センサーをいっぱい使わせれば
FirstUPDATE2018.2.13
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いきなり長々と引用します。

まだ「考えて練習せぇ!」ならわかる。しかし実戦中に考えてたら余計なミスが増えるだけじゃないか。人間一度に多くのことは考えられない。考えることが増えれば増えるほどミスをしてしまう確率が高くなってしまう。(中略)実戦で考えちゃダメなんですよ。なのに、百戦錬磨の野村監督がそんなことも気づかなかったのは解せない(2009年1月31日更新「野村克也野球は考える野球?」


これは2009年当時、楽天のキャッチフレーズが「考えて野球せぇ!」から「氣」に変更されたことを受けて書いたものです。
引用からもわかる通り、当時の楽天の監督は野村克也でした。野村克也はドン・ブレイザーの持ち込んだシンキングベースボールの日本版「考える野球」を提唱し実践してきた人ですが、その野村克也をして「考える」ことを一旦表から引っ込めなきゃいけなくなったという話でして。
しかし重要なのはこの後です。

いや、ヤクルトの監督をやってた頃まではID野球とか標榜しながら、実際は「(相手に)考えさせる野球」をやってたような気がするんだけど。


いろんなことを瞬時に考えることは人間には出来ない、つまりは人間ってのはマルチタスクではない(マルチコアの方がいいか)ってことなのですが、これは野球に限らずどんな場でも、相手にミスを誘発させようと思えば、いろんな情報を一気に与えて混乱させるってのは、たしかに有効な手段なのかもしれません。
ただ、圧倒的劣勢ならこうしたことをするのはわかるのですが、策士策に溺れるではないけど、相手に通用しないことが多いというよりは、よほど注意深くやらないと自分で勝手にコケる結果になることが多い気がしているのですよ。

さて話は大幅に変わりますが、人情喜劇というジャンルがあります。ま、一般的に山田洋次作品なんかを指してこう呼ばれることが多いけど、これは前にも書いたけど山田洋次作品のどこが人情喜劇だと思うんですよね。
というかあの人の作品って「人情にほだされて」みたいな展開ってほとんどない。むしろ、どす黒い欲望だったり、狭量でずる賢く逃げ回ったりする登場人物ばっかりじゃないかと。
いや、言いたいことはわかるんですよ。おそらくはナンセンス喜劇の対極として人情喜劇という言葉を使ってるんだろうけど、どうも「人情」ってのが良くないんですね。

たとえばこれが「感動喜劇」なら、まァアタシも納得出来る。っつっても小泉純一郎がいうところの「感動したッ!」の感動ではなく、「可笑しい」以外の<感>情が<動>く喜劇で「感動喜劇」じゃないかと。

芸人でもコメディアンでも、笑いを生むことを本職にしている人が、ある時、ふと「人を笑わせる<だけ>というのは、あまりにも薄っぺらいことではないか」みたいな疑問を持つ。小林信彦なんかはこの手の感情について「森繁病」と断じているけど、別に森繁久彌の影響があるとかないとか関係なく、もっと自分の芸を追求したいと思った時に思ってしまいがちのことではないかと。
だから「ありがち」とは思うけど「くだらない」とか「劣等感の末の発想」とは思わないんですけどね。

たしかに芸の中に「笑わせる」以外の、たとえば深い言葉が入っていたり、思わず涙が出てくるようなものが付随されていたら、それはそれで良いと思うんですよ。
しかしこんなのが上手くいった試しがない。ま、試しがないってことはないけど、大抵は失敗する。
それまであった「笑い」にプラスされる形で別の感動があるのならいいけど、実際はプラスアルファにはならずに肝心の笑いが水増しされる。仮にプラスアルファが素晴らしくても笑いが薄まったことになるのだから、どうしても印象は「なんだか、前より面白くなくなったなぁ」なんてことになりやすいんです。

今回「センサー」なんて言葉をエントリタイトルに入れたけど、これは「ダウンタウン松本が「紳助は感動の要素が入ると(笑いの優劣を見抜く)センサーがバグる」と言っていた」というコピペがあるからなんだけど、この話の真偽は知らない。ま、如何にも松本が言いそうではありますが。(それでも「バグる」って言葉は使わないと思うけど)

これは島田紳助が山崎邦正(今は月亭方正ですな)の元相方を「松本以来の天才」と評したことが元ネタになっているのでしょうが(これは本当らしい)、正直アタシはこの元相方の話はもちろん名前すら書きたくない。だから、以降(山崎邦正の)「元相方」と書きますが、もう芸人を辞めていますし、ネットで検索しても怪しげな噂ばっかりだし。
ただ、この元相方のネタがかなり「感動」方面に振れたものだったらしい。実際に見たことがないんでどういう感じだったかは知らないのですが。

ま、今はともかく、最初は元相方も「笑いだけではなく、笑い以外のものを付加したものを提供していきたい」という志しだったと好意的に解釈していますが、こんなことは若手のうちにやるべきではなかったのではないかとも思う。
手段は何でもいいと思うのですよ。上岡龍太郎のような毒舌でも、クレージーキャッツのような音楽でも。しかし最初の目的が笑いなのであれば、少なくとも提供する側は目的は最後まで笑いオンリーでなければならないと思うんですよ。
もちろん結果として感動的になることもある。けど「笑い以外にもいっぱいのセンサーを観客に使わせてやるぞ」なんてことをやってしまったら、やっぱりロクでもないことにしかならないような。

「男女7人夏物語」の話の時も書いたけど(現注・ココ)、感情を動かすことが目的なのであれば、笑いは笑いでも「ユーモア」にするのが無難だと思う。ま、微苦笑ってヤツですね。
大笑いさせたいし、感動もさせるなんて、あまりにも難易度が高い。山田洋次や藤山寛美のような天才でも成し遂げられたとは言い難いんだし、そんな中途半端なことするくらいなら最初からどっちがメインか絞るべきなんじゃないでしょうか。
黒澤明は「クライマックスだけの映画はあり得ない」と言ったそうだけど、アタシは「目的がふたつもみっつもある娯楽は成立しない」と思っている。

笑いってベースは変えずに観客を感情させたい?泣かせたい?んなもん結果ですよ結果。そこだけは履き違えちゃマズいと思うんだけどねぇ。







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