まずは馬鹿馬鹿しい話から始めます。
昔、アタシが音楽のユニットをやってた時の話なのですが、メンバー全員、源氏名、じゃ古いか、とにかく芸名みたいなものを付けようってことになってね。
何かひとつ、統一した設定があった方がいいんじゃないかとなって、それで全員「動物の生まれ変わり」にしようと。それでいろいろ考えてたのですが、どうもアタシに合うのがない。
そんな時、ふと、思いついた。というか、思わず口をついてしまった。
みずすましんじ・・・
それいい!みずすましの生まれ変わりだろ!?って言われたんだけど、それだけは断固拒否した。いや、別にみずすましの生まれ変わりだろうがなんだろうが別にいいけど、もちろんこれはダジャレというかダブルミーニングでして、つまり<みずすまし>と<水島新司>の。
やっぱ、いくらアタシが野球が好きでも、んで水島新司作品が好きでも、それは嫌だ。
だって男ドブス水島新司ですよ。んで男ドドブスの牛次郎と結婚するんですよ。で、とんでもなく小汚くてブサイクな水島牛次郎が産まれるんですよ!
・・・まァ、赤塚不二夫の「レッツラゴン」を読んでないと何のことかさっぱりだろうけど、いや、↓の水島新司の自画像を見るだけで、水島新司のルックスのドクトクさがわかるはずです。
でも息子の水島新太郎(=おぼっちゃま、ね)は比較的小綺麗な顔立ちだったな。どういうことだ。嫁さん、そんな美人だったのか?って思ってたら偶然画像を見つけた。
・・・どうでもいいことで行数を稼いでしまった。申し訳ない。
てなわけで、今回はみずすましの話、ならぬ水島新司の話です。で、くだらないネタで始まったわりにはかなりマジメな内容になりますのでそのつもりでお読みください。
水島新司の「ドカベン」のことは、昔っから何度も書いてますが、まあほとんどは否定的な書き方になってしまっています。
でもそれは「比較的近作の」クオリティにたいしての話でして、高校時代を描いた「ドカベン」ほど熱中した漫画もないんじゃないかと思っている。とにかく「ドカベン」の、いや水島新司の漫画家人生で、いやいや野球漫画すべての中で2年夏の白新学園戦は間違いなく頂点だったと今でも思う。
別にギャグ漫画じゃないのに、つかギャグが入ってるわけじゃないのに、あの試合の描写は面白すぎて笑えるんですよ。こんな漫画など空前絶後で、紛れもなく水島新司は天才だったと思うわけで。
それくらいすごいと思っていたからこそ、「ドカベン」のプロ野球編以降と「あぶさん」の福岡移転以降のガッカリ感はハンパなかった。
あまりにもガッカリしすぎて、こんなネタさえ書いたことがある。
ま、妄想プロ野球編です。思い入れが強い分、異様に長くなってしまいましたが、よろしければ是非お読みください。
理由はスカウト陣から、その将来性に疑念が湧いたからである。あまりの過酷な戦いを演じてきた明訓ナインに「高校時代がピークだったのではないか」と思われだしたのだ。しかもエース里中に関しては、1年時より予選・甲子園大会通じてほぼひとりで投げきった上、非常に怪我が多い、身体が小さいなどの理由で、各チームとも次々と上位候補から外していった。
ドラフト当日。文句なしに1位指名を受けたのは、日本ハムから中西球道、広島から不知火の2名のみであった。それでも山田は南海から外れ1位指名を受けることになる。続いて岩鬼がメッツに2位で指名される。
下位指名になり、ようやく<山田世代>の指名が始まる。阪急に4位で殿馬、阪神に5位で武蔵坊、日本ハムに5位で微笑、そしてようやくヤクルトに7位で里中が指名される。
このうち殿馬は<音楽への道に>という意向から入団を拒否。また武蔵坊も「もう野球をやる気はない」と入団を拒否する。
岩鬼はかなり強烈な阪神志向があり、メッツの指名に拒否の姿勢をみせるが、岩田鉄五郎の型破りな説得に応じメッツ入団を決断する。
しかし明訓四天王にとって、プロの道はあまりにも厳しいものであった。実力的にはまだ尚早と見られていたにもかかわらず、甲子園で絶大な人気を誇った山田らを球団がほっておくわけがなかった。
そして運命のオープン戦を迎える。
ヤクルト対南海のオープン戦。山田と里中はほとんど<客寄せパンダ>の扱いながら、里中は先発としてマウンドにあがり、山田は5番キャッチャーとしてマスクをかぶる。
1回表、里中はなんとか2アウトをとったものの、3番4番に連打され1塁2塁のピンチ。注目される山田・里中対決、動揺した里中の初球はなんと山田の右手首に直撃する。
4年の月日が経った。ここまで順調に成績を伸ばしたのは土井垣、微笑、不知火、土門の4人だけであったといっていい。
土井垣は2年目のシーズンこそいわゆる「2年目のジンクス」という壁にぶち当たったものの、翌年より3年連続で3割20本塁打をクリア。キャッチャーとしてもナインの信頼を勝ちとり、パ・リーグを代表するキャッチャーになっていた。
微笑は地味ながらも4年目にレギュラーの座を獲得。主に6番レフトとして勝負強い打撃を見せる。
不知火はルーキーの年から7勝をあげると、着々と勝ち星を重ね、4年目のシーズンには17勝で最多勝を獲得するに至る。
土門はチームの方針もあり、入団して2年間は体力作りに専念。しかし3年目にローテーションに入り10勝をあげると、4年目には16勝をあげ、最後の最後まで不知火と最多勝を争うことになる。
一方浮き沈みが激しかったのが中西球道だった。ルーキーの年にいきなり19勝。しかし20勝に届かなかったため、本人は更なる登板機会を希望。そして翌年念願の20勝(21勝)をマークする。
しかしこの無理がたたり肘がパンク。翌年からはリハビリに専念するはめとなる。
「1位指名でないとたいした契約金がもらわれへん」とノンプロにいっていた坂田が、打者として希望通り巨人から1位指名を受けたほか、大学で力を蓄えた大平、小林、犬飼武蔵らが、この年のドラフトで続々と入団。あらためて<山田世代>に注目を集まることになった。
ところが肝心の、プロに進まなかった殿馬を除く四天王は、まったく期待に添えない結果しかあげれなかった。
岩鬼は打撃・守備両面において、その雑なプレーが指摘されずっと二軍暮らしの日々が続いていた。夏子にこそ強気の発言を繰り返す岩鬼であったが、ファームの試合でも6、7番しか打たせてもらえず、次第にその自信を失いかけていた。
しかし岩鬼はまだマシな方だった。
山田は守備こそふつうにこなせるようになったものの、里中から受けたデッドボールの後遺症は消えず、完全に高校時代の豪打は影を潜めていた。一軍にあがることもあるが、あくまで守備要員としてであり、たまに打席に立ってもまったく結果をだすことが出来なかった。
さらに悲惨なのは里中で<客寄せパンダ>の役割も終わり、解雇が噂されるようにさえなっていた。
「自分の後継者に」と見込んだ岩田鉄五郎にとって、岩鬼がいまだに一軍の戦力にならないという事実は歯がゆくてしかたがなかった。
しかもメッツは低迷期に入っていた。国立や金太郎といった主力打者、火浦、岩田といった主戦投手が盛りをすぎ、また台頭する若手も皆無の状態。その低迷ぶりは順位だけでなく人気、ひいては観客動員にまでおよび、身売り、もしくはメッツ解散の危機にたっていた。
この前年、メッツは東海大学で活躍していた山岡を6位で指名。高校時代ほとんど交友のなかった岩鬼と山岡だったが、少しづつ会話をするようになり、なにかと酒を酌み交わすようになる。
精気のなくなった岩鬼をみて「オレに敬語で話すなんて岩鬼じゃない。もう一度高校時代の輝きを取り戻させたい」と思った山岡は、鉄五郎にある進言をする。
それは、ほとんど守備要員に成り下がった山田と、解雇寸前の里中をトレードで獲得してはどうか、というものであった。
岩鬼はもちろん、山田にもその才能を評価していた鉄五郎も、この大博打にのり、フロントを説得。さらにこの年のドラフトで、世界的ピアニストになっていた殿馬を1位で指名。ついに四天王がメッツに集結することになる、かに思えた。
メッツから1位指名を受けた殿馬だったが、当然のように入団拒否の姿勢を見せる。すでに世界的なピアニストになっていた殿馬にとって、野球は「なつかしくも戻りたくない世界」になりつつあったからだ。
岩田鉄五郎の説得にも「4年もやってないのに通用するわけがないずら。プロはヨォ、そんなに甘いもんずらか?」と逆質問する始末で、入団はほぼ絶望に思われた。
ここで鉄五郎はとんでもない手に打って出る。なんと殿馬を選手ではなく、一軍監督として迎えようというのだ。この策にはさすがの殿馬もたじろぐ。
殿馬の入団を最終的に決意させたのは岩鬼だった。わざわざ公演先のフランスまでやってきた岩鬼の行動は、殿馬の決意を固めさせるには十分であった。
シーズンがはじまった。岩鬼は一軍帯同にこそなったものの、殿馬監督の意向によりベンチで声を出す毎日。里中は中継ぎとしてこれまた一軍に帯同するものの、登板機会はほぼ敗戦処理に限られていた。
山田はまるで何かにのろわれたかのように、かつて痛めた右手首痛を再発させ、キャッチボールはおろか、バットすら持てなくなっていた。
ゴールデンウィークを終わった時点で、メッツは3位と4位をうろうろしていた。投手陣はエース・立花のがんばりもあって防御率は3点台前半をキープしていたが、深刻なのは打線だった。とにかく打てない。鉄五郎・五利ヘッドコーチは打線の組み替えを進言するが、殿馬監督はまったく聞く耳をもたない。
5月の終わり、国分寺球場で巨人三連戦を目の前にして「殿馬、監督権剥奪」が噂されるようになる。チームは最下位転落寸前まで落ち込んでいたのだ。
初戦の相手は、四天王なき後明訓を支え、いまや巨人の押しも押されもしないエースに成長していた渚。しかも渚はメッツにめっぽう強く、ここまで対メッツ戦9連勝中であった。
ここで殿馬監督は山田の一軍昇格を決める。かつて渚とバッテリーを組んでいた山田に配球を読まさせようというのだ。
これがズバリ当たった。山田の配球予想はズバズバ当たり、苦手・渚を早い回にノックアウトすることに成功した。続く2戦目、3戦目も山田の配球予想は冴えをみせ、バットも握れない山田はベンチにかかせない戦力になっていく。
6月の甲子園での阪神戦、この試合は両軍ともベンチ入り選手のほとんどを使いはたす、まれにみる大乱戦になった。
9回表3点差、二死1、2塁のチャンスで殿馬監督は岩鬼を代打に起用、見事バックスクリーンに叩き込む同点ホームランとなった。
ところが延長に入ったところでアクシデントがおこった。この回からベンチ入りしていた最後の投手、里中がマウンドにあがったのだが、なんと正捕手の帯刀が負傷退場したのだ。
控え捕手もすでに代打で使っており、ベンチに残っているのは山田だけだった。
殿馬監督がいけるかどうか聞くと「ピッチャーが里中なら、大丈夫」とだけ答え、山田はプロテクターをつけはじめた。ついに明訓バッテリーが、皮肉にも甲子園を舞台にして復活したのである。
里中山田のバッテリーは10回を切り抜けると、11回、山田に打順がまわってきた。山田は握れないはずのバットを持って構える。そして2ストライク1ボールからの3球目、打球はまるで高校時代を彷彿させるような弾道で、ライトスタンドへと消えた。
翌日、殿馬監督はスタメン表に「1番サード岩鬼」、「4番キャッチャー山田」と書き込んだ。
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