一時期、通信インフラの、とくに携帯電話キャリアにたいして「土管屋に徹しろ」と言う声が大きかった頃がありました。
携帯端末、まァ今ならスマホってことになるわけですが、端末をすべてSIMロックフリーにしてパソコンやなんかと同様に家電量販店などで販売し、好みのキャリアと自由に契約するようにした方がいいんじゃないかという意見なんですが。
しかし面白いもので、キャリア各社が(ま、総務省の指示で<仕方なく>なんだろうけど)SIMロックの解除をやり始めてからはそうした声があまり聞こえなくなった。
実際には今でも「新規、もしくは他キャリアからの乗り換え時に端末を大幅に割引して販売する」ってのが続いてんだけど、結局はネットにありがちな「儲けて<そう>なところを叩きたいだけ」だったり「自分がなるべく安く利用出来ればそれでいい」だったりしただけなんですよね。つまり自分が損をしなければそれで良くて、本当は社会的にどうこうとか公平性みたいな話とはまったく別次元だったと。
ただ、仮にそうだとしても、土管屋に徹しろ、なんて言われたのは携帯キャリアと、あと有線の通信通話回線を設置する会社だけで、他の業種ではあまり言われない。
というか、どうもこの「土管屋」という表現が引っかかる。もちろん差別用語じゃ、みたいな話じゃありませんよ。そうじゃなくて、他の業種を含めてね、本当に土管屋に徹するって発想がどうなのか、いろいろ書いてみたくなったわけで。
てなわけで今回のお題は「無料」についてです。
現段階で「土管屋」と「無料」は話がつながっていませんが、まァそのうちつながります。
いや個人の損得のようなミミッチイ話じゃなくて、実は土管屋に徹することが日本のエンターテイメントを発展させる術なのではないか、と思うわけで。
とはいえまだぜんぜん何も伝わってないと思うのは重々承知していますので、これからアタシがそう思うようになった<くだり>を書いていきます。
さて昨今、極端な雑誌不況が深刻で、老舗雑誌を含めてどんどん廃刊になっています。
ってその前に誤解なきように説明しておく。
雑誌が使命を終えて定期的に発刊されなくなる場合、ごく一部の例外を除いて<廃刊>ではなく<休刊>という表現を使います。
例えば蕎麦屋などの個人商店を閉店する場合、表戸に「しばらくの間おやすみをいただきます」と張り紙を貼ってあったりしますが、まァ、よほど鈍い人でなければこの表現で「店が潰れた」とわかる。店を再開する意思があれば普通は「○年○月頃まで」と一応は期限を書くわけで、それをせずに「しばらくの間」なんて表現を使わざるを得ないってのは、まァ要するに「潰れた」というネガティブな表現を使いたくないから、もっと言えば「最後のプライド」と言えるのかもしれません。
これと同様に雑誌の<休刊>という表現を捉える、つまりプライドの問題と思われる人もいるかもしれないけど、そうじゃない。
早い話が取次店の問題です。各雑誌には雑誌コードが付いており、これがないと各書店への配布が非常に困難になるんです。(さすがに何故かは割愛する)
雑誌を<廃刊>してしまうと雑誌コードも抹消されてしまう。んで一度抹消してしまうと再取得(というか新規取得)が非常に難しい。だから<休刊>という体裁にして、今後同出版社で新創刊されるであろう新雑誌のために雑誌コードを残しておく。いわば使い回しです。
簡単に言えば「プライドの問題」ではなく「出版社の都合」と言えばいいのかね。
しかしこれだけ雑誌不況になると雑誌コードを維持することに疑問をおぼえる出版社が出てこないとも限らない。雑誌コードのためだけにわざわざ休刊なんてしなくても別に廃刊でもいいんじゃね?と考える出版社も出てくるんじゃないかと。会社を<身売り>する時も雑誌コードを持ってる云々で売却額も変わりそうにないっていうか。
こうした雑誌不況の話でよく語られる背景が「インターネット」の存在です。
ただ、皆無、では絶対ないけど、インターネットの存在によって雑誌の存在意義がなくなった、とは必ずしも言い切れないと思っています。
かつてなら出版にかかわってきたような人材が自己発信出来る時代になって流入してこなくなった、とか、暇つぶしの役割しか担えない雑誌ならウェブサイト閲覧で十分だとか、情報の伝達速度という面で週刊や月刊の雑誌では太刀打ち出来ないとか、ま、それはそうに違いないかもしれないけど、正直その程度ならもっと生き残る道はあったと思うんです。
いやね、これだけ雑誌不況だなんだと言われているわりに、んで実際発行部数が落ち込んで廃刊が相次いでいるわりに「出版社が潰れた」なんて話はあまり聞かない。
というか、少なくとも現存する雑誌にかんしては「中長期的には厳しいかもしれないけど、今すぐどうこうというレベルで赤字を垂れ流しているわけじゃない」と思うんです。
それこそね、コンビニなんかに行ったらわかるでしょ。コンビニだって一応は「導線」を用意してるけど、たいていの店舗は入ってすぐの窓際、という、いわば一等地が雑誌コーナーになってる。スペース的にもかなり占拠している。
もし本当に、まったく雑誌ってメディアが箸にも棒にもかからないのならこんなことはしない。向こうも商売なんだから一等地を明け渡すだけの理由があるはずです。
現実として現存するほとんどの雑誌は数年前に比べて大幅に発行部数を減らしているのは間違いないとして、「大幅に減って」「多くの雑誌が休刊の憂き目にあって」、それでもコンビニという現代の小売の、ある意味チャンピオンで、まだ一等地を占拠出来ている、というのは考えてみれば驚異的です。
ここで雑誌を発行する出版社がどうやって成り立っているのかを少し考えたい。
アタシはかつて超弱小出版社に在席した経験があります。こういう場合、会社としての規模が小さければ小さいほど<仕組み>が理解しやすいのです。
雑誌において重要なのは「雑誌の売上」です。いったい何部売れたか、当たり前だけど商売として雑誌を作ってるんだから雑誌を買ってくれる人がいなければ話になりません。
しかしですね、雑誌の売上=出版社の収益ではないのです。つまり他にも収益源がある。
ま、多少なりとも出版にかかわりのある方なら、もしなくてもね、どんな雑誌でもいい。その雑誌をめくってもらえればわかりますが、要するに「広告」です。
ほとんどの雑誌はページの半分近く、下手したら7割くらいのページが広告に充てられています。だから、極端に言えば雑誌がたった1部も売れなくても大赤字にはならない仕組みになってる。
ま、当然のことながら、売れない雑誌に広告を出す莫迦な企業はないし、発行部数が多ければ多いほど広告料金も高額になるので、結局は売上は大切なんですがね。
しかしこうも言える。300円400円の雑誌が多少売れたところで売上的にはたかがしれてる。でも売れれば売れるほど=発行部数が多ければ多いほど広告収入が馬鹿にならなくなる。
と、ここまで言えばフリーペーパーなんてものが何故成り立つのかがお判りになるはずです。仮に販売価格がゼロ円、つまりタダでも中身まで読み込む人が多ければ広告を出す企業がある。それで誌面を作る経費をまかなえて利益が出せるのです。
フリーペーパーとまったく同じビジネスモデルなのが民放のテレビやラジオです。
エンドユーザー=末端のコンテンツ閲覧者、つまり視聴者や聴取者はタダ、その代わりCM(広告)が付く。んでその広告は企業が提供する。
アタシは諸外国がどうとかはぜんぜんわからないけど、結局日本で一番スタンダードなっているというか成功しやすいのはこうした広告ありきのビジネスモデルだと思う。
実はインターネットも同じなのです。
ドコモをはじめとしたキャリアが有料コンテンツの仕組みを作り、一旦は成功しかけたけど上手くモデルチェンジ出来なかったのも、大半の日本人に「コンテンツはタダであるべき」というのがあまりにも根付きすぎた結果だと思う。
妥協点としてサブスクリプション、つまり毎月定額を払えばコンテンツの閲覧が自由になるってのは今後根付く可能性はあると思うけど、ではサブスクリプションが「広告付き無料」を完全に凌駕する時代がね、日本で来るかは相当疑問です。
こういう視点から見ればわかるように、日本で作られるコンテンツの大半がエンドユーザーファーストでないのは、大半の人々が「広告付き無料」を望むという志向があるからなんです。
広告付き、となった時点で、どうやったってスポンサーファースト、つまり企業ファーストになってしまう。企業ファーストなんてつまらなくなるに決まってる、エンドユーザーファーストにしろ、というわりにはエンドユーザーはタダを好むっていうかカネを出したがらない。
でもこうした傾向は比較的最近、いや最近っていうと語弊があるな。それでもそれこそ江戸時代までは遡りません。
少なくとも戦前期まで、もう少し甘めに見ると1940年代が終わる頃までは、広告ありなし関係なく「コンテンツを無料で」というビジネスモデルはなかったし、エンドユーザーもそんなことは考えもつかなかったと思う。
ま、ややこしいので娯楽に話を絞るけど、戦後の一時期まで無料で楽しめる娯楽施設、娯楽媒体は皆無でした。いや皆無っていっちゃうと語弊があるけど、無料は「そりゃ無料だからな」程度の価値のものしかなかった。少なくとも有料を凌駕する無料の娯楽は存在していません。
こういう話になると引き合いに出されるのが紙芝居です。
紙芝居はね、無料で楽しめたか否かで言えばイエスです。ただし有料のエンドユーザーと圧倒的な差を付けられた。お菓子を購入した子供は前の方で見られて、タダの子は有料の子供の頭越しに見なきゃいけない。
要するに無料エンドユーザーは一切客として見做されていない。コンテンツを盗み見、といった意味においてネットの有料動画を不正アクセスしたのと何も変わらないのです。
もちろん紙芝居屋に「賑わいを演出するために」客ではないが盗み見を許容する、といった計算があったから問題はないんだけどね。
では他の娯楽は、となると絶無に近い。
戦後の一時期までは確実にフリーペーパーなんてものはなかったし、映画ならば活動写真と言われた時代から少なくとも1950年代前半までは、洋画邦画問わず無料で観覧する術はまったくなかった。昨今は公民館のような場所でちょい古めの映画を無料上映したりしてますが、当然そんなものはない。もし、あったとするなら小中学校の講堂でやる上映会くらいでしょう。と言っても映写機は相当高かったので、この時代にどれほどの学校が設備を備えていたかはわかりません。しかも仮に公立であろうが授業料を払っているわけで、純粋に無料かと言えば違うと思うし。
もう少しこの話を続けます。
今は完全に消滅、いや消滅どころかほとんど知る人がないはずですが、戦前期に隆盛をきわめたものに「ニュース映画館」というものがありました。
資料らしい資料もあまりないのですが、小林信彦著「一少年の観た<聖戦>」から、ニュース映画館なる場所で、どのようなコンテンツが上映されていたかを引用させていただきます。
-------------------------------------------------
・朝日世界ニュース
・パラマウントニュース(アメリカ製)
・文化映画(主として国策にそったドキュメンタリーの短編)
・マックス・フライシャー系の漫画※(ポパイかベティ・ブープ)
・ディズニー系の漫画※(ミッキーやドナルドなど)
・季節物(たとえば相撲、たしか前半戦・後半戦と二週に分かれていた)
※ 筆者注・ここで言う漫画とはアニメーションの意
-------------------------------------------------
こうして見ていただければお判りになるように、ニュース映画館はニュース映画を上映するための専用の映画館を指します。(アニメーションなどは時間調整のためのオマケ)
一説には1970年代まで残っていたと言われていますが、早々にその役目を終えており、戦後になって大半のニュース映画館は消滅したと考えても間違いありません。(ただし「ニュース映画<専門>映画館」が消滅しただけで、劇映画の上映前に流す用のニュース映画は1990年代まで作られ続けた)
しかし肝心なのはニュース映画館さえ、有料だった。通常の劇映画を上映する映画館よりは安かったと言いますが、それでもタダではない。
とにかく「ニュース」でさえ、映像を見たければカネを払うしかなかったのです。
ニュース映画であれ劇映画であれ映画を見るとなれば、もしくは雑誌や新聞はすべて有料の時代。
無料じゃない?だったら映画や雑誌なんて見ない、なんて人は、まァいなかったと思う。映画や雑誌そのものを毛嫌いした人は当然いたけど、そこに有料か無料かといったことは判断材料にもならなかったはずです。
とにかく、映画館にはとんでもない人が押し寄せたし、戦後の混乱期には活字への渇望もあって雑誌を買い求めるために長蛇の列が出来た。もちろんまだ娯楽の種類が少なかったってのもある。それでもみんな、当たり前のようにカネを払って、それも年間に数度も映画館に足を運んだり、ひと月に何誌も雑誌を買い求めていたのです。
タイミング的には偶然の要素が多いとはいえ、日本の映画人口がピークを迎えたのは1958年頃から、いろいろと雲行きが怪しくなる。その雲行きってのは、要するに有料無料といった意味でね。
ここらでPage2に続く。