Page1の冒頭でアタシは「布団がふっとんだ」式のボケしかインターネットでは難しい、みたいな友人の至言を紹介しました。
何故難しいのか、それは実は想像よりはるかに多い才蔵=おっちょこちょいが世の中にいることがインターネットの存在であきらかになったからです。
ひとつ例を挙げます。
アメリカの首都はニューヨーク
ではなくワシントンDCである
当たり前のことを書いてるだけですが、もうこんな書き込みが通用しないのです。
こんな長いテキストを、しかもわざわざPage2へのリンクまでクリックしていただいている、今お読みいただいているアナタには関係のない話っつーか信じられない話かもしれませんが、本当に「アメリカの首都はニューヨーク」しか読まない人が多いのです。つまり「ではなくワシントンDCである」という箇所には目もくれていない。
それだけならいい。問題は自分を太夫=賢者だと疑わない当人は自信満々で間違いを指摘する。は?アメリカの首都がニューヨーク?幼稚園児か何か?と。
しかも間違いを指摘されるとこう開き直る。
「ワシントンDCって何だよ。ワシントン<D.C.>な」
「ではなくワシントンDCである」という箇所は無視したクセに重箱の隅をつつくことはするわけですな。
これはもう、長文が苦手だとか読解力がないという問題ですらない。おっちょこちょいと言えば聞こえはいいけど、落語や喜劇に登場する愛嬌者とは正反対の(自分は頭がいいと思っていて)(周りを不快な気持ちにさせる)(上から目線の)「おっちょこちょい」なんだから始末が悪い。
自尊心が持てなさすぎて変な方向にプライドがねじ曲がった典型で、まったくどうでもいいことにたいして異様に勝ち負けにこだわる。かと言って細心かというと自分の心の傷にばかりセンシティブで、それ以外のことは自分の傷にだけ気を取られすぎて大雑把になっている。
つまり典型的な「注意力散漫」なタイプです。注意力が散漫だから相手の真意をまったく読み取れず、自分なりの解釈をさも正解かのように吹聴する。
従来、こういうタイプはコミュニケーションが苦手で、拡散の一員にはなれなかった。ところがインターネットのおかげで手軽に、自分の中での正解を拡散するようになったのです。
こうした人間が一定数いる以上、インターネットという環境が普及したことを考えるなら、下手したら今の方がとんでもないデマが広がるはずです。
ただね、実はそこがインターネットというメディアの難しいところなんですよ。
公的機関から発信されたものや、ニュースサイトなどのあきらかに金銭的利害があって書かれた文章にたいして「いい加減なこと書くな!」というのは間違っていない。
いわゆるコタツ記事にたいして、いい加減なことを書かれた側が怒り狂うってのは十分に理解出来るし、ま、はっきり言えば仕事として舐めたことをしている記者(と編集部と出版元)に然るべき処分があってもいいと思う。
この「仕事か否か」ってのは人々が考えている以上に大きいことなんです。
報酬ってのは本来、作業量や手間暇ではなくあくまで<責任>にたいして支払われるべきもので、いい加減な仕事をして報酬を得た人間に何らかのしっぺ返しが来るってのは納得されやすい。
インターネットなんてものが世に出る前までは、メディアに何らかの形で文章を公表する、というのは、ほぼ報酬が支払われたものでした。もちろんミニコミ誌など例外はあるとは言え、当然「報酬をもらっているんだからいい加減なことは書けない」という意識はあったと思う。それがプロだと。
ところがインターネットが登場したことでこの図式が崩れた。
インターネットに溢れる文章の大半は無償で書かれたものです。つまり有償によって生じるはずの<責任>も生じないということになってしまったと。
デマ、なんて言うと社会生活を脅かすような、と捉えられるかもしれないけど、大多数の人にとっては「どうでも良すぎる」デマもあったりします。
アタシが高校生から大学生の頃だったかな、まるで既成事実かのように「実写版「忍者ハットリくん」でケムマキを演じていたのは杉良太郎」というのが「ちょっとした豆知識」レベルで世間に浸透していました。
しかも藤子不二雄A先生があやふやな記憶のままこの話を肯定しちゃったもんだから「ケムマキを演じたのは杉良太郎」は確定レベルにまでなってしまった。
冷静に考えればこれはあり得ないデマで、実写版「忍者ハットリくん」が撮影された1960年代後半、杉良太郎はすでに大人の年齢で、香取慎吾版とは違いこの実写版でのハットリくんもケムマキも子供=子役が演じていたんです。
今ではこの話は完全に否定されている。当時ケムマキを演じたのは傍田勉という子役です。
これなんかデマっちゃデマだけど、当事者でさえ笑って済ませられる話です。
問題なのはこのデマの発信元が<一応>とはいえマスメディアだったことで、Wikipediaによれば「スクランブルPHOTO」という三流写真週刊誌の記事が<火種>だったらしい。
たぶん「スクランブルPHOTO」なる雑誌の編集部の記者も、この噂話か冗談を耳にして記事にしただけなんだろうけど、かなり最近まで、真実のように語り継がれてきた噂話として「ファミコンの本体の色が白とエンジ色なのはエンジ色のプラスチックの価格がもっとも安価だった」というのがあります。
これも元はただの口コミだけでしかなかったのが、いつの間にかいくつかの雑誌にまるで真実かのように豆知識として書かれるようになったんです。
これも「ちゃんと取材をせずに、つまりあやふやなまま記事にしてしまった」雑誌記者の責任と言えなくもありません。
ところがインターネットで<無償で>何かを、それもTwitterレベルに何か書くのに取材をしろってのがもう無理な話で、もし「取材も調査も資料の精査もせずに何か発信するなんて言語道断」となったら、もう、何も書けなくなる。
インターネットで間違った情報を発信するな!なんて息巻いている人がいますが、<無償>である限り、そこまでの責任は問えないと思うんですよ。
アタシだってインターネット上にいろんなことを書いてきました。後年になって読み返して「ああ、間違えてる」と気づくことはあるし、もしかしたらいまだに気がついてない致命的な間違い=デマを拡散している張本人かもしれない。
まァね、ケムマキ杉良太郎説レベルの話であれば、んなカタいこと言うなよ。間違ってたな、スマンスマン、で済むことだと思うし、そうしないといけないとさえ、思う。
ただこれがPage1で書いたような、豊川信用金庫とかのレベルになると実に難しい。いくら<無償>だとしても、んでいくら<善意>からだとしても、デマの拡散に加担した人間に一切責任がないのか、ここは本当に微妙なんです。
2021年の新型コロナワクチン接種のこと、ズバリ言えば「ワクチン害悪論」を拡散した人の大多数は<無償>かつ<善意>からだと思う。
もちろん、だからといって冷蔵庫のコンセントを抜いて回るなんてただの犯罪だけど、少なくともインターネットで拡散している分には責任を問えるかというと、まず無理です。
ケムマキ杉良太郎説とワクチン害悪論を一緒にするな!とお叱りを受けそうだけど、ではどこで線引きをするかとなると難しい。いやそもそも線引きを国が決めるなんて無理に決まってる。それこそ「笑い話で済むかどうか」なんて個々の感覚で変わってくるんだし。
有害か無害かの線引きが不可能となれば、誰でも発信出来るインターネット時代において、デマは今後、ますます生まれるだろうし、ますます拡散の速度も規模もとんでもないものになると思う。
かといって今さらPage1の冒頭に書いた友人の名言「極論を言えば、もう「布団がふっとんだ」みたいなのしかダメだと思う」まで立ち戻れるかというと、それも難しい。
でもね、アタシは思うわけです。
結局人々が求めるのは<刺激>か<知的好奇心をくすぐる>ものかになってしまうのは百も承知なのですが、アタシはもっと<たわいない>ことにたいして高い評価があるべきなのではないかと思う。
実は<たわいない>って難しいんです。
昨今「誰も傷つけない笑い」なんてものが評価されるフシギな時代ですが、笑いである限り、そんなものは存在しないと思っている。笑いの根源を考えるなら「自分ではない不特定多数の誰か」を傷つけることで成り立っているのは歴史を見ればあきらかです。
だから「笑ってもらおう」という発信さえ、<たわいない>からは外れる。もちろん<刺激>のあるものや<知的好奇心をくすぐる>ものも、やっぱり<たわいない>とは違う。
もし<たわいない>が評価される時代になれば、みんなもっと<たわいない>ことを発信しようとする。そうなると自然とデマなんてなくなると思うんです。
ただもちろん、そんなのが面白いのかというとまったく別問題ですが、本当に面白いのは「ちゃんとしたメディアが発信してくれたこと」と「友人との馬鹿話」だけで十分じゃないかという気もする。というかインターネットに面白さを求めること自体がきわめて危険なことなのかもしれないなと。
<無償>で<責任を問うことがかなり難しい>インターネットという特性を考えると、面白さの行き着く先は必ず「一線を超えた」過激なことになるのは目に見えている。そして必ず、とんでもない実生活にさえ影響を及ぼすデマが今後、世界中で出てくる。
デマが何故起こったのかを考えるのは面白いけど、デマを起こさない方法を考えるのは無理です。
考えるよりもはるかに多い「賢者ぶったおっちょこちょい」を抹殺するしかないし、でもそんなの無理に決まってる。つまり「インターネット」という<強力な拡散ツール>かつ<無償で書き込める>かつ<責任を問えない>とんでもないメディアと、「賢者ぶったおっちょこちょい」との相性が悪すぎる。
というか今考えると豊川信用金庫事件なんて<たわいない>し牧歌的だわ。当事者は大変だっただろうけど、その後の悪影響がなかっただけでも笑い話として済ませられるような気がする。
せめてインターネットで今後拡散されるであろうデマもその程度で留まれば、と願うのですがね。
本文中のどこにもはめ込みようがなかったのでオミットしましたが「賢者ぶったおっちょこちょい」のサンプルとして、吉岡里帆と米津玄師のラジオトークのコピペってのがあります。ま、説明がメンドいので「吉岡里帆 ヨネちゃん」で検索してみてください。 実際のラジオでのトーク音声もネット上に上がっているけど、コピペとはまるで違う、きわめて悪意のある改変です。 もちろんね、冗談としてわかって茶化してる人もいっぱいいると思うのですよ。でも中には「あ、これ、音声聴いてなくてコピペだけを信じてるな」ってレスも散見出来るし、一番酷いのは「音声を聴いた上で「概ねコピペ通り」と思ってる」なんて、とんでもない輩もいる。 少なくともアタシには普通に思えた。あのラジオ番組は何度か聴いたことがありますが、もう「いつも通りの感じ」としか言いようがないし、米津玄師も普通すぎる。 ま、この程度ってことですよ。これは解釈がどうかって以前の問題なんだけど、わッかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ。イェーイ! |
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