榎本健一と植木等
FirstUPDATE2018.6.13
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 スケール感、という言葉ほどアイマイモコとした表現もないのではないのでしょうか。
 別にこれが正しい「スケール感の使い方だ!」みたいなのはないだろうし、おそらくみんな自分なりというか勝手に解釈してスケール感なんて言葉を使っていると思う。

 思えばアタシが植木等という人に惹かれた最大の理由が「スケール感」なんですね。
 レコード(CDだけど)を聴くだけでも部屋の空気感を変えてしまうような圧倒的な存在感、そして映画などの映像を見るとレコードをさらにひと回りパワーアップしたオーラを発しており、これはもうスケール感以外の言葉が見つからなかったのです。
 画面に植木等が登場しただけで、すべてが植木等色に塗り染められる。それはそれまでアタシが馴染んでいた芸人やコメディアンにないことであり、ビートたけしや明石家さんまでさえ、舞台ならともかくワンクッション挟まるテレビなどのメディアでは、登場した「瞬間に」自分色に塗り染めるのは不可能です。
 それが可能だったのは、歴代で見ても植木等だけだと思う。つまりこの人に「つかみ」は必要ないんです。何故なら存在そのものが「つかみ」だから。

 まァ今の、スターがスターとして輝く時代じゃない人と比較してもしょうがない。となるとスターが今よりも、もっと言えば植木等の時代よりもはるかにスター然としていた時代の人と比較しなければいけないと思うわけで。
 植木等以前のスターコメディアンと言うと、もう当然のように榎本健一、つまりエノケンの名前が浮上します。
 しかしね、アタシも相当根を詰めてエノケンの映画を観たり音楽を聴いたけど、ズバリ言えばエノケンにはスケール感はないんです。実は。
 植木等がすごいのは、画面に登場した瞬間に「うわーっ!出てきた!」ってなるところなんですよ。一番わかりやすいのが「ニッポン無責任時代」の冒頭シーンで、何ともいえない「何か」があってグーっと画面に引き込まれます。
 けどエノケンはそうじゃない。これはマキノ正博(雅弘)が撮った「待って居た男」を見れば嫌でもわかります。
 この映画はいわゆるオールスター映画なので、エノケンは最初から登場しない。序盤は長谷川一夫、山田五十鈴、高峰秀子といったスターが物語を引っ張ります。
 エノケンが登場するのは中盤近くなってから。大仰な感じで登場するんだけど、身体の小ささを抜きにしても、こじんまりした感じで、その押し出しのなさをむしろ笑いにしてあるんです。

 エノケンは晩年に近づくほどにワキに回るようになりましたが、意外なほど目立たない。かつて大スターだったものだけが身につけているオーラを発しても良さそうなものなのに、わりと普通の感じで収まっています。
 植木等はそうじゃなかった。ワキに回ってからもね、「逆噴射家族」でも「乱」でも、やはり異様な存在感があり、目立たなくてもいいのに目立っている。それも演技で周りを食うんじゃなくて存在感で周りを食ってるんだから、もう共演者も「あの人はどうしようもない」みたいな苦笑しか出てこなかったんじゃないでしょうか。よく「存在感を消す」なんて言うけど、んなもん本当は消せるわけないからね。ましてや植木等ほどの存在感があれば消すに消せないと思うし。

 エノケンって人はガッツの人なんです。ガッツの中には「自分が誰よりも目立ってやろう」とか「周りを蹴落としてでも出世する」とかもあるけど、一番は「自分でも物足りないと思える箇所は、どんな努力をしてでも身につけてやろう」みたいなのが強い人だったと思う。
 血だらけになりながら義足でトンボを切る練習をしてたってのは有名な話だけど、そんな裏話的エピソードじゃなくても、彼の映画を観るだけでも努力家の一面は垣間見えます。
 喜劇的な演技は作品を追うごとに上手くなってるし、華やかな感じも出てくるようになる。私見では1940年前後に秀作が集中してるんだけど、たぶんこの頃に喜劇的演技者・榎本健一が完成したんじゃないか。
 戦時中はあまり派手なギャグが出来なくなるとなると、今度は作品毎に哀感を漂わせるようになった。これも努力の賜物でしょう。
 結局ワキに回ってからのエノケンが目立たなかったのは「ワキはワキとしての芝居をしなければいけない」という、これも一種の努力だと思う。

 反面植木等にはそういうところはあんまりない。
 植木等の演技が変わったのは「本日ただいま誕生」が最初で最後で、以降晩年に至るまで「本日ただいま誕生」の終盤のような演技をずっと続けた。(この話はココ
 かといって無理にでもオーラを消すというわけでもなく、ワキであろうが暴れ回ってしまう。「ママハハ・ブギ」の最終回の暴れっぷりとか、暴れてやろうとしてやったってよりも、普通の感じでやっただけのような気もするし。

 持って生まれたスケール感で最初から突出していた植木等と、持ち前のガッツでひとつひとつ階段を上がるように出来ることを増やしていったエノケン。
 こんなことを書けばまるでエノケンには才能がなかったみたいに捉えられそうだけど、そういうことじゃない。エノケンだって天才的な音感やリズム感、そして身軽という言葉では足らないくらいの身体能力があったわけで、たしかにそれも才能と言えば才能だと思う。
 それでも才能とガッツなら、ガッツが勝ってるのがエノケン、くらいは言っていいんじゃないか。少なくともスケール感においては植木等より<はるかに>劣るのに、それでもエノケンが喜劇王であることには違いないのは、それはやはりエノケンのガッツがあればこそ、という気がします。

 つまりこのふたりはまるでタイプが違う。音楽ベースの笑いをやってたって共通点があるだけで、他が違いすぎる。だからどっちが上って話でもないんです。
 ただ植木等のすごさはわりと簡単に伝わりやすいのにたいし、エノケンは少々わかりづらい。アクロバティックな動き、と言われても、それこそ今の時代トンボを切れる人くらいいくらでもいますしね。
 でも戦前の主演映画を数観ていくと、嫌でもすごさがわかる。わかるんだけど、わかるまでいっぱい観ろってわけにもいかないのが難しいところなんですが。

エノケンの<売り>は動きというか身体能力と言われており、しかし、それこそチャップリンやキートンと比較されたら「なんだ、エノケンとかぜんぜんたいしたことないじゃねーか」と言われるのも当然なのです。
私見ではエノケンの最大の長所は哀感というか哀愁なんですよ。
色川武大は「エノケンは<ガラ>で喜劇にしていただけ」と看破していますが、ま、たしかにレビュウもいいんだけど、もっともエノケンが活きるのは哀しみのあるストーリーで、それは「巷に雨の降るごとく」を観ればよくわかる。エクスキューズは用意されてるとはいえ、「女に利用されるだけ利用される男の哀しみ」はエノケンだからこそ出せた<味>だと思うわけで。




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