツッコミのスピードが遅くなり、ツッコミ自体もワンパターンになっていた。
紅白の頃になると「かつてのいかりや長介」のセルフパロディというか、昔の、ドリフターズの一員としてのいかりや長介を必死になぞろうとしている感じで、正直に言えばかなり痛々しかった。
自由奔放な加藤茶はともかく、志村けんはそんないかりや長介を馬鹿にするでもなく、いかりや長介が対応出来ないことは封印して、相当気を遣う素振りが垣間見えた。
あらためて後期~晩期ドリフターズを見ると、いかりや長介と志村けんは本当に擬似親子関係だったんだな、と思わされます。
片鱗はあるもののダメな息子だった志村けんは「東村山音頭」以降、その才能を開花させ一本立ちした。そして<オヤジ>の失態やズルさが見えてくるようになり、また自分の能力に自信を得たことで、どんどん<オヤジ>を軽視するようになった。
しかし自身の人気が落ち、今度は<オヤジ>の人気が上がるのを見せつけられることになった。
反抗期だった息子が「オヤジも、なんだかんだいって、やっぱ、たいしたものだったんだな」と気付き、衰え始めたオヤジのフォローまでやるようになったのです。
そんなオヤジ=いかりや長介が亡くなったのは2004年です。
葬儀の時、一番号泣していたのは志村けんだったと言いますが、ここまで読んでいただければ当然だとわかってもらえると思います。
志村けんを除くメンバー4人はあくまで<仲間>だった。しかし志村けんは違う。いかりや長介の弟子になり、ボーヤをしながら主に加藤茶について、加藤茶から笑いのイロハを学んだ。
結果的に晩年となった頃、志村けんは「笑いの師匠は加藤さんだった」と語っていましたが、これは一種の照れ隠しと見るべきです。もちろん加藤茶から多大な影響を受けたのは間違いないとしても、70を超えてさえ、オヤジの名前を出すのは、オヤジを上げ奉るのは照れくさい、というのは照れ屋で有名だった志村けんらしいエピソードです。
たぶんあの世で
「何でお前が一番最初にこっちに来るんだよ。順番が違うだろ」
「あ?心配だから急いで来てやったのに、じゃあオレは帰るから高木さんを寄越すわ」
「いいから居ろよ!あとブーたんを殺すんじゃないよ!」
なんて、微笑ましいことをやってそうでね。
そんな妄想をすると志村けんが早逝したことにもちょっとだけほっこりするんです。
本文にはあえて「志村けんとドリフの大爆笑物語」について触れなかったのですが、一応は補足っていうか、あのドラマの続きみたいな感じで書いてます。いやこれを書いたのはドラマの放送よりだいぶ前だったから偶然だけど。 というかさ、本当にちゃんとドラマの<補足>をしたいのであれば、<晩期>じゃなくて<後期>ドリフターズを書かないといけないんだけど、何とかマックボンボンのネタの映像を見れないかなぁ。というか「そこ」、つまり「ドリフターズのメンバーに抜擢された時点での志村けんの能力」がわからないと、あんまり書く意味がないんですよねぇ。 |
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