五月十五日に、一本の電話が入った。相手は渡辺晋で、「TBSで植木のワンマン・ショウをやるんだけどさ。ブレーンになってくれない?」と言った。あ、まだ、その手があったのか、と思った。(小林信彦著「喜劇人に花束を」より。改行省略)
砂田実の回想によれば「植木等ショー」の企画がスタートしたのは「この年(注・1967年)の始め」らしいのですが、渡辺晋が小林信彦に「ブレーンとして」声をかけたのが5月の半ばであり、6月6日には初回の収録が行われているのだから、かなりギリギリの段階になってもブレーンを探していた、ということになります。
小林信彦は自著に何度も「植木等ショーはなかなか話が進まなかった」と書き及んでいますが、年の始めにはすでにTBSで放送されることが決まっており、おそらくは枠も決まっていたはずであろうにもかかわらず、収録開始からひと月もない時点になってもブレーンを探している、のみならず決まってないことが多すぎる、というのは如何にも遅い。
7月スタートというのも不思議な感じで、いわゆる番組改変期ではありません。
ここからは推測になるのですが、当初は春に放送の開始を予定していたものが、あまりにも進行が遅いので延び延びになったのではないか、と思わないこともない。
しかしそんな中でもブレーンストーミングは行われていたようですが、具体的なメンバーはつまびらかではありません。しかし渡辺晋を中心に、森伊千雄、砂田実、藤田敏雄が入っていたのは確実で、ブレーンストーミングの結果を藤田敏雄がまとめた企画書が現存しています。
「クレージーTV大全・植木等ショー!」の中でも当該企画書については触れられているのですが、より詳細に見ていきたいと思います。
1冊目は表紙に「ワンマン・ショー 企画案 シノップシス 第一弾 “植木 等 ショー”」とあり、すでに担当が決まっていた電通のロゴが入っています。
最初に「より詳細に」としたわけですが、全部を書き出すとキリがないので、要点だけを拾い上げておきます。
・何故「植木等ショー」を公開収録にするのか、それは芸術よりもスポーツに近いものにした方が観客はより昂奮を味わえるからだ
・植木等が登場する前にまずアナウンサーを登場させるべきである
・植木等の最初の挨拶は30秒に一度は笑わせるつもりでなければならない
・タイトルバックはショーアップを排除し、芸術家を招いてアーチスティックにすべし。必ずしもテーマ曲をバックで流さなくても良い
・従来のショー番組よりもドラマ性を保たせた方が良いのではないか
・番組用の新曲も作るが、なるべくいろいろな楽曲を歌った方が良い
・ショー番組はどうしてもショー番組に向く人材が限られている(例・加山雄三、吉永小百合、園まり)ので、マンネリにならないように遠藤周作、勝新太郎、オバQといった多彩なゲストを迎えるべきだ
だいたいこんなところでしょうか。
また「植木等ショー」は「レッド・スケルトン・ショー」を手本にすべし、というのもはっきり明記してあります。
レッド・スケルトンはアメリカのコメディアンで、「レッド・スケルトン・ショー」は1951年から20年にわたって放送された人気のショー番組でした。
人気のあった海外バラエティというと「ペリー・コモ・ショー」や「ダニー・ケイ・ショー」、また「アンディ・ウィリアムス・ショー」が有名だけど、「レッド・スケルトン・ショー」も日本で放送されていたらしい。
が、その中ではわりとマイナーな部類に入る「レッド・スケルトン・ショー」を手本に「植木等ショー」が構想された、というのは話としてなかなか面白いのではないかと思うわけで。
ここからはもうひとつの企画書について踏み込んでみたいと思います。
こちらの表紙には「ワンマン・ショー “植木 等 ショー” ー オリジナル・ビル 13回分 ー 構成:藤田敏雄」(以下オリジナル・ビル)というタイトルと「ワンマン・ショー 企画案 シノップシス 第一弾 “植木 等 ショー”」(以下シノップシス)同様、電通のロゴが入っています。
「シノップシス」がどういった趣旨で番組を始めるのか、つまり番組のコンセプトの説明だとするなら「オリジナル・ビル」はより具体的に、どんなゲストを招いて、どういうことをさせたいかが記載されています。
しかしこれらの企画はほぼ実現しておらず、というか本当に実現させる気があったのか疑わしい。もっというなら「絵空事」というか「絵に描いた餅」でありすぎで、そういう意味ではつまらない。
しかし「植木等という<素材>」をどう活かすのがベストなのかのブレーンストーミングをまとめたものだと考えるなら、これはこれで面白い。
では具体的に見ていこうと思います。実際にはどういうコーナーを用意して、どのようなコントをさせるべきかも書いてあるのですが、これまたキリがないのでサブタイトルとゲストから想像してください。
・植木等のコマーシャル
ゲスト・遠藤周作、ハナ肇とクレージーキャッツ(声のみ)
・ガンを恐れるな?!
ゲスト・谷啓、木崎国嘉、SKD、岡本喜八
・わが友サラリーマン諸君
ゲスト・森繁久彌、園まり、大宅壮一
・マンガと私
ゲスト・吉永小百合、オバケのQ太郎
・スポーツをやろう
ゲスト・杉本英世プロ、王貞治、ハナ肇とクレージーキャッツ
・名探偵登場
ゲスト・芦田伸介、(以下声のみ)日下武史、若山弦蔵、園井啓介、野沢那智
・若い季節
ゲスト・石原慎太郎、加山雄三、ハナ肇とクレージーキャッツ
・世にも不思議なショー
ゲスト・柴田錬三郎、水上勉、野坂昭如、野末陳平、三島由紀夫
・狭いながらも楽しいわが家
ゲスト・江利チエミ、ミヤコ蝶々、南都雄二、植木等夫人、ハナ肇、渥美清、青島幸男
・われもし剣豪なりせば
ゲスト・勝新太郎、緒形拳、ワタリ、サスケ
・芸術巨編
ゲスト・小澤征爾、ハナ肇とクレージーキャッツ
・明治は遠くになりにけり
ゲスト・柳家三亀松
・植木等リサイタル
ゲスト・浜口庫之助
この中でほぼ実現出来たのは小澤征爾が石丸寛に変わった程度の「芸術巨編」(実際のサブタイトルは「われもし指揮者なりせば」)くらいで、「狭いながらも楽しいわが家」と「われもし剣豪なりせば」が三分の一ほど実現、あと第2期「植木等ショー」の「植木等の大ハッスル」(坂本九、森光子、牟田梯三がゲスト出演し「ウンジャラゲ」を歌った回)のオープニングで「わが友サラリーマン諸君」という歌が歌われていますが、偶然なのかどうかはわかりません。
それにしてもほとんど公の場に出たことがない植木等夫人を引っ張り出すというのは無理に決まっており、プロ野球のシーズン中であることを考えれば、王貞治をゲストに招くなど何を考えているのか、と思われてもしょうがないレベルです。
では何故こんな現実味のない絵空事を企画書としてまとめたのかです。
「シノップシス」と「オリジナル・ビル」は表紙に電通のロゴが入っているところを見ても、これはスポンサー探しのために作成されたとみるのが妥当でしょう。つまり渡辺晋をはじめとしたメンツは、こんなことが本当に出来るとはまったく思っていなかったはずなんです。
結果的に花王石鹸(現・花王)と三洋電機がスポンサーに決まることになるのですが、当時の感覚で言えば30分番組にスポンサー2社は多い。この頃は大抵の場合、1時間番組でさえ一社提供が普通で、つまりかなりスポンサー探しが難航したのではないかと想像出来ます。
ちなみにですが、放送開始に合わせてTVガイド誌に掲載された番組宣伝広告(「クレージーTV大全 植木等ショー!」4P)に「提供・花王石鹸」としかないのはトリミングの問題であって、実際の原稿には「花王石鹸」の下にちゃんと「三洋電機」の文字があるのでご安心を。
この広告にはブレーンの記載がされており、そこには、秋山庄太郎、中原弓彦、笠原良三、富永一郎、三木のり平、ハナ肇、谷啓の名前があります。
映画「日本一」シリーズの脚本家でもある笠原良三は一見名義貸し臭いのですが、「オリジナル・ビル」の方に「笠原良三氏提案による「ゴマスリコンテスト」」という記載があることから見ても、アイデアの提供程度は行なっていたようです。
中原弓彦はもちろん作家の小林信彦ですが、いくら数年前まで「ヒッチコックマガジン」の編集長で、この当時はヒット番組「九ちゃん!」の構成を担当していたとしても、他のメンツに比べると格落ち感は否めない。(もちろん今の目で見ればまるで格落ち感はないけど)
また青島幸男の名前がないのも変で、一時期渡辺晋と青島幸男の間で軋轢があったと言われていますが、仮にも植木等のワンマンショーで青島幸男が噛んでないのは不自然極まる。ゲスト候補としては青島幸男の名前を出しているのだから、それこそ名義貸しでも座組みに入れておくべきだったんじゃないかと思ってしまう。
もうひとり田波靖男の名前もない。田波靖男と言えば映画の方だけと思われがちですが、クレージーのステージ台本もいくつか手がけており、テレビの構成作家のようなこともやっていたわけで、実際台本を執筆したという記録はないものの会議には参加しており、これも名前がある方が自然な気がする。
おそらくですが、渡辺晋が想像していた以上に優秀な人材からの協力を得られなかったのではないか。少なくとも、せっかく植木等初のワンマンショーなのに、渡辺晋が得意とした「衆知を集める」が実行出来ない、甚だ心細いスタートであったのは間違いなく、これでは遅々として企画が進まなくても無理もない、とさえ思ってしまいます。
さてここからは、植木等本人は「植木等ショー」をどのような心づもりで取り組んでいたのかを考えたい。
砂田実、鴨下信一の回想から想像するに、植木等にやる気があったとは到底思えないわけですが、やる気云々以前に植木等の性格からしても、良く言えば慎重、悪く言えば「そもそも前向きに仕事をするタイプではない」こともあると思う。
植木等は真面目だなんだと言われるわりには、関係者の証言、とくにテレビ番組関係の人の話からはあまり真面目さが伝わってこない人なのです。
「シャボン玉ホリデー」のプロデューサーだった五歩一勇は「意外と淡白にやってた」と発言しているし、鴨下信一はもっとはっきり「植木さんはいい加減」という表現を用いている。
当然テレビ番組以外にも映画や舞台の仕事がビッシリ詰まっているという殺人的スケジュールのせいもあるのでしょうが、前向きに「もっと良くしたい」という気持ちが見えないのも事実で、とにかく必死になってクレージーを引っ張ろうと現場を仕切ったハナ肇や、求められればどんどんアイデアを出した谷啓とはまるでタイプが違う。
しかし、それでも「植木等ショー」だけは、さすがに自身の冠番組だけあって他の番組よりも積極的にかかわった形跡が見られます。
有名な話ですが「植木等ショー」のために作られた「ウンジャラゲ」はクレジットこそ作詞・藤田敏雄になっているけど、植木等がアイデアから具体的な歌詞まで作ったというのが定説です。
おそらく「植木等ショー」で歌われたオリジナルソングのうち半分くらいは植木等が何らかの形でかかわっていたのは間違いなく、選曲についても相当口を出していたのは当時の新聞・雑誌記事からも窺えます。
小林信彦は「メランコリックな曲ばかり歌いたがるので困った」と書いているし、実際第一回ではお気に入りの「花と小父さん」、第五回では「野良犬ヒトシの物語」という長い(服部良一に言わせれば)シャンソンを歌っていますが、この楽曲も植木等本人が歌詞の手直しを行なった、と当時の新聞記事にあります。
自らも裏方的な関わり方をする、というのは当然植木等本人の希望でしょうが、植木等にたいして必要以上の気遣いもスタッフにあったはずです。
植木等という人は、こと仕事への姿勢となるととにかく気分屋なので、スタッフは徹底的に植木等をノセる必要があった。それは鴨下信一の証言からも間違いないでしょう。
ところが植木等をノセるのはただでさえ大変なのに、「植木等ショー」はまずそこからして躓いている。
「植木等ショー」は大人向けのショー番組として構想された。だから日生劇場という格式のある劇場が選んだのです。
しかし砂田実の証言通り、あまりにも格式がありすぎて、客がかしこまってしまい笑いが弾けないという事態になってしまったのですが、ここでPage2に続く。