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「スーダラ伝説」前夜のクレージー
FirstUPDATE2018.4.2
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 1990年、というと言うまでもなく「スーダラ伝説」が発売された年なのですが、CDという形で「スーダラ伝説」が店頭に並んだのは11月25日です。
 こんなものが発売されたことへの驚きは何度も書いてきた。
「信じられない」
 もう、本気で、そう思った。とにかく嬉しさよりも驚きの方が勝ってたんだから。
 しかし何故そこまで驚くほどの出来事だったのか、その辺りについて書こうかと。

 2021年現在、クレージーのメンバーで存命なのは犬塚弘だけです。しかし「スーダラ伝説」が発売された1990年の時点では、脱退した石橋エータローを含む全メンバーが存命、存命っていったらアレだな、何にせよ現役バリバリだったわけです。
 メンバーも健在で、まだ全盛期の活躍を覚えておられる一般層も元気だった時代、しかし当時、ファンの間では「クレージーキャッツとしての活動再開は絶望的」と囁かれていたのです。
「植木等がクレージーとの仕事を嫌がっている」
 そんな噂はたしかにありました。そしてこの年の6月に「クレージーキャッツ 55‐90」という書籍が発売されたことが決定打になったのです。

 「クレージーキャッツ 55‐90」をお持ちの方ならご存知でしょうが、この本は画期的な内容で、というか「書籍」というより「楽譜集」といった方が良い。
 全盛期のクレージーソングを楽譜に起こし、「スーダラ節」に至ってはフルスコアまで掲載されている。採譜を担当したのは溝淵新一郎ですが、この仕事が「スーダラ伝説」に繋がっていくことになるわけです。
 しかしこの時点ではそんなことはわからない。
 本の中には青島幸男と宮川泰の鼎談が掲載されたり、譜面が読めない人間にも面白いものになっており、コラム類も数多く掲載されている。
 今現在、当該書籍が手元にないので詳細は忘れたのですが、「植木等がクレージー的なことをやりたがらなくなった」という示唆が入ったコラムが掲載されたのです。

 アタシ個人の気持ちはというと「残念」というより「やっぱり」といったもので、これも同年春から放送されたJR東海のCMで、植木等だけ出てなかったんです。
 さすがにそれだけじゃ気付かないけど、ちょうどこのCMが放送されてた頃に「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングのコーナーにハナ肇が出て、タモリがとくに質問してないのに自ら「あれ、植木だけ出てないてしょ?あれさ、当日植木が遅刻して新幹線に乗れなかったんだよ」みたいな話をしてて。
 これを見てアタシは「嘘臭いなぁ」と思った。
 だいたいハナ肇は芸名の由来からして「嘘がつけない、ついてもすぐバレる」ってことなのですが、こんなエピソードを知ってようが知らなかろうが、簡単に嘘ってわかる感じで喋っちゃうのがハナ肇という人の人間味なのでしょうね。
 ま、それはともかく、このハナ肇の話を聞いて「やっぱり噂は本当だったんだ」と思った。そしてそれを裏打ちするように6月に発売された「クレージーキャッツ 55‐90」のコラム。
 これでもう、間違いないと思った。ああもう、これから植木等はクレージー的なことは二度とやらないんだろうな、と。

 しかしこれより4~6年前、つまり1984~1986年頃は、もっと希望があったんです。
 とくに1985年はクレージーキャッツ結成30周年にあたる年だったので、フジテレビで「アッと驚く無責任!」をやったり、翌年にはサントリービールのタイアップソングとして「実年行進曲」を発売している。
 そして1989年には、ある意味「これが最後のクレージーキャッツ勢ぞろい」という映画まで作られた。
 それが市川準監督の「会社物語」なのですが、逆に「会社物語」をやったことで、もうこれでお終い、みたいなムードが出来てしまったんです。(何しろ惹句が「それでは、皆さん さようなら。」だったんですからね)
 この頃はすでに後輩のドリフターズも怪物番組「8時だョ!全員集合」を終了させていたし、さらにもうひと世代前のクレージーが活動する時代でもないだろ、みたいな。
 これからも不定期でクレージーキャッツのメンバーが数人単位でテレビに登場するかもしれない。しかしそこにスーパースターだった植木等の姿はない。そんな未来像しか描けなかったんです。

 正直言えば、植木等抜きでクレージーキャッツ、と名乗るのは違う気がしたし、というか当時の若い、つまりリアルタイム世代でないクレージーファンにとっては植木等こそクレージーのすべてだったと思う。
 もし仮に植木等が単独でクレージー的なことをやったとして、それと植木等抜きクレージーとどっちが興味を惹くか、それは植木等単独の方だったと思う。
 アタシ自身の記憶でいっても、植木等が出る番組や映画は気になったけど、他のメンバー、それこそハナ肇や谷啓が出ていてもとくに気にならなかった。ましてや犬塚弘、安田伸、桜井センリに至っては気にも止めていなかった、というのが当時の正直な気持ちです。
 ところが植木等が出ているといっても、ほとんどは真面目な映画やドラマで、当然のように歌なんか歌わない。この頃の植木等は「元ギタープレーヤーでも元コメディアンでもない、ごくごく普通のベテラン俳優」としての活動しかしてなかったんだから。
 なのでリアルタイムの彼らの活動にはほとんど興味がなかった。いや興味を持てなかった。アタシもまだ20歳前後だったし、他に興味があるものもいっぱいあったし。
 だからアタシをはじめとする当時の若いファンは「過ぎ去った過去の活動」へのファンだった、と言えるのです。

 ではそんな時代、当時の若者がどうやってクレージーキャッツという存在を知ることになったかを書いていこうと思います。
 つまり「スーダラ伝説」の直前期、当時の若者は如何にしてクレージーキャッツ、及び植木等という存在を知り、またファンになったかです。

 ひとつは、大瀧詠一経由です。
 大瀧詠一が様々な場所でクレージーキャッツの凄さをスポークすることによって、大瀧詠一のファンがそのままクレージーキャッツのファンに近くなった。これについてはアタシは功罪半ばと思っているんだけど、今回はそれはいい。
 しかし大瀧詠一関係なくクレージーのファンになった人もいっぱいいました。
 たとえば、1980年代前半に浅草東宝で繰り返しクレージー映画をオールナイト上映したことによって、固定ファンがついた。このことは小林信彦著「喜劇人に花束を」でも触れられています。
 ただこれは在住する場所が限定される。繰り返しオールナイト上映されたのは浅草東宝、つまり東京です。東京(広めにいっても関東圏)以外に住む人間にとってはまるで関係ない。
 ではアタシが住む関西で浅草東宝のようなことをやった劇場があったかというと、皆無です。

 大瀧詠一に興味がない、東京在住でもない、そんな人間がクレージーに興味を持つきっかけは何だったのか、これは当時の世相と大いに関係があります。
 1980年代後半から90年代のはじめにかけて、街の景色はいろいろと変わっていきました。とか書くと社会派ルポみたいだな。
 存在自体は1980年代前半、もっと早いところなら1970年代からありましたが、ちょうどこの頃くらいから「都心の駅前にはコンビニがある」というのが当たり前になっていきました。
 コンビニほどではないにしろ、ライフスタイルを軽く変えるものにレンタルビデオ屋があった。これも登場は1980年代前半だと思うけど、平成になったくらいに大幅に増えた印象です。

 レンタルビデオ屋が増えたのはそれだけ家庭用ビデオデッキが普及したってことなのですが、もうひとつCDプレーヤーも同時期に普及してきた。ということはつまりレンタルCDも盛んになったということを意味します。
 それ以前もレンタルレコード屋はなくはなかったけど、そこまで一般的ではない。かなりうらぶれた感じの、如何にも音楽に詳しそうなオッさんがひとりで経営している、みたいな店ばっかりだった。
 それがレンタルビデオ屋になると全国規模のチェーン店が幅を利かせるようになってきた。それらの店舗がCDのレンタルも兼ねていたのは言うまでもありません。

 何を書いてるんだ、と思われるかもしれませんが、レンタルビデオ、レンタルCDが当時の若者に与えた影響は計り知れない。
 劇場に観に行くより、レコードを購入したりライブに足を運ぶより、ずっと安価で映画を観たり音楽を聴けるようになったのです。
 とくに映画の場合、それまでは劇場で上映されている映画しか観ることが出来なかったのが、レンタルビデオ屋の普及によって、わざわざ劇場のある都心部まで行かなくても近くのレンタルビデオ屋に行けばよりどりみどりで好きな映画が観れる。しかも圧倒的に安い。
 劇場まで行くにしろ、テレビで放映されるものを観るにしろ、それまで映画観賞は「用意されたものをありがたく観る」受動的な行為だったのが、レンタルビデオ屋の普及で「能動的なもの」に変化したのです。
 もちろんビデオ化されてないものは観れないんだけど、それでも選択肢はレンタルビデオ屋普及前とは比べものにならない。

 そして、ここまで安価で手軽になると、普通なら絶対に観なかったような、古いマイナーなものを観る人が出てくる。
 当然その中には東宝クレージー映画も入ってきた、という。
 この辺でPage2に続きます。







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