高校野球もいよいよ大詰めになってまいりましたので今回は、ちょっとばかし高校野球に関連した話をと思いましてね。
というのも、まァ大会が始まる前なんだけど、讀賣新聞に面白いコラムが載ってたんでね。発語衝動にかられたというか。
その讀賣新聞のコラムに書いてあったのは、要するに「高校の野球部は何故丸坊主でなければならないのか」といったテーマでした。
高野連には頭髪にかんする規定があるわけではなく、あくまで学校単位の判断で丸坊主か否かが決められている、とコラムにあった。
実際、髪型にかんしてとくに規定がない学校も結構あるようで、春夏の甲子園でも長髪でこそないものの丸坊主ではない野球部が出てくることが稀にあります。実際今夏の大会で北北海道代表として出場した旭川大高校は「丸刈り禁止」と話題になりました。
ところが丸坊主でない野球部の出場を見て抗議の電話をかけてくる一般人が結構いるらしい。曰く「スポーツマンらしくない」だのいった類いの抗議です。
正直ね、アタシは高校球児の髪型なんてどっちだっていいんです。丸坊主如きの覚悟も決められない学生が本気で野球に打ち込めるわけがないってのも、別に矯正するほどのもんでもないだろってのもわかる。
ただし「時代遅れ」という意見だけはわからない。というか激動の歴史を乗り越えてきたからこそ高校野球ってもんがあると思うから。
ちょっと前に「戦前まで柔道はスポーツではなく武道であった」みたいなことを書きました。(現注・現在この内容を含むエントリはココに置いてます)
それが何故スポーツになったかというと、早い話が生き残るためです。
戦後、GHQは日本の武道精神のようなものを木っ端微塵に叩き壊そうとしました。例えば戦後のある時期まで、いわゆるチャンバラ映画が、厳密にはチャンバラシーンが禁止された。
チャンバラのない時代劇など気の抜けたサイダーみたいなもので、当然各映画会社は時代劇を作らなくなります。
困ったのは時代劇スターで、得意の殺陣が使えなくては自身を輝かせることが困難になります。
そこで「時代劇のフォーマットのまま、時代だけを現代に置き換えた」仮想時代劇が作られ出した。片岡千恵蔵が主演した「多羅尾伴内」シリーズなどがそれです。
一応現代劇だから刀は出てこない。代わりにピストルが出てくる。ピストルはオッケー、刀はダメってのはよくわからんけど、GHQの方針だから仕方がないわけで。
ま、つまりは刀=武道精神、とGHQが捉えたと。
ところが戦前はまるで逆だったわけです。むしろ武道精神のない競技=軟弱な人間のやることと切り捨てられる時代だった。
まして野球は、何しろ発祥がアメリカのスポーツです。当然当局から目をつけられやすい立場だった。
そこで野球は武道精神に基づくものだ、ということをアピールする策に出たわけです。そしてその中のひとつとして丸坊主というスタイルでプレーするという形が出来た。
今でも蔓延るこうした武道精神的な要素は戦前期に育まれ、やがて一般大衆も「野球とはそういうものだ」というのが共通認識にまでなったのです。
方針は真逆ですが、柔道にしろ野球にしろ共通しているのは「生き残るための策」であったことです。柔道という、野球という文化をなくしてはいけない。多少妥協しても、本来の形からは歪められても、何としても後世に残していこうとした結果だったってことです。
1990年代になってJリーグが発足しました。
Jリーグとて結局は生き残るためにでしょうが、新しい時代に則した今様のスポーツだということを盛んに報じさせた。
髪型も自由だし、ユニホームも泥臭くなさそなテラテラした素材で爽やかさを演出し、常に帽子を被って汗臭そうな野球のような古臭いものではない、というイメージを全面的に押し出した。
しかし、言うまでもないけど、別にサッカーは新しいスポーツではない。それこそ戦前の時点で日本に輸入されている。
ただサッカーはずっと、日本という国においてはマイナーな存在であり続けた。盛り上がりかけたことがないわけじゃないけど、一時だけのブームで終わる、を繰り返していたのです。
つまりサッカーはマイナーであったからこそJリーグがフレッシュな存在として登場することが出来たわけで。
柔道や野球は戦前から人気の競技だった。だから目をつけられた。利用しようとする人間も出てくる。たくさんの人が関われば関わるほど、尖ったことは許されなくなり、常に時代への忖度が求められるようになる。
そりゃあ、これだけ長期間風雪に耐え、野球とはつまり、こういうものである、みたいな固定観念が生まれるほどの人気を維持してきたんだから、時代に合わないところが出てくるのはしょうがないのです。
アタシが何を言いたいのかといえば、これだけ長期の間人気を保持してきた野球というスポーツに時代遅れもクソもないんですよ。
むしろ、古いモノ、時代とズレたものを「時代遅れ」と切り捨てる発想の方がよほど時代遅れの感覚だと思う。そういうことを言う人って時代と常に歩調を合わせろって言ってるわけですよ。それって発想が戦前の軍部やGHQとまったく一緒じゃないですか。時代と合わないなら消し去るぞって言ってるんだもんね。
高校野球はともかくプロ野球は商売なんだから、やはりそれなりに時代と歩調を合わせなくてはいけない。それはわかります。
しかし時代と合わないことを許さないなんて発想を突き詰めたら、絶対に伝統なんてもんは生まれないのです。
時代と合わせることも商売上必要なことだけど、伝統の重みを感じさせることも人を惹きつける。つまり商売に結びつく。
そう考えていくと、伝統ってもんを作っていくことが如何に難しいか。ま、時代遅れ!なんて声高に叫ぶ時代遅れの人間こそ切り捨てていくしかないんだろうけどね。