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複眼単眼・仮面ライダー
FirstUPDATE2018.9.25
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 もうほとんど忘れ去られていることですが、実は1960年代後半からの数年、日本初のレトロブームが巻き起こっています。

 テレビで懐メロ番組が氾濫し出したのもこの時期で、もっとも当時は<レトロ>なんて言葉は使わず、もっぱら<リバイバル>と呼ばれていたんだけどね。
 当時のレトロの対象は明治から戦前にかけてが中心でした。
 明治演説歌が新たに吹き込まれたり、戦前期の映画がリバイバル上映されたりもした。1970年には戦前の代表的漫画である「のらくろ」がアニメーション化される事態にまでなった。
 やがて対象は広がっていき、1950年代後半の「月光仮面」さえアニメーション化されて再登場しています。
 こういう傾向はいくらでも理由づけ出来る。消費社会が消費し尽くした結果だ、とか。ま、そんな理屈はどうでもいいのですが。

 こうした<時代の影響>があったのかはわからない。というかそういう証言は存在してないと思う。
 しかし結果として、Page1で書いたように東映と関西のテレビ局(毎日放送)がタッグを組む形で企画された子供向け番組は「月光仮面」のリバイバルめいた、もっと言えば「鞍馬天狗」の原点に立ち返ったものになったんです。
 まず、等身大のヒーローであること。「変身」の要素は残すが、なるべく特撮は使わずに現場でのアクションを大切にする。クライマックスに派手な大立ち回りを用意する。
 骨格は古臭いと言えば古臭いけど、原点に立ち返ってシンプルさを全面に押し出す、というのはけして悪い企画ではありません。それが可能な時期だった、というのもたしかなんだけどね。

 巨大ヒーロー物には致命的な欠点がありました。
 ひとつは大立ち回りが出来ないことです。
 敵対する相手は常に怪獣1匹だけ。つまり「ヒーローはまず雑魚どもをなぎ倒し、最後に中ボスとタイマン対決をする」といったフォーマットが使えなかった。
 もうひとつの問題は登場の仕方にあります。
 「ウルトラマン」でも何でもそうなんだけど、巨大ヒーローは変身した時点でいきなり怪獣と相対する形となる。これでは味も素っ気もない。
 「鞍馬天狗」はそこが違う。杉作少年が悪玉にやられようとしている。ピンチを察した鞍馬天狗が馬をとばして悪玉の陣地に乗り込もうとする。ここに「のるかそるか」というサスペンスが生まれる。これも巨大ヒーロー物には不可能だったんです。
 しかし<揺り戻し>の産物である「鞍馬天狗」の直系である等身大ヒーロー物ならば巨大ヒーロー物に欠けていたサスペンスを復活させることが可能になったんです。

 個人的にも、巨大ヒーローよりも等身大ヒーローの方がメリットが大きいように思う。巨大ヒーローはとにかくバリエーションが作りづらいのにたいし、等身大ヒーローは、それこそ「鞍馬天狗」から幾多のバリエーションが作られた。またバリエーション内で傑作名作を量産出来た。
 もちろん制作費も等身大ヒーローの方が安くつくし、高度な特撮技術も必要ない。ざっと考えるだけでこれだけメリットがあります。
 にもかかわらず、この時代に等身大ヒーローがないがしろにされたのは、ま、今となってはいろいろ解せないんだけど、逆に考えればそれほど「ウルトラマン」の衝撃が強かったってことなんでしょう。

 さあ、ここからいよいよ本題である「仮面ライダー」の話になります。
 「仮面ライダー」が成功した理由の私見を述べれば「1970年代の東映で作られたから」だと思っているんです。「東映で作られた」というだけではダメで、この時期の東映だから「仮面ライダー」が突出した存在になれたのだと。

 おそらく様々な事情でそうなったのだろうけど、当時の大手映画会社は見事に色が違っていた。
 松竹は常にしっとりとしたトーンで、派手でサスペンスフルなものは苦手だとか、東宝なら何をやってもモダンでスペクタクルっぽくなるとか、各映画会社には、少なくとも1970年前後の映画産業斜陽期まではかなりはっきりしたカラーが存在していました。
 東映はと言うと、もっとも機を見るに敏な会社だったと思う。これは東映カラーを作った立役者の岡田茂の意向が強烈だったんだろうけど、時代劇が売りだった東映が行き詰まった時、「ヤ◯ザとエログロ」に活路を見出そうとした、というのは有名な話です。
 今は「網走番外地」や「唐獅子牡丹」などのヤ◯ザ映画の方が有名だけど、エログロに相当する作品も相当作っています。

 近年になって東映チャンネルで当時のグロ映画が相次いで放送されたので見たけど、これがもう、何と言うか、凄い。もちろん悪い意味で。
 作品として見れば、やはり石井輝男監督作品が光っている。が、石井輝男作品に限らず、グロ描写に遠慮がなく、気分が悪くなるほどのグロさを映像として表現している。いつしか、何故こうまで、悪辣にグロを映像に収めようとしたのだろう、と感心するに至ったくらいです。
 この悪趣味極まるグロ描写は完全に東映のひとつのカラーになった。それはいいんだけど、あろうことかこのグロをテレビで、しかも子供向け番組でやってしまった。

 東映が製作した「仮面ライダー」は毎日放送(関東ではNET)で1971年4月3日より放送が開始されました。
 放送時間は19時30分。しかも土曜日。どこをどう切り取ってもゴールデンタイム中のゴールデンタイムです。
 しかしそこに映し出された映像は、ゴールデンタイムで流すものとはとても思えない、また子供向けとも思えないほどのグロいもので、もちろん映画に比べると抑制されてはいるとはいえ、それでも一家団欒の夕食時に流して良い映像ではない。
 今、あらためて、「仮面ライダー」をDVDを借りるなどして見ると気づきづらいのですが、「土曜日の19時半」という時間に「仮面ライダー」は放送されていた、ということをあらためて意識して見ると、この子供向け番組が如何に異端でチャレンジ精神が旺盛なものだったかがわかるはずです。
 主人公の本郷猛を演じたのは藤岡弘。これまた当時の感覚ではあまり子供向けヒーロー物の主人公っぽくない見た目で、とにかく「大人の男性」感が強い。それまでの子供向け番組のヒーローとは雰囲気が違う。
 当初の設定も「ヒロインから父殺しの疑いをかけられる」という重いものであり、これまた大人向けの匂いが強い。

 今では1期本郷猛時代と言われる最初の13話は、マニアの間からの評判が極めて高い。徹底的におどろおどろしい表現だったり、本郷猛の苦悩の描写だったり、ショッカーの存在感だったり、たしかに「大人が評価しそうな」ポイントを散見することが出来ます。
 しかし、これ、当時の子供はどう思ったんだろうか。
 言ってもこの頃は「ウルトラマン」シリーズが普通に再放送されていた頃です。新しいヒーロー物が始まった、と喜び勇んでチャンネルを合わせた子供は凍りついたんじゃないのか。
 アタシは1968年生まれなので、この時期の「仮面ライダー」を見ていない。いや見ていた可能性はゼロではないけど、まるで記憶がありません。

 記憶にあるのは、一文字隼人時代からです。
 藤岡弘の不慮の事故により、主人公を本郷猛から一文字隼人に交代した2期は、1期にあったグロさをかなり後退させています。
 主人公の見た目も藤岡弘の男性くささに比べると、爽やかなムードの佐々木剛は旧来のヒーロー物の主人公に近い。
 また佐々木剛がバイクの免許を持っていなかったために変身シーンにも手が加えられ、バイク走行中に風の影響で変身するものから変身ポーズを取り変身する、というわかりやすいものになった。
 さらにライダーの衣装もずいぶん明るい感じになった。(藤岡弘の著書によると衣装が明るくなったのは「夜間シーンでライダーがどこにいるのかわからない」という問題があったかららしく、たまたまこのタイミングで変更されたものの、藤岡弘が続投していても変更される予定だったらしい)

 一文字隼人の周りで怪事件が起こる。しかもショッカーの影がチラつく形で。やがておやっさん他が事件に巻き込まれていく。一文字隼人は滝和也と協力してショッカーの手下をやっつけるが、怪事件はどんどん拡大していく。
 ついに怪人が正体をあらわにする。一文字隼人は仮面ライダーに変身し、戦闘員をなぎ倒し(滝は味方の救助にあたる)、いよいよ怪人と一騎打ちの対決。
 怪人の繰り出す技に苦しめられるが、最後はライダーキックで怪人をやっつける。
 ラストはバイクで走り去る一文字隼人。

 まったく、見事なほど、フォーマット化に成功しているのがよくわかります。
 ここまでフォーマット化出来れば勝ったも同然で、しかもここに来て、かなり弱められたとはいえグロ要素が良いアクセントになってきた。
 こうなれば藤岡弘が復帰して再び本郷猛が主人公になっても視聴者の子供には違和感はない。しかも、これは理由が不明だけど、入院→リハビリをした藤岡弘は1期の「男性くささ」がかなり和らいでおり、妙に垢抜けていた。これも大きかったように思う。
 つまり「仮面ライダー」は「鞍馬天狗」以来の「子供が本当に喜ぶ」フォーマットを徹底的に活用したからこそ成功したと言える。
 現代風にリライトこそされているものの、根底にあるのは「鞍馬天狗」なのは間違いない。

 しかし、それだけで「仮面ライダー」が成功したとは思わない。「仮面ライダー」が突出出来たのは定期的に「フォーマット破り」の展開を挿入したことにあると思うんです。
 もはや「仮面ライダー」は誰でも知っている。どころか大ブームにさえなった。
 そんな状態でフォーマット通りにやれば、マンネリという批難も起こり得るし、フォーマットを多少外したからといって子供たちがついてこないことはない。
 複雑にするわけでも新機軸を打ち出すわけでもなく、何話かに一話だけ、微妙にフォーマットから外した展開にする。これにより「仮面ライダー」は脳裏に刻み込まれる番組にまでなりおおせたんです。

 このフォーマット破りは(結果的にかもしれないけど)パロディの意味合いも含んでいました。
 笑福亭松之助のネタではないけど「そんなんショッカーがこないしたらライダーとかイチコロやがな」みたいなことを本家がやり出したんです。
 それこそ「ライダーキックが通用しない」から始まって、変身不能になったり、ニセライダーが登場したり、一話完結にしなかったり、これは映画版になるけど、かつて倒した怪人が復活して<歌舞伎の如く>順番に名乗りを上げたり、<やりたい放題>と言っても差し支えないほど、製作者が自ら「仮面ライダー」という作品をもてあそびだしたんです。
 しかもこのフォーマット破りの回の楽しさったらない。スタッフが心から楽しんで作っているのがありありとわかり、活気が漲っている。もちろんそれは受取手にも感じられ、より「仮面ライダー」が魅力的になったのは言うまでもありません。

 <マンネリ>というのは本当は受取手が感じることではなく、作り手の問題だ、というような話を聞いたことがあります。
 十年一日同じことをやったとしても、受取手が必ず飽きるのか、というとわからない。ましてや子供向けの場合、子供は常に入れ替わっているので、本来子供向けの娯楽に新機軸など必要ないんです。
 ここらが子供向けの問題点だった。受取手は飽きてないのに作り手が飽きる。嵐寛寿郎のような「鞍馬天狗」にすべてを捧げたような偉大な人がいれば別だけど、それを求めるのは難しい。
 せっかく良いフォーマットを作っても作り手が飽きてくると、映像からマンネリが漂いだす。これはマズい、と気がついてマンネリ打破のために新機軸を打ち出す。するとヒットした要因まで消えてしまう。結果、作品寿命が短くなる。
 「月光仮面」などのヒット番組が意外と短命なのは、この辺が原因じゃないかと睨んでいるわけで。

 それを「仮面ライダー」はたくみに回避した。
 スタッフに飽きがくる終盤期に入ると「新機軸」ではなく「フォーマット破り」を多発させた。これだけでスタッフはノレる。しかも原作者である石森章太郎に監督させるなど、常に新しい刺激を与え続けた。
 だから「仮面ライダー」は尻すぼみにならなかった。むしろ最終回が近づけば近づくほど盛り上がった。
 たぶんこんな子供向け作品は空前絶後だと思う。大人向けだって尻すぼみになることが多いし、子供向けはよりそうなりやすい製作背景がある。映画だろうが漫画だろうが、それは一緒です。
 ある意味「鞍馬天狗」が作り上げたフォーマットをもっとも有効に活用出来た例なのかもしれない。フォーマットがあるからフォーマット破りがあるのだから。

 「仮面ライダー」はその後「V3」、「X」、「アマゾン」、「ストロンガー」と続き、ここで一旦お開きとなります。
 新シリーズを作る毎に製作陣は「原点に立ち返る」ことを意識したらしいけど、結果的に最初の「仮面ライダー」を超えられなかったのは、原点=最初の「仮面ライダー」だったから、ではないでしょうか。
 最初の「仮面ライダー」を原点と据えた以上、超えられないのは当たり前で、そこはやはり原点として「鞍馬天狗」を見据えるべきだったと思う。
 「鞍馬天狗」にあって「仮面ライダー」にないものは何なのか、どういう要素なら取り入れることが出来るのか、そこの精査をもっとやっていれば、超えることはけして不可能ではなかった気がするんです。

 今放送されている「仮面ライダー」には改造人間という設定はないと言います。
 そこへの旧来からのファン、つまり1号2号時代のファンから批判もあるみたいですが、たしかに「変身後の姿こそ本来の姿」というのは「ウルトラマン」から受け継がれたアイデンティティであり、批判する側の気持ちもわからんではない。しかも設定変更の裏に「配慮」の影がチラつくのも不愉快に思う理由でしょう。
 しかしアタシは、あくまでアタシ個人としてはですが、そんなことはどうでもいい。改造人間であろうがなかろうが、子供が喜ぶ喜ばないと関係があるとは思えない。Page1の冒頭にも書いたように、子供にとっては「出来上がったものが面白いかどうかだけがすべて」なのだから。
 事実、平成に入ってからもこれだけシリーズが続いているというのは、つまりは今の子供たちに受け入れられている証拠ではないかと思うんです。
 ただ、それはいいとしても、東映と円谷プロ以外は何をやってんだ、とも感じている。「仮面ライダー」や「ウルトラマン」といった<ブランド>には勝てない、だからもう子供向けなんかやらない、とでも思っているのか。
 もし「鞍馬天狗」を見た上でそう感じたのなら仕方がない。しかし見ずに決めつけているなら、ちょっと救われない気がするんですよ。

 ブランドなんてこれから作ればいいじゃないか。「鞍馬天狗」を徹底的に研究して、子供に喜ばれるってのは何なのか、本気でやればまだ可能性はあると思うのですがね。

如何でしたでしょうか。この、まったく一般的ではない仮面ライダー論は。いやもうこれは仮面ライダー論というよりは「ジュブナイル論」なのかもしれないけど。
それはそうと、ひとつだけ、くだらないこぼれ話。
「鞍馬天狗」に杉作少年なる男の子が登場します。「角兵衛獅子」の巻から出てきたらしいけど、アタシ自身「鞍馬天狗」については詳しくないのでよく知らない。
この杉作少年、映画化っつーか実写化される時は<少年>であるにもかかわらず、少女が演じることが多かった。かの美空ひばりも杉作少年を演じています。
ま、そんなことはどうでもいい。だけれども「杉作少年」なんて書くと、どうしても子供のコスプレをした杉作J太郎が浮かぶんですよ。
杉作J太郎ですよ?あの。どのだよ。エア童貞の。あの中途半端な髭を生やしたおっさんが、何を血迷ったか、それともおかしな営業をとってきたのか、ベッタベタな黄色い帽子を被って、釣りズボンを履いて、ランドセルなんか背負って、やたら浮かれている・・・、そんな妄想が頭から離れません。
とうとう最後は「仮面ライダーJ太郎」とか、語呂としてアリだな、とかまで思い始めた。
おい、いったいJ太郎のどこに少年要素やヒーロー要素があるんだよ。つか何でアタシはJ太郎の話をしてるんだ。




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