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複眼単眼・東京オリンピック2020開会式
FirstUPDATE2021.12.30
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 まずは、とにかく根本的なことを書いておきます。
 オリンピックの開会式とは

・競技場というだだっ広い場所で行われる
・全世界へ向けて発信する
・すべての面で最高グレードの
・ショウである

 もう、こんな基本的なことから言わなきゃいけないのは本当に情けないんだけど、メチャクチャシンプルに言えば、

開会式=ショウ

 なのです。
 「ショウを作る」というのは映画やテレビ番組、はたまた通常の演劇などとはまったく違う才能とスキルが求められる。ところが元お笑い芸人にしろ、某クリエイティブディレクター氏にしろ、とてもじゃないけど条件を満たしているとは言い難いわけです。
 元電通でCMを中心に手掛けていたクリエイティブディレクター氏は言うに及ばず、元芸人の方も「大衆から背をそむけたような、古い言葉で言えばアングラ的な活動をしてきた」人です。
 アタシはね、そのふたりにどれほどの潜在能力があるのかは知りません。ただオリンピックの開会式というのは彼らにとって<畑違い>もいいところで、いったいどういう感覚でこのふたりを抜擢したのか、何ひとつ理解出来ない。

 百歩譲って企画や構成はショウ出身者でなくてもいいとして、どれだけ最低でも<演出>だけはずっとショウ畑を歩いてきた人でないと話にならない。
 今やショウなんてやってる人とかそんなにいないというか、そもそも日本でショウ文化が完全に萎んでしまったので「だったらどうすりゃ良かったんだ!」と思われるかもしれませんが、意外にもミュージシャン関係でショウマンシップあふれる、スケールの大きいライブをやってる人がかなりいるんですよ。
 360度パノラマのステージ、ということを考えれば長年「ドリカムワンダーランド」を手掛けている中村正人でもいいし、実は多数のエンターテイメントステージを手掛けているジャニーズの人でもいい。例えば松本潤とか。
 「は?」と思われるかもしれないけど、少なくとも例のふたりよりはよほど「ショウとは何か」がわかっているはずで、あそこまで無惨なことにはならなかったと思うんです。
 実際、2021年に放送された「24時間テレビ 愛は地球を救う」をちょろちょろ見ましたが、正直、アレの方がよほどショウとしてちゃんとしていた。クサい演出ではあるんだけど、ショウはあれでいいんです。
 もちろんその中心にいたのはジャニーズ系の人たち(一部<元>を含む)ですが、彼らはね、わかってましたよ。少なくともショウの<振る舞い>ってもんが。

 これは「開会式=ショウ」という、あまりにも基本的なことを組織委員会がまったくわかっていなかった証拠です。
 先ほど日本ではショウ文化が完全に萎んでしまったと書きましたが、残念なことに日本でショウはまったく育たなかった。
 もちろん完全に消滅したわけではないけど、すべて一部の人たちを対象にしたものに留まっています。
 実は日本で、最後まで、本気で<ショウ>というものに取り組んでいたのはザ・ドリフターズです。たしかに「8時だョ!全員集合」だけではわかりづらいけど、毎年正月にやっていた日劇公演を見れば、彼らが如何にショウの基本に則って動いているかが嫌でもわかります。
 というか<ショウ>なんていうと「歌とダンス」ってイメージかもしれないけど、実は歌とダンスはそこまで重要なファクターではないのです。必要か不必要かで言えば必要だけど、むしろ歌とダンス以外の幕でこそ、その出演者が、演出家が、ショウの感覚があるかどうかがわかるのです。
 紅白なんてまさにそうで、ショウ感覚を有していた人がNHKにいた時代の紅白はちゃんとショウとして成立してたけど、もうそんな感覚がわかる人がいなくなってからはグダグダもいいところになった。ちゃんと「ショウ感覚の継承」という教育をしてこなかったNHKの責任です。

 ドリフターズによるショウや紅白歌合戦は、いわば「大衆的で誰にでも理解出来る」ものです。いやそうでなければならない。つまりはけしてハイブロウになってはいけないものなんです。
 もちろんショウにもハイブロウなものもありますし、その存在自体はアタシは否定しない。ただ、オリンピックの開会式の場合、全世界の、年齢はもちろん、階級も学力も経済力もバラバラな人たちに見せるようにこしらえなければいけない。つまりドリフターズのショウや紅白歌合戦よりもさらに<ベタ>にしなきゃいけないのです。
 しかし大半の人はベタの意味を取り違えている。ベタって、つまり、吉本新喜劇のようなものでしょ?と。
 しかし吉本新喜劇はまったくベタではない。どちらかと言えば、いや言わなくてもいいレベルで、あれはきわめてトリッキーな演劇です。
 ベタという言葉を使うから誤解されるのかもしれない。ま、個人的にはベタでも大衆的でも王道でもルーティーンでもお約束でも何でもいいんだけど、とにかく「日本語がわかるのであれば、いや日本語がわからなくても訳されれば、誰でも即座に理解出来る」ものである必要があるのです。
 こういう「わかりやすいもの」を馬鹿にする人は殊の外多い。ハイブロウ=高級、わかりやすいもの=低級だと見做してあからさまに見下してくる。
 ただもう、どっちを作るのが難しいかと言えば、圧倒的に「わかりやすいもの」を作る方が難しいわけです。ハイブロウなものが「わからない人は見放せば良い」という考えに基づいて作られているのにたいし、わかりやすいものは四方八方に目配せをしなきゃいけない。その労力たるや比べものになりません。

 ま、アタシから言わせれば「ラクしてるだけのクセに何を高級ヅラしてるんだ」ってことになるんだけど、実際、ハイブロウなものは高級に見られるし、評論家から評価されるし、当人はラクだしいいことづくめなのにたいして、わかりやすいものは幼稚だなんだと叩かれ、当然評論家からは馬鹿にされ、作り手は果てしのない苦労をしなきゃいけない。つまりワリが合わない。
 だから大抵の人はハイブロウ志向に行きたがる。人間、ケナされるよりホメてもらう方がヤル気が出るのは当たり前で、そのことを嗤うのはどうか、とは、思うんです。
 しかし、だからこそ、てらいなく、本当にわかりやすくて面白いものをこしらえよう、という発想でずっとやってる人はすごいと思う。
 アタシがパッと思いつくのは宮本茂です。もちろん任天堂の、マリオシリーズやゼルダシリーズのディレクターですが、この人の「ハイブロウなものにたいする距離の取り方」にはいつも感心させられる。そして必ず「わかりづらいものをどうわかりやすくするか」という創意工夫が凝らされています。

 という意味ではまさしく宮本茂は「てらいのない」人なんですが、実際、途中までは宮本茂は開会式の企画にかかわっており、何度も打ち合わせをしていたと言います。
 にもかかわらず、かなり早い段階で宮本茂はチームから外れた。何があったかはわかっていませんが、もしこの噂が本当であれば組織委員会は途中までは<まとも>だったということになる。
 しかし、いやマジで、いったいどこから歯車が狂ったんだろ。

 アタシが実際に行われた開会式で、ああもう、これはダメだ、と思ったのは宮大工風ダンスなんですが、正直言えば森山未來のダンスで、しんどいと思った。
 いや、森山未來には何の責任もないし、ちゃんとしたダンスだったとは思うんです。でもあれは果てしなく意味がない。
 と思ってる時に、とある対談を思い出した。若干長いですが引用してみます。ちなみに弘田三枝子についての、小林信彦(引用中は<小林>)と大瀧詠一(同<大瀧>)の話です。

大瀧 (筆者注・弘田三枝子の)その後の行動や、行ったところを見てみると、そういう感じですね。

小林 ニューポート・ジャズ・フェスティバルに、日本人がヴォーカルで出るということが、まず無謀ですよね。英語をいくらうまくうたっても、しょうがないんですから。インド人がうまい日本語で演歌うたうのと同じでしょ。チャダみたいなものです(笑)。

大瀧 まったく、そのとおりです。

小林 向こうの人から見れば、「それがなんだ」って感じでしょう。だから片岡義男さんなんかに言わせると、日本人がいくらきれいにうたっても駄目なんだって。

大瀧 そうでしょうね。

小林 つまり言葉の意味が全然わかってないから、きれいにうたったところで、別にどおってことない。

大瀧 発音のコンテストじゃないんですからね。
(「道化師のためのレッスン」より)



 あきらかに大瀧詠一の相槌が<雑>で、ああ、これは小林信彦の言うことに全面的に同意してないなってのがわかるのが面白いんだけど、それでもね、諸外国で生まれた文化を日本人がハイレベルに再現したとして、もちろん日本人は「すごい」と思うかもしれないけど諸外国の目で見たら「だからなんだ」となる気持ちもわかるんです。
 もう、日本人とか関係なく、どこの国の人が見ようが圧倒的ハイレベルならばいいかもしれないけど、残念ながら「年齢がいくつであろうが、どこの国籍だろうが、森山未來のパフォーマンスは感動するに値するものだった」かと言えば、悲しいかな、そうはなってはいませんでした、としか言いようがないんです。
 先ほどの小林信彦と大瀧詠一の対談もそうなんですが、彼らはむしろ弘田三枝子は天才であるとし、いわば弘田三枝子の才能の正当性の話をしているんですよ。途中、大瀧詠一は『弘田三枝子のヴァケーションは本家のコニー・フランシスよりも上』というようなことさえ、言ってる。
 でも「天才」であるはずの弘田三枝子でさえ、ジャズフェスティバルに出たら「英語をきれいな発音で歌う日本人にしかならない」という話をしているのです。

 つまりはどういうことか。早い話が「自分たちより得意な人がいる、相手の土俵で勝負してしまった」ことに他ならない。
 何だか、あれを、つまり森山未來のパフォーマンスを見てね、悲しい気持ちになった。もしかしたら諸外国の人も森山未來をホメてたかもしれない。でもそのホメ方は限りなく「1+1は2だってよくわかったね!」類いのホメられ方だったような気がしてしかたがない。
 何であんなこと、させちゃったんだろ。森山未來は1ミリも悪くないし、本当に頑張ってたと思うけど、あそこの場でどれだけ頑張ろうが最終的には恥さらしにしかならない。だってどこまで行っても「日本人<にしては>すごいね」にしかならないんだから。

 ではいったいどんな<土俵>で勝負すべきだったのか、Page3へ続きます。