Page2はいよいよ核心に迫っていきます。
「大魔境」はとにかく序盤から、ジャイアンの行動がことごとく裏目に出まくる。別に誰もジャイアンを責めるわけではないけど、拗ねるジャイアン、自責の念に泣くしかないジャイアン、といった短編では見られないような「弱い部分」が全面的に描かれるのです。
しかも短編とはまったく別の設定、というわけではなく、しっかりと心の動きを描くことで「ガキ大将で暴力的なジャイアンの本当の、真摯な姿」になってる。
そうした前段というか、キャラクターエピソードが如何に大事かはPage1に書いた通りで、ジャイアンの弱さを徹底的に描いたことで、例の5ページがとんでもない感動になるんです。
では具体的に見ていきます。
バウワンコ王国の王子だったペコだが、いわばクーデターのためにバウワンコ王国は虫の息になる。せっかくドラえもんたちをバウワンコ王国まで連れてきたものの戦局が好転することはなく、勝負あった、状況にまで追い込まれた。
これ以上ドラえもんたちを巻き添えにするわけにはいかない、と感じたペコはバウワンコ王国から離れることを提案し、自身はたったひとりで最後の戦いに向かう。
5人は誰も言葉が出てこない。ペコを見捨てる気はないが、ひみつ道具をほとんど置いてきたドラえもんでは加勢どころか足手まといにしかならないのはわかっている。だから言葉が出てこないのだ。
その間、ずっと腕組みしていたジャイアンが突然口を開く。
『ペコだけじゃどうにもならん。おれもいくぜ。』
みなが止める。それはそうです。ジャイアンが行ったところでどうにかなるわけではない。下手したら生きて帰ってこれないかもしれない。
そんなことはおかまいなしに、死をも覚悟したような、強い決意のもとにジャイアンはペコを追う。
すべてを察知したしずちゃんが口を開く。
『タケシさんは、あの人なりに、ず~っと責任を感じつづけていたのね。』
『そしていま、こんなかたちで責任をとろうとしているのよ。』
アタシはPage1で『しずちゃんは結局ナース的な役割にしかならず』と書きました。
ジャイアンと並んでしずちゃんも大長編という冒険ロマン物では扱いが難しく、これが登場人物が大人なら「のび太とのラブロマンス」という要素を組み込めるのですが、子供である限りそういうことも出来ない。
しかし、このシーンとその後の「想定外の方法で解決に導く」シーンでしずちゃんの役割が決まったと言っていい。「想定外の解決に導く」というのは割愛しますが、こうした「仲間たちの心情を誰よりも理解し、それを他の仲間に伝える」というきわめて重要な役割を担うことになったのです。
それにしても、このシーンはすごすぎる。
死さえ厭わず、自分の責任を正面から受け止め仲間を助けようとするジャイアンと、それを完全に理解して仲間に伝えるしずちゃん。
さらにすごいのはこの後です。
161ページから163ページの半分まで、セリフがひとつもない。なのに、ここまでの描写が完璧なのでセリフがなくてもすべての登場人物の心の動きが手に取るようにわかるのですよ。
だからこそ、この後の『これからなにがおこるにしても、ぼくらはず~っといっしょだよ。』というのび太のセリフに嘘くささが微塵もない。
こんなクサいセリフ、普通なら浮くんですよ。でもまったく浮かずに、ああ、のび太は本気で言ってるってのがわかるから、クサいではなく本気の<感動>になるのです。
ここで描かれているのは、人間としての強さと優しさです。いや、仲間のためなら強くなれる。生きるか死ぬかなど些細なことだ。それよりも仲間のために本気にならないことの方が人間としてよほど恥ずかしい。
だから、勇気を出すんだ。
たぶんこれは雑誌連載時にはなかったはずなんだけど、単行本ではこの後に見開き大コマになっており、映画の主題歌である「だからみんなで」の歌詞が転載されています。
映画を見ていない、大長編を読んでない人からすれば、この歌詞の主人公というか誰の心情を描いたものか、となればおそらくのび太と答えるのでしょうが、ここまで読んでもらえればお判りの通り、これは完全にジャイアンの心情なんです。
そうなんです。『♪ だからァぼくはァ弱虫なんだァ』から始まる歌詞はジャイアンを歌ったものなんですよ。
普段はガキ大将としてイバっているけど、本当は自分は弱い人間なんだ。だからこそ、本当に仲間が困っていれば、死ぬの生きるのだの言わずに勇気を振り絞って本気で行動しなきゃいけない。でも、そうすれば、きっとみんなもわかってくれる。仲間が助けてくれる。
そういう歌詞なんです。
「映画でのジャイアンはいつものジャイアンと違い男気を発揮する」とギャグのように言われていますが、その始まりはもちろん「大魔境」からです。
ただし、これは「男気」というようなものとはちょっと違う。むしろ覚悟です。男の覚悟、と言った方がいいか。
男が、とか書くといろいろイチャモンを付けられそうでコワいので人間の、ということにするけど、仲間のためにありったけの勇気を振り絞って覚悟を決める、これが感動を呼ぶ最大の装置なんです。
これはPage1で書いたような「誰かと離れ離れになります」とか「誰かが死にます」みたいな、いわば女々しい涙とはまったく別モンです。
もちろん親しい人と離れ離れになったり、大事な人がこの世を去る、というのは悲しいことではあります。しかし「感動」と「悲しい」はまるで別なんですよ。
悲しいから泣く、というのも、あり得ないことではありませんが、次につながらない後ろ向きの涙です。だから、イマイチ、当人以外には伝わりにくい。
後ろ向きの涙では、なかなか感銘を与えることが出来ない。ということを上手く説明するために、もう一作品、ドラえもんの短編の中から「あの日あの時あのダルマ」を例にしたいと思います。
個人的には「ドラえもんという作品の中から、たった一本短編を選ぶなら」これを選ぶんじゃないかと思えるほどなのですが、たった10ページのこの短編にはドラえもんらしい笑いと風刺と感動が詰まっていると思うからです。
ま、笑いと風刺は今回は割愛しますが、ここもちゃんと感動へのフリになっているのは「大魔境」でジャイアンの行動が裏目にしかならないのと同じ。
そしてラスト2ページはほぼ回想シーンになっている。登場人物はとっくに亡くなったおばあちゃんと幼少期ののび太です。
Page1に書いた「さようならドラえもん」と同じくそれぞれの思いを完全に描いており、「さようならドラえもん」が「ドラえもんの願い」と「それに応えようと死にものぐるいになるのび太」、さらに「それを受け止めたドラえもん」とするなら、これは「おばあちゃんの願い」と「それに応えようとするのび太」の図式です。
さすがに「さようならドラえもん」とは違い「死にものぐるい」にはなったりはしないし『あれから(筆者注・回想シーンの頃から)すぐ』に亡くなったおばあちゃんはのび太の思いを受け止めてはいないんだけど、実にさわやかな感動を与えてくれます。
この短編も実際に「おばあちゃんが亡くなる」シーンはない。あくまでのび太のセリフによって、この回想シーンの頃からまもなく亡くなったというのがわかるくらいです。
この回想シーン、というか、回想したのび太は涙が止まらなくなってる。でもこれも「おばあちゃんが亡くなったのを思い出して悲しい」から女々しく泣いてるんじゃない。のび太が涙を流したのは「おばあちゃんの<自分にたいする思い>を思い出し、受け止めたから」なんです。
おばあちゃんの「のび太にはこうなって欲しい」という思いは過去の悲しいことではない。むしろ未来ののび太に向けられたもので、しかも「いい大学に入って欲しい」というような<俗>なことではなく「人間としての強さ」の話なんですよ。
アタシもたいがい長く生きてるから痛いほどわかりますが、本当の人間の強さというのは、自分がギリギリに追い込まれた時にどれだけ相手を気遣えるか、とか、転んでも転んでも、それでも起き上がろうとする、とか、そういうことなんです。
そして大人になってみるとわかるもうひとつのことは、それを幼少期に説いてくれる人がどれほど重要かなんですね。だって、それは自分ひとりではなかなか気づけない。やはり、そういう人間としての根幹の<強さ>ってね、まず誰かしらからの示唆があって、それが心の底に残り続けて、ずっとそんな思いを抱えながらそれなりの積み重ねがないと自分のものにはならないんです。
アタシもジャイアン同様、そしてのび太同様、弱い人間です。でも弱いからこそ、腕力とか権力とかとは一切何の関係もない「人間としての本当の強さを持たなきゃいけない」というのは肝に銘じている。
藤子・F・不二雄は漫画を通して、人間としての強さとはこういうことだ、と押し付けがましさ皆無でずっと説いてきた。その先にあるのは感銘であり、感銘を受けた読者、つまり子供たちは心の底にそういうことが引っかかりながら大人になっていく。
女々しい大人になんかなるなよ
どんな時も相手を気遣える人間になれよ
そうしたメッセージをアタシが子供の頃は藤子・F・不二雄から<まったく意識することなく>受けてきたのです。
では、返す刀でアレですが、現今、アニメーション映画にしろCG映画しろ、ドラえもん映画にかかわっているスタッフがそうしたことを創作のベースとして持っているかというと、甚だ疑わしい。むしろ藤子・F・不二雄が否定してきた「後ろ向きの、女々しい感情」全肯定ではないかと。
昨今はフィクションにかぎらずバラエティ番組でさえ説明過多な時代と言われています。
何度も何度も同じ説明をなぞって、途中から見ても大丈夫、キチンと理解出来ますよ、てなね、何だか親切を履き違えたようなものが横行している。
1時間なら1時間、2時間なら2時間の間に何度もしつこく同じことを反復するんだから、当然内容を薄くせざるを得ない。2時間の映画であっても1時間に満たないような内容にしか出来ないし、もちろんキャラクターエピソードなんか、テキトーもテキトーの薄いものになるしかない。
今の子供たちや若者に人気のYouTubeが「むしろ内容が薄い方がいい」というのはわかるんです。何故ならあれはタダだから。タダである限りいわゆる流し見もながら見もアリっつーか、何となく楽しければその方が邪魔にならなくて済むという理屈はよくわかる。
しかし映画がそれでいいのか、という気がしてならない。いや、これだけ同じ説明を反復(というか反芻)して内容が薄いのであれば、単純に向くメディアを考えれば映画じゃなくてテレビスペシャルで十分じゃないか?と。
映画館でカネを払って、流し見でもながら見でもなく<集中して>観る唯一のメリットが<泣ける>ってのはあまりにも悲しいし、あまりにも馬鹿にしている。
つか映画っていつから「泣けるかどうか」だけが物差しになったの?もっともっと、いろんな感情を動かしてくれるメディアじゃなかったの?
メディアの特性を履き違えて、YouTubeなどの一部のインターネットメディアに求められているものを<まんま>映画にも当てはめて、その答えが「ドラ泣き」だったとするなら、冗談じゃなく藤子・F・不二雄も草葉の陰から泣いてるわ。
藤子・F・不二雄は「子供たちよ、こういう大人になれ!」とか陳腐なメッセージ性を全面に押し出すなどという幼稚なことはしなかった。
さらりと物語にメッセージを溶け込ませて、心の奥底にストーリーと一緒に、少しでも残存してくれればいい。それだけで、きっと大人になって作品を思い出した時に、あの作品にはこんなメッセージが込められていたんだ、と気づいてくれるはずだ。
そしてたぶん、大人になって思い出すのは、そんな隠されたものだと思う。わかりやすく大々的に謳ったものは「今すぐ、作者である自分をアゲて欲しい」という一種の宗教活動に近い。
どの作品、誰が作者とは言わないけど、あのな、子供をナメるな。そんなことをしたって、所詮すぐ子供の意識から消えるよ。
いや、別に藤子・F・不二雄とはまったく関係がないオリジナルでやってくれるなら勝手にしたらいい。でも「原作 藤子・F・不二雄」と入ってる作品で氏の思いと真逆のことを平然とやる人たちが信じられないだけなんです。