いきなりですが、大長編ドラえもんの中で一番好きな作品は今回の主題である「のび太の大魔境」(以下、大魔境)ではありません。
もう、自分の中で、大長編ドラえもんの最高傑作は決まってる。それは「大魔境」の前作にあたる「のび太の宇宙開拓史」(以下、宇宙開拓史)です。
にもかかわらず「複眼単眼」の主題として「大魔境」を選んだのは、近年の「ドラえもん」という作品、とくに映画版に強くその傾向があらわれている「感動」にそこはかとない違和感があるからです。
毎年3月に公開される(2020年は新型コロナの影響で8月になりましたが)アニメ版も、これまで計2作つくられたCG版も、私見では「遮二無二泣かせにきている」と感じているんです。
というか別にドラえもんに限らず、どうもアタシは「泣けます!」みたいな惹句がついた映画(つかフィクション)が苦手なのですな。
というかさ、映画なんてどう見たって、つまり見終わった後にどんな感想を持ったっていいわけですよ。別にホラー映画を見て爆笑しちゃいけないってきまりはないんだし。
だからドラえもんとて例外ではないってだけの話なんだけど、それにしてもCG版の「ドラ泣き」という惹句には寒気がする。しかもその泣かせ方があまりにも安っぽい。だから、まァ、正直こんな安っぽい泣かせを見せられていくことになる今の子供たちが不憫にさえ思っているのです。
安っぽさは<安直>と言い換えてもいいのですが、あえて同じドラえもんから例を出してみます。
CG版1作目はてんとう虫コミックス第6巻収録の「さようならドラえもん」をベースにしていましたが、もちろん全話中でも屈指の感動話であることは否定しません。アタシだって子供の頃に読んで号泣したしさ。
でも肝心なのは、実は「ドラえもんとのび太の<別れ>」で泣いたわけじゃないんですよ。
「ドラえも~ん!行かないで!」
「のび太ァ~!僕も離れたくないよ~!」
なんて場面があるのか、というと、ない。というか実際にドラえもんとのび太が離れ離れになる<瞬間>は描かれていないのです。
もし、こうした場面を漫画上で表現していたなら、けしてアタシは号泣することはなかったと思う。何故なら、そういうシーンはどう描こうが安っぽくなることを避けられないんです。
「さようならドラえもん」はそうはなっていない。そうしたシーンを巧みに<省略>して、とくにのび太の<葛藤>にコマを割いている。
ドラえもんが帰るのを拒否するのび太→受け入れるのび太→しかし今のままの自分ではドラえもんが安心出来ないのではないか
と来て、偶然ジャイアンと対決することになるまでを短いページ数で過不足なく描いている。
実はここまでが驚異的なのですが(普通の漫画家なら<葛藤>に長いページを費やすか、いきなり<コト>を受け入れる)、いよいよ始まるケンカシーンがすごすぎる。
案の定のび太はジャイアンにボコボコにやられる。それでも食らいつくのび太。けしてドラえもんに頼ろうとしないのび太。
そこにあるのは、それまで描かれたのび太像とまったく違う。いやケンカが弱いといったスペックは同じだけど、どんなことがあっても怯まない、本当に成長したのび太を見せてくれるのです。
人間というのは、誰かを守るため、誰かを安心させるためにはこれほどまで変われるのか
そして、のび太にとってドラえもんは「便利な道具を出してくれるだけのロボット」ではなく、本当に、心からの友達だったんだ
そうしたことを読者は突きつけられる。
そして、ダメを押すのが最後ののび太のセリフです。
『見たろ、ドラえもん。』
『勝ったんだよ。』
『ぼくひとりで。』
『もう安心して帰れるだろ、ドラえもん』
これを書いてるだけでアタシも泣けてくるけど続けます。
つまり、こうして見ればわかるように<別れ>なんて<きっかけ>でしかないのです。それよりも、のび太がドラえもんのことをどれだけ強く思っているか、そしてドラえもんがのび太の気持ちを全力で受け止めたか、そこが重要なんです。
もうひとつサンプルを出すなら黒澤明監督の「生きる」です。
この映画、主人公は亡くなるのですが、亡くなるシーンなんて、ない。死んだことはナレーションで済まされ、いきなり通夜のシーンに飛ぶんです。
主人公が死んだから、感動する。そんな安っぽい感動なんてあるか。まるで泣かせるのを拒否するように、役人たちのエゴ剥き出しの、通夜で起こるディスカッションになるからこそ、感動とか泣かせを超えた深い感銘が得られるわけで。
誰かと離れ離れになります
誰かが死にます
その瞬間を描いて<感動>もクソもない。
肝心なのは登場人物たちの<思い>や<感情>なのです。死ぬとか離れ離れになるなんて、ただの<きっかけ>なんですよ。
もちろん<きっかけ>があるからそういうシーンが作れるんだけど、安直にそこを描いてもね、少なくともアタシは泣けも感動もしない、と。
大長編に話を戻しますが、大長編の場合、その作品にしか出てこないゲストキャラクターが登場する以上、どうしても「出会いと別れ」が必須になります。
しかし、藤子・F・不二雄が原作を描いた大長編に限るなら、ちゃんと読み返せば<別れ>にかんしては思ったよりもあっさりしていることに気づくはずです。
「野生のエルザ」を下敷きにしたという「のび太の恐竜」はやや感動的に描いていますが、あれも号泣して別れを惜しむから、ではなく、のび太が耳を押さえてタイムパトロールに早く行ってくれ、というところがキモなんです。
ところが藤子・F・不二雄逝去後はこうした不文律が破られた。
アタシが藤子F逝去後の映画で初めて観たのは「のび太とふしぎ風使い」でしたが、映画の出来の悪さもさることながら、フー子との別れを真正面から描いていたのは唖然としました。いやいや、そういうことじゃないだろうと。
そして声優変更後、いわば仕切り直した後の映画はさらに輪をかけた感じで、しかも「さようならドラえもん」のようにキャラクターエピソードや登場人物の心の動きをちゃんと描いていないから「何だか泣かせよう泣かせようとしているけど、いったい何に泣けばいいのか」としか思わないんですよ。
これはアタシが大人になったから、とかは微塵も関係ない。ちゃんと、フィクションとしてやるべきことをやっていれば、大人であろうが泣けるんです。つか子供の頃より今の方が絶対に涙腺が弱くなってるんだから、むしろ簡単に泣けるはずなんだけどね。
さて、いよいよ「大魔境」の話に行きます。
実際、「大魔境」で泣けるのはゲストキャラクターであるペコとの別れのシーンではありません。というかこれまた別れのシーンは実にあっさりしており、涙もなく笑顔で「いい王さまになってね。」というだけ。いやもっと言えば先取り約束機で近々にドラえもんたちとペコは再会するんだから別れもヘッタクレもない。
ではどこに感動するのか、それはてんとう虫コミックスで言えば159ページから163ページ、たった5ページです。ですが、この5ページこそ、ある意味藤子・F・不二雄という漫画家の集大成と言える傑作シーンになっているんです。
ここから想像が入ってしまうのですが、正直、作者である藤子・F・不二雄は「5人一組」のチームに手を焼いていたというか、上手く機能していない、と感じていたのかもしれません。
5人以上を一組、主人公チームとして同一の行動をさせる、というのは、実はかなり難しいのです。
主人公というのは多くて3人で、しかも主人公とヒロイン、そしてそのキーパーソン、というような各人がバラバラに行動するのなら、まだ何とかなるというレベルです。
それが複数人一組の行動、となると、こと映画や大長編くらいの長さのものに限ると成功例を探す方が難しい。
わずかな成功例として邦画なら「七人の侍」、洋画であれば「オーシャンズ11」や「黄金の7人」、あと<一組>と言い切っちゃうと違う気がするけど「大脱走」くらいか。
アタシの好きなクレージーキャッツの映画で言っても「7人一組の行動」で成功したのは「クレージー大作戦」くらいで、しかもアタシ的に成功と思っているだけでかなり賛否がある。
もちろん11人よりは7人、7人よりは5人の方がまだ成功はしやすいんだけど、それでも難しいことには違いない。
こうしたチーム一組の行動が難しいのは、キャラクターエピソードを作りにくいからです。
1時間半なり2時間の映画では、どうしても中心となるひとりふたりのキャラクターエピソードしか描く時間がなく、他の登場人物は「ただ、一緒に行動しているだけ」になりがちなんです。これではせいぜい足手まといキャラが関の山にしかならない。
これは大長編にも同じことが言える。
ドラえもんと、精神的主人公であるのび太が必要なのは当然として、では他の3人は本当に必要なのか。ドラえもんとのび太だけで冒険させてもいいのではないか。
「のび太の恐竜」のボツ台本(初稿)では出木杉がチームの一員だった、というのはわりと有名な話だと思います。ただ出木杉がチーム入りすることで「すべてを出木杉が解決してしまうので物語として盛り上がりに欠ける」という欠点があった。
しかしそれよりもさらに問題なのは「何をやっても優秀な出木杉がチームの中心になりすぎて、ドラえもん以外の4人はただの足手まといでしかなくなる=ただ一緒に行動するだけの一種のモブと化してしまう」というところです。
足手まといキャラを増やすだけになる出木杉がチームから外されたのは当然で、初稿で出木杉が考案したアイデアはスネ夫やしずちゃんに割り振られた。
しかし出木杉を外したところで、まだスネ夫はメカニック担当的なニュアンスで活躍の場が作れるものの、しずちゃんは結局ナース的な役割にしかならず、ジャイアンなどはいくら力が強いといっても所詮は小学生であり、鍛え上げた大の大人たちと五分に渡り合うというのは無理がある。
こうしたこともあってか、第2作の「宇宙開拓史」は、ほぼドラえもんとのび太のふたりチームで、他の3人は終盤にちょっと助太刀をする、まァいや助っ人的な扱いです。
つまり、もしかしたら大長編のフォーマットとなった「5人一組の行動」は「のび太の恐竜」一作で終わっていた可能性もあったんじゃないかと。
しかし藤子Fはそれを良しとしなかった。
藤子Fが映画通というのは有名ですが、先ほど指摘した「チーム一組の行動」が難しいというのを知らないわけがない。ましてや(アイデア出しと一部キャラクターの作画だけとはいえ)「レインボー戦隊(アニメ作品は「レインボー戦隊ロビン」)」で経験済みです。
それでも大長編はバディ物ではなく、あくまでチームで動く、ということにこだわったんだと思う。理由はまったくわからない。だけれどももしかしたら、これかな、と思える作品があります。
映画ドラえもんの第2作「宇宙開拓史」と第3作「大魔境」の間に、ナンバリングされていない番外編というべき映画が作られています。それが「ぼく、桃太郎のなんなのさ」です。
ドラえもん映画は春休みの公開が基本となりましたが、「宇宙開拓史」が公開された1981年は夏休みにもドラえもん映画を上映する、という構想があったらしく、藤子不二雄(当時の共同名義)の他の作品をアニメーション映画化してメイン上映作とし、ドラえもんを併映にまわす、という感じだったらしい。
結果、メイン作品に選ばれたのが「21エモン」で、ドラえもんは中編(46分。これはドラえもん映画では最短)の「ぼく、桃太郎のなんなのさ」が作られたのです。
「ぼく、桃太郎のなんなのさ」の原作はてんとう虫コミックス9巻に収録されていますが、これまた番外編というか特別編で、ドラえもんとのび太が同じく藤子Fの別作品「バケルくん」と共演するという、いわば企画物です。
たぶん「バケルくん」をこういう形から露出させるのは良くない、という判断があったんだと思う。結果、バケルくんのキャラクターは外され、いつものドラえもんメンバーに置き換えられた。
ところが瓢箪から駒というか、キジ=しずちゃん、犬=スネ夫、猿=ジャイアンというのはピッタリで、いわば初めて「チーム一組の行動」が活かされた作品になったのです。
そう考えれば、やはり、困難であろうとチーム一組の行動でやった方が物語の幅が広がる。
そうした方向性をはっきりさせるために「大魔境」を「精神的主人公をのび太ではなく、一番扱いが難しいジャイアンにする」と決めたのではないか。
ここらへんでPage2に続きます。