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青島幸男とその生家
FirstUPDATE2019.11.21
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 エレベーターを上ったその先に日本橋図書館はありました。
 えと、こんな感じだったかな?たしかに住んでた当時に来たことがあると思うんだけど、何にも憶えていない。15年も経てばこうも忘れるのか、それともトシのせいなのか。どっちにしろ、嗚呼情けなや。

 しかしさすが地元図書館。たいして探すまでもなく、昭和5年(1930年)の商工地図みたいなのが見つかった。ページを開くとコマゴマと商店の名前が書いてある。
 何だ、もうこうなったら見つかったも同然じゃないか。とにかく人形町交差点の周辺を一軒一軒見ていけばいいだけなんだから遅かれ早かれ見つかるに決まってる。さらにポイントを絞って日高屋がある辺りを中心に見れば、こんなもん下手したら1分もあれば十分だわ、と。
・・・あれ?あれあれ?ない。探せど探せど「弁菊」だの「青島」だのという文字を見つけられない。
 嘘だろオマエ。ないわけないじゃん。1930年といえば青島幸男が生まれる2年前、つまり絶対に仕出し弁当屋の営業をしている。ない方がおかしい。
 ひとつだけ考えられるとするなら、店舗の規模が小さくて地図から省かれたんじゃないかと。可能性としてはゼロではないけど、省かれるほど小さいかね?青島幸男の記述によると二階建てのそこそこ立派な建物に思えるけど。
 それとも青島幸男の父君が地図業者と喧嘩してたとか?馬鹿馬鹿しい。でもそんなくだらない妄想しか浮かんでこない。

 他の地図も見てみたけど、商店の名前まで記載されているものはなかったし、で、やっぱり商工地図を見返したけど、ないものはない。
 うーむ、コイツは困った。かといって手ブラで帰るわけにはいかない。調査するんだ!なんて力んで人形町まで来て、日本橋図書館に乗り込んで来てさ、やってみたけどダメでしたなんて、それこそ時間とカネの無駄だ。
 チラリ・・・。カウンターに人はいるな・・・。ああ、もう、嫌だけど<アレ>をやるか。アレってのはつまり、図書館の人に訊いてみることを指します。

 アタシはね、自分で調べ始めたことは最後まで自分の力だけで知りたいのです。当然これは趣味だから許されることなんだけど、趣味である以上、誰の力も借りず調べ遂げたい。
 それに加えてアタシは人見知りときている。そう易々と人に、仮に図書館の人であってもモノを尋ねるような神経は持ち合わせていない。
 もし「あ、あの、青島幸男の生家のことを調べてるんですけど」なんて訊いて「知りませんよ。ご自分でお調べになったら如何ですか?」なんて言われた日にゃ、アタシのメンタルがズタボロになってしまいます。
 ま、そこまでケンモホロロじゃなくても、心の中で「またその手の質問かよ」と思われたらどうしよう。その程度なら余裕で可能性があるし。
 でも、せっかくここまで来たんだから、図書館の人に訊くしかないよなぁ・・・。

「青島幸男さんですよね。たしかに人形町の出身だとうかがったことがあります」

 正直、まず、ケンモホロロでなかったことにホッとした。ま、冷静に考えれば図書館の人がケンモホロロの応対なんかするわけないんだけど。
 
「人形町交差点の近くの、えと、何だったかな、あのお富さんの・・・、そう!玄冶店!あの近く、道を挟んだ向かいにあった「弁菊」という仕出し弁当屋が実家だったみたいで・・・」

「先ほど地図を見られていましたが、確認出来ませんでしたか?」

「ええ、残念ながら」

「それでは少し調べてみましょう」

 それからアタシは、その時点で持っていた情報を日本橋図書館の方(名前を書くのは憚られるので、以降<Aさん>とします)に話しました。
 Aさんは先の商工地図とは別の、しかし商工地図と同じく1930年発行で店舗の名前が記載された地図を持ってきてくれた。
 それを見ながらふたりで探したのですが、やはりない。
 
「青島幸男さんの著作がいくつか蔵書にありますので、その中に何か書いてあるかもしれません」

 Aさんは蔵書の中から「繁盛にほんばし弁菊」と「人間万事塞翁が丙午」を持ってきてくれました。
 何度も書いているように、アタシは「人間万事塞翁が丙午」は読んだことがあったけど、「繁盛にほんばし弁菊」はまるで読んだことがなかった。しかしこの小説はタイトルと違い、仕出し弁当屋を始めるまでの話だった。だからヒントらしいヒントがなかったんです。
 一方、「人間万事塞翁が丙午」には、この連作の冒頭でも引用したように軽い記載がある。ただこの時点で『呉服問屋が軒をつらねる中』という箇所の記憶が欠落していました。
 
「呉服問屋というと、イメージではもう少し北ですよね。馬喰町とかあっちの方・・・」

「しかし堀留町にも呉服問屋街があったということですよね・・・」


 というか、ここにきて根本的な疑念が湧いてきた。
 <堀留町>というのは本当に堀留町のことなのか?何だか禅問答のようですが、実は人形町一帯は戦前と戦後でかなり町区分が変わっているのです。
 例えば谷崎潤一郎の生家。これはビルの壁に石碑が埋め込まれているので場所ははっきりしていますが、一般には「谷崎潤一郎は蛎殻町で生まれた」ことになっている。しかし今は当時とは区分が変わり、谷崎潤一郎の生家の場所は日本橋蛎殻町ではなく人形町になっているんです。
 となると堀留町というのも怪しくなる。
 青島幸男が「人間万事塞翁が丙午」を書いた頃に合わせて<堀留町>としたのか、それとも往時通り正確に<堀留町>と書いたのか、はたまた今も昔も<堀留町>なのか。

「・・・その弁当屋っていつまで営業していたのかご存知ないですか?」

 Aさんのその言葉に、アタシは砂田実の書いた「気楽な稼業もきたもんだ」の一節を思い出した。戦後、砂田実は青島幸男の実家に遊びに行っている。少なくともその時はまだ弁当屋を営んでいた、いやよしんば弁当屋は畳んでいたとしても同じところに住んでいたはずだ。
 
「戦後すぐまでは営業していたはずです」

「だったらわかるかもしれません!」


 Aさんはアタシにそう告げると奥に引っ込んでいきました。

 日本橋図書館のAさんが奥に行ってしまわれたので、その隙にこの駄文も少し横道に逸れたいと思います。
 先ほど「気楽な稼業もきたもんだ」という砂田実の書籍の名前を出しましたが、ここに実に面白いエピソードが載っているので紹介したいな、と。

 砂田実はTBSのディレクターとして名を馳せた人ですが、武蔵中学在学時に、同じクラスにのちに同じ業界で働くことになる青島幸男がいた。それだけでなく「ドラゴンクエスト」の音楽で名高い<すぎやまこういち>もいたってんだからすごい。
 すぎやまこういちと砂田実は仲が良く、何度も砂田実の家に遊びに行ったことがあるらしい。ま、それは話が逸れすぎるので割愛。

 青島幸男とはすぎやまこういちほど深い付き合いではなかったようですが、時折青島幸男の家を訪れていたといいます。その時に「人間万事塞翁が丙午」の主人公のモデルとなった青島幸男の母君とも対面している。
 

 店先の仕事場からフイと現れ、「オヤ、あんたが砂田さん?いいところの坊やって感じだね」と言うと懐から財布を出し、青島と僕に千円ずつ(昭和二○年頃の千円である)渡す。その後の一言に仰天した。「幸男、これで女の子でもひっかけてきな。こんなところにゴロゴロしてンじゃないよ」そう言いながら青島の尻をたたいたのだ。いわゆる真っ当な奥さん風であった僕の母親の口からは出ようもない言葉に、なんだか異世界を見る思いだった。
(砂田実著「気楽な稼業もきたもんだ」より)


 この豪快な母君が青島幸男の性格形成に大きな影響を与えたことは疑う余地がないでしょう。
 さてさて、余談はこれくらいにして、Aさんをただ待っていてもしょうがない。アタシは再び、Aさんが用意してくれた1930年頃の地図を目を皿にして、しらみ潰しに弁菊を探し始めました。
 うーん、やっぱ、ぜんぜんないなぁ。どういうことなんだ。人形町も堀留町も端から端まで見ていったけど、ないものはない。
 だけれども、たしかに弁菊の場所は見つからないけど、面白いことがわかってきました。
 塩せんべいでお馴染みの三原堂は当然のように今と同じ場所にあった。ま、そりゃそうでしょう。その代わり黄金芋でお馴染みの壽堂がない。移築とかしてないはずなんだけど、店舗が小さいから割愛されたのかね。
 他にもいろいろと意外なことがわかったけど、キリがないし、趣旨から大幅にズレるのでさすがに割愛します。

 Aさんが戻ってきました。
 
「昭和30年(1955年)頃からは住宅地図が残っているんです。だからもし、その頃まで営業していたならと・・・」

 たしかに住宅地図なら、たとえどんな小さな店舗でも名前の記載があります。仮に営業を辞めていたとしても、生家が移っていない限り「弁菊」もしくは「青島」という記載があるってことになる。
 
「そ、それで、あったんですか?」

 Aさんは少し興奮を抑えるように
 
「弁当屋ではないんですけど・・・、堀留町に「青島」という旅館があったので」

 アオシマ!?アオシマだァ!そんなことを言ってる場合じゃない。図書館の方に軽く検索してもらったら、たしかに青島幸男の父君は一時期旅館を経営していた、という真偽不明のことが書いてあった。
(後でわかったことですが「青島幸男読本」(音楽出版社刊)によれば、青島幸男の父君は『1945年11月に(中略)旅館をはじめた』らしい)

「少し見せていただけますか?」

「ここなんですけど」

「たしかに青島とありますね。銭湯の隣か。銭湯!?この◯◯湯っての、たしかさっき見たぞ!」


 アタシはあらためて1930年の地図を確認してみた。うん、これが◯◯湯だ。間違いない。ということはその隣は・・・。
 目を凝らして見ると、そこにはたしかに「辯當」の文字がある!!!
 そうか、旧字で「弁当」と書いてあったから、気づかなかったのか。

 それにしても人間の脳(正確にはアタシの脳)なんて何とアテにならないものよ。地図をずっと見ていくうちにアタシは「弁菊」「弁当」「青島」という文字の<形>を追っていたのです。つまり<形>が違うと判断した時点で「ここではない」と判断していたことに他ならない。文字の形としてはまったく違う旧字の「辯當」はまるで脳内候補にさえ入らなかったんだから。
 とにもかくにも、弁菊は、つまり青島幸男の生家の場所が判明したのです。
 日本橋図書館をおとずれた2018年は個人的にあまりにも辛いことが重なり、精神的に完全に追い込まれていました。そんな辛いだけだった2018年の出来事の中で唯一嬉しかったのは瞬間で、マジで小躍りしたいくらい嬉しかった。本当はAさんとハイタッチしたいくらいの気分だった。もちろん、さすがにそれはしませんでしたが、Aさんも本当に喜んでくれました。

 さてさて、せっかく弁菊の正確な住所がわかったんだから、図書館を後にしてすぐに跡地に向かいました。
 もう青島家の人は誰もいないんだから、キチンとした住所を書いてもいいと思うんだけど、あえて伏せておきます。
 ただし最初の予想からはだいぶ離れた場所ではあった。Page1にてアタシは「玄冶店の人形町通りを挟んだ向かいあたり」と書いたけど、実際はもう少し小伝馬町寄りで、しかも人形町通りからかなり奥に入った場所でした。ちなみに弁菊跡地は、何屋かは書かないけど店舗になっています。今度来た時に行ってみよう。
 つまり2003年当時、アタシが通いつめた「ORIPA」っていうカフェがあった場所とはまるで違っていた。ま、そんなもんだよ。

 誰だ「ORIPA」で落ち着けたのは青島幸男の母君のご加護だなんだと言った奴は!アタシだ!
 文句あっか、藪似だァ!

これ、自分的にはベストと言えるエントリです。
専門的な調査であるにもかかわらず、ちゃんと個人的体験として書けたので、青島幸男に興味がない方が読まれても楽しめたのではないかと。どう?
あ、あと2021年10月、人形町交差点の西北辻のビルにダイソーが入店しているのを確認したので、そこは直しておきました。
いやぁ、変わってないようで変わるのが人形町、てか。




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