おそらく青島幸男ほど、過大評価、もしくは過小評価された人もいないんじゃないかと思うんですよ。
彼に憧れた高田文夫などは神のように崇め、都知事時代の醜態を実感した者は毛虫のように嫌い、その能力と考えの底の浅さに呆れかえる。
青島幸男をもっとも的確に捉えた人に中山千夏という人がいます。
中山千夏は途中までは同士を超えた深い仲(といっても男女の関係ではない)として、そして途中から青島幸男が逝去するまで敵対関係だった。
そんな中山千夏が青島幸男について触れたのが「芸能人の帽子 アナログTV時代のタレントと芸能記事」(講談社刊)で、何しろ最後まで関係は修復されなかったんだから基本的には手厳しいのですが、どこか「懐かしい人」というニュアンスも見え隠れしていて、アタシのように青島幸男を敬愛する人間が読んでも嫌な気にはならないのです。
ま、政治理念とか考えの浅い深いなんて完全に関心外だからね。
さて、先ほど「アタシのように青島幸男を敬愛する人間」と書きましたが、たぶん「死ぬほど憧れた」という表現を用いても一切違和感のない唯一の人物が青島幸男でした。アタシは今でも、これほど<才人>という言葉が似つかわしい人はいないと思っている。
だから青島幸男のことをもっと知りたいという欲望はあったんです。しかも一時期とはいえ、青島幸男の生家の近くに住んだこともある。ま、偶然っちゃ偶然ですが。
多少なりとも青島幸男の人となりをご存知の方であれば、彼が人形町にあった仕出し弁当屋の倅だった、てな話はご承知でしょう。正確には人形町ではなく堀留町だったそうですが、この場合の人形町とは町名ではなく地域名としての人形町なので、これでいい。ちなみに屋号は「弁菊」といったそうです。
弁菊のたたずまいは何時もとちっとも変わっていなかった。東京は日本橋堀留町、呉服問屋が軒をつらねる中に、御影石の砕片をふきつけたモルタル作りの二階建て、上も下も窓ばかりが目立つこけおどかしの角店で、下が調理場、二階が住居となっている。店内はあかあかと電灯がともり、ガチン、ガチンと井戸のポンプが音を立て、その日の洗いものと明日の仕込みで若い衆がいそがしげに立ち働いていた。
(青島幸男著「人間万事塞翁が丙午」より)
「人間万事塞翁が丙午」は一応フィクションの形をとっていますが、父母の名は本名であり、描かれた出来事はともかく設定はほぼノンフィクションといっていいでしょう。(ただし青島幸男自身がモデルとなった、いわば分身は「幸二」。この名前は自伝的小説においてほぼ共通して使われている)
様々な文献においても「弁菊」という屋号も含めて「人間万事塞翁が丙午」と符合しており、堀留町という住所も本当と見做しうります。
ただ、堀留町から先がわからない。具体的に何番地、みたいなことはアタシが軽く調べた範囲ではわからなかった。ただ、これは文献元が何か忘れたのですが、「玄冶店の通りを挟んだ向かい」と記述を読んだことがあったんです。
ざっくりと説明します。
玄冶店の説明は後回しにするとして、玄冶店の石碑は人形町交差点の北東辻に建っている。堀留町は人形町よりも北側なので「通りを挟んで」という「通り」とは人形町通り、「挟んで」ということはその西側、人形町交差点の北西辻になるわけです。
今でいえば居酒屋なんかがダイソーが入った雑居ビルの辺りから堀留町側、つまり若干北側。さらに「人間万事塞翁が丙午」の記述からすれば「角店」。
これらをすべて換算すれば、今の日高屋辺りになると推測したわけです。
日高屋!?いやいや、これはもしかしたらもしかするんじゃないか!?
ここにはかつて「ORIPA」というカフェがありました。
ORIPAはベトナムコーヒーが「売り」のカフェで、アタシが2002~2003年にかけてこの近辺に住んでいた頃に足繁く通ったカフェでした。一応チェーン店だったみたいだけど、アタシは人形町交差点のほど近くにあった店舗しか知らない。
とにかくここでまったり(当時の言葉で言えば「マターリ」)するのが好きでね。Jornada568っていうPDAを弄りながら、時間を潰すのが大好きだった。ま、そう考えたら、やってることは今とほとんど違わないな。今はどこのカフェに行こうがずっとiPhoneを弄ってるわけで。
まァそんなことはどうでもいい。
何というか、突然閃いたんだけど、もしかして2003年当時、足繁く通っていたORIPAの場所って弁菊、つまり青島幸男の生家の跡ではないか、と。
というのも、現存しないので若干曖昧なのですが、場所はたしか今、日高屋になってるところだったはずなんですよ。
とにかく軽く検索する限りは見事に符合する。ただ、先ほども書いたように、どうしても弁菊の正確な場所がわからない。
アタシの性分として「たぶん」ってのが嫌なのです。どうしてもはっきりさせたい。
というのも、アタシがORIPAなるカフェであれだけまったりできたのは、もしかしたら青島幸男の、正確には青島幸男の母君のご加護があったからじゃないか、と。
こうなると、もう行ってみるしかないわけです。そう、人形町界隈に。もちろん現地に行ったからって必ず判明するわけではないんだけど、アタシの経験上、本気で調べれば近似値は必ず導き出せると信じていますから。
ここであらためて、アタシの個人的な事情を説明しておきます。
2001年、と言えばずいぶん前になりますが、アタシは転勤で実家のある神戸から東京に移り住むことになりました。
最初の居住地は荻窪。これは会社に勝手に決められたのでアタシの意思は何も入らずに荻窪という街に住むことになった。
いろいろあった末、翌年、つまり2002年ですね。この年の夏の終わりにアタシは人形町付近に引っ越しています。こちらは荻窪の時と違い、かなり強固な意思によってこの土地を選びました。
アタシが人形町に「こだわった」のは、この頃から<戦前モダニズム>というものに猛烈に惹かれだしていたからで、どうせなら戦前モダニズムの香りがする街に住みたい、と願うようになっていたからです。
いろんな街を下見して、もっとも戦前モダニズムの空気を感じたのが人形町界隈だった。
実際に住んでみると、期待が大きすぎたばっかりにガッカリすることも多いのですが、人形町界隈は違った。住めば住むほど、こんないい街はない、と思うようになっていったわけで。
しかしアタシは人形町界隈には1年ちょっとしか住んでいない。2003年の秋に会社を辞めたからで、この年の暮れに人形町のマンションも引き払っています。
住むのが嫌で引っ越したわけじゃない。願えるならずっと住みたいとさえ思っていたのです。というか今でさえ、移れるものなら移りたいと思っている。
そんなだから、たった1年ちょいしか住んでないにもかかわらず、この街への思い入れはハンパじゃないくらい深いのです。
それを自覚したのは2017年の夏の終わりに決行した2泊3日の人形町滞在によって、なのですが、詳しくは「決別に花束を<総集編>」をお読みください。
この人形町への、2泊3日のプチ旅を決行したのが2017年8月27日です。そしてそれからちょうど11ヶ月後の2018年7月27日、アタシは再び人形町の駅に降り立ったのです。
っていきなり嘘を書きました。アタシが降り立ったのは浜町駅です。まあね、新宿経由でとなると都営新宿線を使うのが一番ラクだからさ。
浜町から甘酒横丁をブラブラ歩いて人形町まで行ったんだけど、うーん、まだ1年も経ってないのにいろいろ変わっている。アタシが住んでた2003年から2017年よりも、何だか変化がすごいような気さえします。
とくに驚いたのが、人形町の駅ビル(ってほどのもんじゃないけど)が工事中だったこと。
もうひとつ、アタシはそんなには行かなかったんだけど、人形町交差点のすぐそばに「天下一」っていうラーメン屋だか中華屋があったのですが閉店していました。
どうにも不思議だったのが、閉店して看板も裏返しにしてあったにもかかわらず、何故か電飾というか電球がクルクル回っていた。あれ、どういうこと?
まあそれはいい。とにかく着いたのがちょうど昼頃だったので、とりあえず昼メシでも食うかと思ってね。何にしようかな、ぜんぜん人形町らしくないけど、この際コスパ重視で松屋あたりで妥協するか、とか考えてたんだけど、ふと、いいことを思い出した。
東京は五反田の駅のすぐ近くに「おにやんま」という立ち食いうどんの店があります。
完全に讃岐系のうどんなんですが、これが美味い。アタシが知ってる東京のうどん屋の中でもトップクラスに美味いんです。
だから実に狭くて汚い(失礼)なんだけど、いつも行列が出来ている。
そうだ、「おにやんま」の支店が人形町に出来たってニュースをどっかで読んだぞ、と足を進めたら、あった。しかも五反田の店舗よりも行列が少ない!
味はまったく一緒。ということはもちろん美味い。しかも安い。だって、いくら立ち食いとはいえ「冷とり天ぶっかけうどん」の並が420円ですよ(現注・だいぶ値上がりして500円以上になりました。ま、それでも安いんだけど)。また、とり天がこれでもかってほど入ってるんだわ。
並でも余裕で腹パンパンになるし、麺だからスルスル入っていくし、夏の暑い時期に食べるにはこれ以上のものはないんじゃない?
<ヘイセイノ ヨニハ コンナニウマイ ウドンガアルンダ タアキイ ニモ タベサセテ アゲタカツタ>
うーん、どんどん完璧に近くなるな人形町。
もちろんアタシはうどんを食いに人形町まで来たわけじゃない。いやこれを食うためだけに人形町に来る価値はあるんだけどさ。
しかし青島幸男の生家を調べるといってもどうすりゃいいのさ。闇雲に歩き回ってもしょうがないし、近隣へ聞き込むっつっても、十数年前の話ならともかく数十年前のことを憶えておられる人なんかいるか?つか存命の方がどれだけいるんだって話で。
・・・ん?あ、そうか。図書館か。その手があるか。
調べ物をする時、まァ今ならインターネットから始めるのが常套ですが、ほんの少し前までは図書館に行くのが常套だった。つか今でもちょっとでも込み入ったことを調べたければ図書館に行くしかない。
そりゃあね、いざとなればアタシも国会図書館を使いますよ。「植木等ショー!クレージーTV大全」(洋泉社刊)の時だって国会図書館に通い詰めたんだから。
だけれども、国会図書館なんて最終手段。それより何より、地域に密着したことを調べるなら地元の図書館というのはなかなか侮れないのです。
そういえばこの付近に変な図書館があったな、と思い出した。
変といっても図書館そのものはものすごくちゃんとしたものだったんだけど<作り>が変なのです。外観はどう見ても学校で、実際に日本橋小学校ってのが入っている。んで小学校の上階が図書館になっているという。言っときますけど「図書<室>」じゃないからね。誰でも入れる「図書<館>」だから。