映画を未見の方からすれば何かとんでもなく重たい映画に思われるかもしれません(「「日本一の裏切り男」徹底解剖」より)
まったく、何の予備知識もなしに、劇場まで足を運んで映画を見る、というのは非常に珍しいことです。最低でもジャンル(つまりコメディとかホラーとか)か主演者くらいは把握しているはずで、最低限の粗筋くらいは知った上で観ることもけして珍しいことじゃない。
しかしこの粗筋というヤツがクセモノで、間違ってはないんだけど、みたいな粗筋は結構あります。
今回の「本日ただいま誕生」もそうで、たとえば
『第二次大戦中、戦場で右肩の自由を失い、抑留されていたシベリアの極寒の中で凍傷にかかり両足を切断した大沢雄平は、帰国後仏門に入り、不自由な身体をひきずって日本中を行脚する(「ジ・オフィシャル・クレージーキャッツ・グラフィティ」より)』
全体として間違ってはいない(ただし劇中に「右肩の自由を失」ったという表現はない)。間違ってはないんだけど、これだけ読むと完全に宗教映画にしか思えません。
しかも「本日ただいま誕生」は独立系の作品で極めて公開期間が短く、その後フィルムが行方不明になったため実際に観た人がかなり少なかった。
そのためか書籍類でも粗筋はほとんど紹介されておらず、そうなると希少な「ジ・オフィシャル・クレージーキャッツ・グラフィティ」における粗筋は、この映画のイメージを(少なくともアタシには)決定付けるものだったといえます。
さて、最初に「日本一の裏切り男」について書いたものから引用しましたが、「本日ただいま誕生」と「日本一の裏切り男」は共通する部分があります。
ひとつは「ひとりの男を通じて戦後史を描いている」こと。
そしてもうひとつが、引用の部分となるのですが「とんでもなく重たい映画に思われるかもしれない」が、実はかなりエンターテインメントに針が振れた作品なのです。当然「日本一の裏切り男」は喜劇であり、「本日ただいま誕生」は喜劇じゃないんだけど。
この映画、前半が重く、後半になるに従って軽くなる。軽いったって笑えるとかじゃないわけですが、ユーモラスなシーンも出てきます。
いきなり両足切断のシーンがあり、中国大陸に置き去りにされ、両足を失った現実を受け入れられずに慟哭を繰り返すんですから、そりゃ重いに決まってる。
その後も会社が倒産、失恋などがあって、やっと仏門に入ることを決意するわけですが、ここまでで上映時間の2/3を費やしてる。しかし戦後史と絡めてエンターテインメント色があるので、絶望的なほどは重くはないのです。(この辺は「立派な僧侶の話にだけはしたくなかった」という降旗康男監督の意図が大いに反映されています)
そして乞食坊主になってからは、次々にクレージーキャッツのメンバーが出てきたり、いわゆる個性派といわれるような役者がどんどん出てきて、かなり楽しい。ロケが増え、舞台を伊豆(実際のロケは千葉で行われたらしい)に移してからは雰囲気も明るくなります。
劇中唯一笑えるシーンは谷啓が出てくるところで、いやぁ、この人は偉大だわ。
もうひとつ、別に笑えるとかじゃないけど老婆の娼婦役で小夜福子(戦前活躍したタカラジェンヌ)が出てきたのは上手いキャスティングだなぁと。
上映後、降旗康男監督のQ&Aがあったのですが、制作状況は困難を極めたそうで、予算はもちろん、渡辺プロや寺院(というか宗派)の突き上げもあり、かなりギリギリのところで完成したとのことでした。
だからか、変な言い方ですが、不具合もいろいろある。特に伊豆の貧民村(といっていいのかな)のところは、人間関係が整理されておらず、かなりわかりにくい。戸浦六宏の設定が特にわかりづらく、暗示するように写真を落とすシーンがあるのですが、唐突すぎて「え?結局どういうこと?」と思ってしまいました。
ラスト間際、「本日ただいま誕生」というセリフが登場する、いわば悟りを開くシーンもあきらかに説明不足で、あれではかつて愛し合った高子(宇津宮雅代)と偶然再開して、想いを断ち切るため、嫌な言い方をすればヤケクソにしか見えない。
てなわけで、面白いか面白くないかでいえば面白いのですが、けして完成度が高い作品じゃありません。とか書くと締めっぽいのですが、実はここからが本題なのです。
先ほども書いたように、前半は重いというかピリピリとしたシーンの連続です。両足切断のシーンなんか観てる方まで痛くなる。
しかしですね、植木等の演技がなんだか「古澤憲吾流」なんです。両足切断のシーンも東宝クレージー映画っぽい演技で、あれだけ痛そうなのに何とか観てる側が耐えられるのは、植木等がそういう感じで演じてるからです。
中村敦夫と川谷拓三と会社を興して、仕入れに行くシーンなんか東宝クレージー映画寸前で、当然シナリオがそうはなっていないので、東宝クレージー映画的展開にはなりませんが。
ところが数々の不幸の末、死を決意したものの死に切れず、仏門に入ることを決心するシーン、ここで仏に向かって宣言するのですが、ここからはあきらかに演技が変わっていく。
後半はね、軽いのです。しかし植木等の演技は変わっている。坊主になるまでが東宝クレージー映画演技だとするなら、坊主になって以降は晩年のコミカルさは保ちつつ落ち着き払った、晩年の集大成ともいえる「ビッグマネー!~浮世の沙汰は株しだい~」に通じる演技をしている。
いわば「仏に向かっての宣言」は「東宝クレージー映画的演技、ひいては無責任男との決別」をも意味している。
ま、その後このふたつを融合というか折り合いをつけて、それが「スーダラ伝説」へ結実するわけですが、それはまた別の話、ということで。