Page1の終わりにニュース映画について書いていきましたが、もう少しこの話を続けます。
ニュース映画が作られだしたのは大正期からですが、需要が本格的に高まったのは1930年代になってからです。
これは軍事体制とは無関係ではない。「我が軍の華々しい戦果を是非映像で見たい」という声が大きく、取り上げられるニュースも事件や事故、季節物よりも戦地での様子や陛下の動向が好まれ、数を増やしていきました。
これに目をつけたのが当局(つまり軍部)で、1940年から検閲なしにニュース映画を作れなくなった。くらいならまだしも、内容のすべてをコントロールされるようになり、やがて「事実とは大幅に異なる」虚偽のニュースが「大本営発表」という名の元に上映されるようになったのです。
しかし皮肉にもニュース映画の全盛期はこの「大本営発表」時代でした。
その後も、つまりは戦後になってからも民間主導でニュース映画は作られていましたし、戦時下に比べると需要は減ったとはいえ、それでも一定の人気はあったんです。
ニュース映画、この場合はニュース映像といった方が正確だけど、非常に不思議なもので、極端に向き不向きがある。それこそ戦果を伝えるようなものは映像があった方が圧倒的にいい。しかし大規模な事故はともかく「その瞬間」の映像があるわけがない殺人事件などは映像の有無はほとんど関係ないのです。
映像として見たいほどのニュースが起こりづらくなった戦後にニュース映画の需要が低下するのはやむを得ないことでした。
<戦後>という言葉が色褪せてきたのは1950年代に入ってからですが、一見地味目なこの時代は間違いなく「その後の日本経済」を決定付けた時代だと言っていい。
まず変化が現れたのは雑誌です。
戦前の雑誌を見てもらえればわかるのですが、現在発行されている雑誌に比べると広告が少ない。それが1950年代くらいから急速に増えていってるのがわかります。
そして、これまでわざと外してきましたが、テレビの存在です。
日本初の民間放送テレビジョンは正力松太郎によって設立された日本テレビですが、画期的だったのが「広告付き無料」というビジネスモデルで始められたことです。
もちろん日本テレビが本邦初ではない。やや先行して開始された民放ラジオは「広告付き無料」だったから。ただテレビとラジオでは制作費がまったく違う。にもかかわらずこのビジネスモデルを採用したのはアメリカでのテレビジョンの影響だろうけど、それでもよく決断したと思います。
こうして見れば1950年代は広告付き無料というビジネスモデルが始まった時代だとわかっていただけると思う。
たしかにテレビの登場で、ほんの数年前まで有料だった映像付きニュースは無料になったし、映像でのフィクションもテレビで楽しめるようにはなった。
しかしその影響は意外にも限定的でした。
テレビが本当に駆逐したと言えるのはニュース映画だけで、テレビ向けに作られたフィクションは予算や生放送が基本といった縛りのせいで到底劇映画には及ばないものしか作れなかった。
各映画会社はテレビへの警戒が強く、映画スターがテレビに出演することはほぼ不可能で、仮に旧作であっても劇映画をテレビで放送するのを許可しませんでした。
この流れが本格的に変わったのは1960年代後半になってからです。
たしかに映画会社と専属契約を結んだ映画スターはいっぱいいましたが、デビューが銀幕ではない、つまりテレビタレント上がりの映画スターが続々登場し始めたのです。
その代表がクレージーキャッツと渥美清で、彼らはテレビと<同じ比重で>映画にも出演していた。
こうした経緯があって映画への価値が相対的に下がった。同時に巨大産業になりつつあったテレビは、少なくとも予算にかんしては映画と肩を並べるだけになっていったんです。
結果としてテレビが急速に力をつけたことで映画関係者はテレビへの接近を模索し出す。市川崑や木下惠介がテレビ番組製作のためのプロダクションを作ったり、銀幕中心に活躍したスターもフリーになったものはどんどんテレビに進出し出した。
映画会社もテレビ用フィクション製作のための子会社を設立するなど、質的にも一気に向上し始めたわけで。
これはどんな業界にも言えることかもしれませんが、崩れだすと早い。1970年代に入った頃には映画会社は総崩れになり、大映は倒産、日活はロマンポルノへと舵を切り、残った東宝、松竹、東映も週替わりプログラムを止めて製作本数を大幅削減します。
そしてこの頃からテレビドラマはさらなるステップを始めた。
テレビ畑出身の五社英雄、和田勉、久世光彦、佐々木昭一郎といった優秀な人材がそれまでの劇映画とはあきらかに違うものを創造していったのです。
だからといって「この時点でテレビドラマはクオリティにおいても邦画に追いついた」とは言わない。しかし<無料>だったり<自宅て楽しめる>といった付加価値を合わせて考えるなら同等になったと言っていいと思う。
映画会社が一番困ったのは人材の枯渇でしょう。
ほんの少し前なら映画業界を志したような人材が「新しく、魅力的」なテレビ業界に流れる。古い人材でなかば無理矢理「今風の」映画をこしらえるから余計旧態依然に見える、という悪いスパイラルに入ってしまったのです。
ではテレビは、というと、昨今テレビはテレビでその不自由さから人材が枯渇しだしている。
実はこのふたつは衰退の理由が同じなのです。
つまり「日本人はエンターテイメントというコンテンツにお金を落としたがらない」という。
お金を落としたくないから映画館には足を運ばない。その点テレビは広告付きとはいえ無料なんだけど、その代わり忖度の相手が視聴者ではなくスポンサーに向いている。そして昨今のような不況が続くと「カネを落としてくれる」スポンサー企業の発言力は増大し、ますます視聴者は置いてけぼりにされてしまう、という。
はっきり言いましょう。日本のエンターテイメントコンテンツが貧弱なのは「日本人があまりにも<無料>を好みすぎる」からです。
いや無料を好みすぎるというよりは「生活必需品以外にカネを落とすのを嫌がりすぎる」と言った方がいいか。
先ほどより書いているように、一番の元凶は不況なのです。ではバブル期はみなもっとエンターテイメントにカネを落としていたか、というとそこまででもない。当時はパソコンで映画や音楽を無料(違法)ダウンロード、なんてことはもちろんなかったけど、CDがあれほど爆発的に普及したのはCDレンタルを兼ねたレンタルビデオ屋と、CDラジカセのような「簡単にCDからカセットテープにダビング出来る」機器が登場したからです。そりゃあCDを買えば3,000円なのにレンタルなら300円、つまり1/10なんだからそうなるのは必然です。
それでもこの頃までは、バブル期とかそんなことは関係なく、まだ「エンターテイメントコンテンツにカネを落とす」という人もそれなりにいた。だから1990年代になってバブルが弾けてからの時期にミリオンセラーのCDが数多く生まれたわけで。
人間なんだから「より安く」を求めるのは仕方がない。ただ昨今は少し行き過ぎで、タダが当たり前になりすぎた。
人材はね、本当はいっぱいいるんですよ。でも先行きが明るいとは言えない業界に優秀な人材が集まらないのは当然だし、良いものを作ったり、人々が関心を寄せるコンテンツを作った人が金銭的なメリットがなければその業界は衰退するんです。
そんな中、とんでもない黒船がやってきた。それがYouTubeです。
YouTubeはたぶんまったくの偶然なんだろうけど、もっとも日本人が好むシステムを構築してきた。動画配信サービスで日本ではやや先行していたはずのニコニコ動画(サービス開始時期の話ではない)が「月額有料」というiモードで失敗したやり方を踏襲するしかなかったのにたいし、YouTubeは「広告付き無料」であり、しかも「コンテンツ作成者に公平な還元」をしたんです。
そこまでならたいして偶然性はないんだけど、YouTubeが画期的だったのは「広告の扱い」にかんしてなんですよ。
テレビであれば、何か番組の制作をするとなればテレビ局は広告代理店を通じてスポンサーを募る。スポンサーがいなければ制作費が出ない=番組が作れないからです。
つまり制作の初期の段階からスポンサーが決まっている。よしんば後からだったとしてもスポンサーは必ず番組のチェックをする。番組中にスポンサー企業にとって都合の悪い表現が入ってたり、企業のイメージダウンになるようなタレントが出演している場合は訂正を求める。
これが当たり前というか、従前の<やり方>だった。
よく「テレビ番組の内容に文句を言いたければテレビ局にいくら言っても無駄。それよりその番組のスポンサーにクレームを入れるのが一番効く」と言いますが、テレビ界においてスポンサーは王様なのです。
このことはテレビ黎明期から危惧されていた。1960年に日本テレビで作られた「光子の窓」のスペシャル番組「イグアノドンの卵」にて<風刺>という形で「スポンサー=王様」と活写されていたんです。(何よりすごいのは実際のスポンサー(資生堂)を本当に<王様>扱いして揶揄しているところで、こんな大それた番組は空前絶後だと思う。ま、資生堂はシャレがわかった、ということにするしかない)
ところがこういうことがYouTubeでは不可能なんです。
たしかにYouTubeは広告があります。ところが「どの広告がどの動画に付くのか」は動画配信者さえわからない。企業側はある程度は「出来ればこういう動画に広告を、逆にこういう動画にはつけないで」みたいに指定出来るのかもしれないけど、動画の内容まではチェックしようがない。となると「企業としてふさわしい動画か否か」みたいな判断は不可能になるわけです。
もちろん動画配信者=動画製作者も、何しろどんな広告が付くのか把握出来ないんだから、スポンサーに忖度も配慮もやりようがない。だから、あくまでYouTubeの規約に沿う形ではありますが、視聴者目線で面白いものを発信することが出来るのです。
つまり視聴者側はテレビのようなスポンサーの顔色をうかがうようなものではない、エンドユーザーファーストのコンテンツを<無料>で閲覧出来るということになる。
もちろんGoogleが以前から取り組んでいた、ユーザーに合わせて広告を変える、という手法をYouTubeに持ち込んだだけなんだろうけど、それが日本という国において、あまりにもビタッとハマった、ということか。
アタシはね、テレビも恥じることなく、この手法を導入すればいいと思っているんです。
いや、それでも現時点ではいろいろ難しい。何故ならテレビ局自体が番組を作っているからで、映画のように映画会社本体ではほとんど映画を作らない、やっても設備や人材の提供のみ、とはまだぜんぜんいってない。
とにかく制作会社はまずスポンサーへの忖度とか一切考えずに、面白いものを作る。それがバラエティでも連続ドラマでも単発ドラマでもドキュメンタリーでも一緒です。
んで出来上がってきたものを、その制作会社の営業が「どのメディアで発信するのが一番ふさわしいか」を考える。内容を一切弄らなくてもテレビでやれそうだな、と思えばテレビでもいいし、またスカパーとかも当然アリです。
Netflixなどのサブスクリプション型の動画配信サービスも対象になるし、これ、実は再生回数が稼げそうじゃね?となったらYouTubeに流してもいいわけです。
こういう具合にテレビ局と制作が完全に切り離されたら、テレビ局は本当の意味で土管屋になればいい。テレビ局としては一切モノを作らない、ただ買い付けたコンテンツを流すだけ、という。
それではテレビ局は完全に土管屋に徹しろってことなのか、というと、それだけじゃない。
昨今はインフルエンサーなんて言葉がありますが、テレビ局はテレビ局で「どのようなコンテンツを買い付け、どのようなプログラムで流すか」というインフルエンサーに近い能力が求められる。
こうなると優良なコンテンツは各テレビ局、映画会社、Netflixなどを交えての争奪戦が起こる。結果、コンテンツを作る側は「好き勝手に作れて、しかも儲かる」というね。
ただしそうなると制作会社は自己資金がかなり必要になるんだけど、それでも「カメラを止めるな!」のような少ない資金の作品でも公平になるメリットもあるし、現にユーチューバーは自己資金で制作して多額の利益を得ている人もいますからね。
たとえば吉本なら現時点でも吉本としての制作会社でYouTubeコンテンツを作ってるんだから、それをまるまるテレビ局に売ればいいし、プロ野球中継も、阪神タイガースは自社で「Tigers ai」ってのをやってるんだから、その中継映像を(アナウンサー、解説者込みで)テレビ局に売ればいい。もっともスカパーですでにやってるけどね。
扱いが一番難しいのがニュースなんだけど、本当ならニュース専門の制作会社が複数あって、取捨選択して流すのが公平です。これならどこのテレビ局が右か左かとかもなくなる。
ま、それは田中角栄に喧嘩を売る話になるけどさ。
しかしね、それもいずれは行き詰まる気がしないでもないんです。
たしかにスポンサーと製作者(制作会社)が密接していないというのは画期的なやり方だとは思う。んでテレビ局がインフルエンサーとしての機能を持つ土管屋になるってのも、テレビが復活する材料にはなるはずです。
それでも、結局は「エンドユーザーが自らエンターテイメントにカネを落とす」国のエンターテイメントには勝てないと思う。
日本の中だけで閉塞的にやるって開き直るならそれでもいいけど、せっかく人材はいるのにどんどんエンターテイメント後進国になりかねない。
ま、それには、やっぱ景気だよね。まず金回りが良くなって、やっとそれから「もっとエンターテイメントコンテンツにカネを落とそうぜ」って話も出来るわけで。
「無料、というビジネスモデル」は結構奥が深いぞ、と思って書き始めたのですが、自分でも良い感じで書けたと自負しております。 |
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