結局、限られている
FirstUPDATE2019.10.10
@Scribble #Scribble2019 #やぶにらこぼれ #インターネット 単ページ 知識 手持ち 調査

こういうことを書くと「何をエラソーに」と思われるかもしれませんが、アタシという人間は結構知識の<幅>はね、あると思ってるんです。<量>じゃないよ。<幅>ね。

ま、別に代償ではないけど、その代わり植物の名前や地理や歴史といった学問的知識が極端に欠如してるんだけど。
何で学問的知識がないのかというと、早い話が「一度も能動的に勉強してこなかったから」に他ありません。
こういう話になるとすぐに頭の良し悪しや学歴の話になるけど、関係ないんですよ。つまり「やらされている」とか「必要に迫られて仕方なく」で得た知識って脳に定着しないんです。短期的にはおぼえてるけどすぐ忘れるというか。

たとえば「20時48分にきわめて重要な電話がかかってくる」としましょう。そこまで重要なことなら、ほとんどの人はその時間をおぼえるはずだし、20時40分くらいからソワソワしてしまうと思うんです。
ところがその時間を過ぎたら、まァたいていは忘れる。重要な電話が終わってしまえば20時48分という数字自体には何の意味もないからです。もちろん<毎日>20時48分にってなら意味合いは変わるけどね。

能動的に何か知識を増やすというのは、どれだけ能動的に追体験を増やすのかだと思う。勉強で大切なことは予習と復習だと言いますが、要するに「追体験しなければ知識として残らないよ」という単純な話です。
つまり追体験を重ねれば重ねるほど記憶として定着する。音楽とかでもそうでしょ。専門家じゃない普通の人は「カラオケでアレを歌いたい」となったらその曲を繰り返し聴いて歌詞やメロディーラインを把握する。追体験を繰り返して記憶を定着させようとするわけです。
今のアタシに学問的知識が皆無なのは、まったく追体験をしてこなかったから、ということになる。その時はおぼえてはいたんだろうけど後に残っていないのは、つまりはそういうことだなと。

では、です。
アタシはしつこく「ブログのお値打ちは取材・調査を一切しなくても書けることだ=取材や調査をしてしまうとブログの枠組から逸脱してしまう」と書いてきました。
取材も調査もしない、それは「現在の知識を増やさない状態で書かなきゃいけない」と言えるのかもしれないなと。
これねぇ、最近とみに思うのですよ。何というか、もう、どっちがラクかわからなくなってきたなと。

アタシはずっと、取材も調査もしなくていい=脳内にある知識だけで書いていける=ラク、だと思っていたんです。いや今も、基本的にはそっちの方がラクと思っている。
ただ、最近、それは時と場合によるんじゃないかと思い始めて。
それは「何なんだ?」というシリーズを始めてからのことです。(現注・このシリーズの後継が「複眼単眼」)
このシリーズは自分としてかなり、いやここまで明確に意識したブログ自体存在していないと自負しているんだけど、あれは「取材も調査も一切しないけど、徹底的に資料の精査はする」という構想で始めたわけで。

「何なんだ?」シリーズに書いてあることは、知識としてあるかないかで言えば、一応はあるんです。あるからこそ全体の構想を構築出来るんだけど、書いてあること全部、隅から隅まで脳内に定着した知識かというとそんなことはない。つまりかなり<あいまい>な箇所がある。それをね、資料を精査するという方法で補っているんです。
前にも書いた通り、これが異様に骨が折れる。大変なんてもんじゃない。だから完成してない、いわば中断した書きかけの「何なんだ?」シリーズ用エントリが溜まっていくわけで。

しかも最近になって「これって意味があるのかな」とさえ思い始めた。
たしかに資料を精査してあるからキメ細かくはなってるとは思うんですよ。でも所詮、全体の構成は自分の知識ベースでやっちゃってるので、数少ない読んで頂いておられる方からすれば「似たような話」でしかないんじゃないかと。
「いったい東宝で何なんだ?」として構想していたものを、興味のない特撮に絞って、みたいに路線変更したエントリ(「一度、特撮のことを全部書いてみる」/現注・現在は「特撮に興味ゼロの人間が特撮を語る」に改題)にしたのは、似たような話になるのを恐れたからですし。

最初に書いた通り、アタシは自分ではけして知識の<幅>がない方だとは思っていません。けど、結局、それも限りがある。
何でも知ってるなんてあり得ないし、興味のあることでもあんまり知識量としてはないものもいっぱいある。だから似たような話しか書けないわけで。

でも個人ブログなんてそんなもんじゃん、と言われればその通り。ただね、せっかく「資料の精査」なんてとてつもなく大変なことをしているのに、似たような話になるんじゃ大変な意味がないんじゃないかと。
「資料の精査」と「取材や調査をする」のとどっちが大変かといえば取材や調査をする方がまだマシなんです。しかも取材や調査したことは「興味はあるけど自分の知識ベースではない」ものだから読み手からしても新鮮なものになるんですよ。もちろん書いてる自分自身もフレッシュな気持ちで書いていける。だったらそっちのがいいんじゃね?と。

「自分の知識ベースではあるけど資料の精査が必要」な「何なんだ?」シリーズに相当することはもう書かない、というわけではないけど、並行して「取材や調査をする」ものも入れていってもいいんじゃないかと言う気がしている。
たしかにブログから逸脱はするんだけど、ま、やるとなっても、そこまで深く深く、それこそ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」ほどのことはしないけど。

もしかしたら、その辺がいろんな突破口になるような気もしてるわけでね。つかもう、15年以上やったら、いくら興味の移ろいはあろうとも自分の知識ベースで駄文を書くのも限界だよ。さすがに脳内に定着した知識なんてほとんど書き尽くしたしさ。







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