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人生で大切なことは全部マイコンが教えてくれるわけねーじゃん
FirstUPDATE2017.2.17
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 ちゃんと調べたわけじゃないけど、一時期、いや下手したら今もか。とにかく「人生で大切なことは全部○○が教えてくれた」式の書籍が山ほど出版されてましたよね。
 一応は微妙にズラしているものが多く「大切」が「大事」とか「必要」になったり、「全部」が「みんな」になったり。
 ま、いくら小手先を変えてもこの手のタイトルの書籍を見たら、アタシは一切合切まとめて「ああ自己啓発本ですなこれは」としか思わないんだけど。
 
 さて、別にテンプレタイトルの自己啓発本の内容に合わせるつもりはないけど、あなたにとって人生を変えるほど影響を受けたモノは何ですか?と問われても、答えに詰まります。
 それこそクレージーキャッツとか戦前モダニズムとか好きなモノは山ほどあれど、果たしてそれが「人生を変えるほど」だったかというと、正直よくわからない。だってこれらは所詮は趣味の話だもん。
 それでもクレージーキャッツや戦前モダニズムで生まれた縁もあるし、まったく何の影響もなかったのかというと、さすがにそれはない。
 どちらも大人になってから興味を持ったモノですが、これが子供の頃に大好きだったことが影響あるかないかで言えば、野球を唯一の例外として、あとはもう皆無レベルなのです。
 「タイガーマスク」が好きだったのにプロレスに一切興味がないとか、「仮面ライダー」が好きだったのに特撮モノはむしろ苦手だとか、逆に縁遠くなってるくらいなんですよ。
 
 もっとも微妙なのは子供と大人の間に興味を惹かれたモノです。
 中学から高校の頃、アタシはマイコン(今で言うパソコンの名称)なるモノに淫しておりました。とくに高校の頃は毎日のようにマイコン売り場に足を運ぶほどハマっていたわけで。
 現在のアタシはパソコンを使う仕事をしているし、趣味でスクリプトを書いたりもする。それだけ取れば十分「影響を受けた」と言えそうなものですが、パソコンで仕事と言っても今や当たり前の話だし、スクリプトだって自分がラクするためにって要素の方が強いしね。
 昔とった杵柄じゃないけど、知識的に役に立つことがあるかないかで言えば、あるのかもしれない。しかし今も影響が続いているか否かで言えばクレージーキャッツや戦前モダニズムによりもはるかに小さいとも言い切れる。
 ただ、ものすごく間接的にっつーか、だからアタシはこーゆー考えなんだ、と思いあたるフシがひとつだけある。
 それをね、つらつら書いていこうかと。
 
 さて、本当はね、新しく趣味を始めるにあたって動機が不純もクソもないと思うんだけど、アタシがマイコンに興味を持った理由は間違っても高邁なものではありませんでした。
 単刀直入に言えば「ゲームがやりたい」。もう、完全にそれだけ。まァね、そりゃあうちの家系の悪癖(?)である「新しもの好き」の血が騒いだってのも否定しないけど。
 1980年代前半、当時のマイコンの性能たるや、現今のパソコンと比較することすら不可能です。
 何しろまだ日本語の入力(はおろか表示)さえ、まともに出来ない時代です。つまり極端に狭い業界での用途以外はとても仕事で使うなんて無理だったんですね。
 ではそんな時代のマイコンなるもので何が出来たかというとゲームが関の山で、と言っても当時のマイコンの性能では1983年に登場したファミコンよりもはるかにショボいゲームしか出来なかったんです。
 
 当時、マイコンはベラボウに高かった。一番安いエントリ機種でさえ10マン近く、中級機で15マンから25マン、それ以上となると平気でン十マンが飛ぶ。しかもこれは本体だけの値段で、モニタやらなんやらを加えるとさらに倍、みたいな感じでした。
 仕事では到底使えない、ファミコン以下のショボいゲームしかない、しかもかなりの高額。そんな当時のマイコン事情でしたが、大手メーカーは我も我もと次々にマイコン市場に参入している。つまりはそれだけ売れていたんです。
 
 というのもね、当時を憶えておられる方からすれば当たり前の話ですが、マイコンというのは「仕事用途」でも「遊び用途」でもなく、あくまで「プログラミングするためのもの」だったんです。
 それほど「コンピュータ=プログラミング」は絶対的で、任天堂が初めてファミコンを発表した時、記者たちに失望されたらしい。「ファミリー<コンピュータ>と銘打っているのにキーボードが付いていない=プログラミングが出来ないじゃないか」と。
 もちろん<表向き>ってことはある。親にねだるのに「コンピュータのプログラミングを勉強したいから」というのは理由としては強力ですからね。
 でもホンネはゲームをやりたいだけ、みたいな人はアタシひとりではなかったと思うわけで。
 
 1982年、当時爆発的人気を誇っていた漫画「ゲームセンターあらし」の作者であるすがやみつるが、そんな時代の空気を完璧に汲み取った書籍を書いた。それが「こんにちはマイコン」です。
 完全にビギナー向けかつ低年齢層向けのこの漫画形式の書籍をアタシが名著だと思うのは「一切読者を置いてけぼりにしていない」からです。
 あくまでマイコン入門書という体裁でありながら「ゲームセンターあらし」の登場人物を上手く配して、見事に「ゲームが動く<しくみ>」、ひいては「コンピュータとはこんな面白いものである」というところまで誘(いざな)ってくれる。
 とにかく「ゲームセンターあらし」の主人公でもある<あらし>の「何でもいいからとにかくゲームがやりたい」という姿に、おそらく大半の読者が自己投影出来たと思うんです。
 
 その中のひとりにアタシもいました。
 いやね、本当は「こんにちはマイコン」の前からマイコンの存在自体は知ってたんだけどさ。
 というのも先ほども書いた通り、うちの家系は極度の新しもの好きなのですが、叔父のひとりがマイコンに強い興味を持っていたんです。
 叔父は別に理系でもなんでもないんだけど(どちらかと言うと文系寄り)、1970年代半ばにマニアの間で話題になっていたワンボードマイコン(機種名は憶えてないけど、TK80かそのシリーズだったと思う)を購入したのを手始めに、タンディラジオシャックのTRS80、日立のベーシックマスターレベル3、NEC(当時の言い方なら日電)のPC-9801Fと次々に購入していました。
 
 んで、アタシがちょうど「こんにちはマイコン」を読んだ頃の話です。
 いくらマイコンに興味を惹かれたからといって、易々と買えるシロモノではない。さっき書いた通り、何しろン十マンの世界だし。んなもん一介の中学生に買えるわけがない。
 そんなタイミングで叔父に「レベル3、いるんやったらあげるわ」と言われた。
 たしかに偶然にも、アタシがマイコンに興味を持ったのとほぼ同じタイミングで叔父はPC-9801Fを購入している。このPC-9801Fってのは当時民生用マイコン(つまり業務用ではない、という意)としては最高峰の機種で、性能でかなり劣るレベル3は叔父にとってほとんど必要なくなった。しかも甥が自分同様マイコンに興味を持ったってのが嬉しかったんでしょうね。だから発売当時30マン(モニタまで含めれば50マン近く)ほどしたレベル3を無償で譲ってくれたと。
 
 いやぁ、これは本当に嬉しかった。これでマイコンで遊べるぞ!と。
 けど嬉しかったのなんて、ほんのひと月ほどだけ。あとはもう、触るたびに不満がつのっていったんです。
 繰り返しますが、アタシがマイコンに興味を惹かれた<きっかけ>はあくまでゲームです。これさえあれば小遣いを気にすることなく無限にゲームが遊べる。そんな実に不純な理由でした。
 ところがこのレベル3って機種、とにかく「ゲーム」との相性がすこぶる悪かったんです。
 
 先ほどよりしつこく当時のマイコン=プログラミングするためのもの、と書いてまいりましたが、逆に言えば当時は市販ソフトなんてものはほとんどなかったんです。自分がやりたいことに則したプログラムを自分で組む、やりたいゲームがあれば自分で作る。これが基本だったと言っていい。
 では「他人さんが書いたプログラムを動かす」ことは不可能だったのか、というとそんなことはない。
 この頃のマイコン雑誌にはプログラム、まァ今様に言えばソースコード(アセンブラの場合はダンプリスト)ですが、それが誌面に掲載されていたんです。
 雑誌を購入してマイコンに手入力すれば、まァいや雑誌代だけでソフトウェアを入手することが出来たわけで。
 
 しかしこれが大変ったらありゃしない。
 当たり前だけど、凝ったゲームなんかだとそれだけソースコードが長くなる。つまりそれだけの労力を使わなければ他人さんのプログラムを使うことさえ出来なかったわけで。
 もしかしたら「手間暇をカネで買う」という意味で今のソシャゲと同じ発想かもしれないけど、こんな長いプログラムを手入力なんて出来るか!オレ様はそこまで暇じゃねーぞ。その代わりカネはあるんだから、ソースコードが入ったメディアを有料でいいから配布してくれよ、という要望があったんでしょうね。そのうち各マイコン雑誌はソースコードの有料配布を始めた。
 諸外国は知りませんが、少なくとも日本での市販ソフトの興りは「有料配布」という形で始まったと言っても過言ではありません。まァ今のソフトウェア販売とは根本的に違うという。
 
 違うと言えば、今パソコンを購入するとあらかじめOSなるものがプリインストールされている。Apple製のパソコン(つまりMac)を買えばmacOSが、Apple以外のメーカーのパソコンを買えばWindowsが、と言った具合に。
 しかし当時のマイコンにはOSなんてものは入っていない。ま、欧州あたりではCP/Mがかなり普及していてプリインストールされている機種もあったみたいだけど、我が国のマイコン事情は余程の物好き以外はOSなんてものに興味を示していませんでした。
 OSの利点はいろいろあるけど、一番はやはり「パーツ構成がある程度違えど、最低限の互換性が保証されている」ことだと思う。だからエントリ機種だろうが何十コアの超高性能パソコンであろうが、そのソフトウェアがそのOSに対応していれば、とにもかくにも動くのは動く。このおかげでメーカー関係なく自由に、性能や用途に応じてパソコンを選べるわけです。
 ところがOSが入っていない当時のマイコンではこうはいかない。
 極端に言えば機種間での互換性がまったくない。例外的に後継機種のみ下方互換が取られていましたが、メーカーが違えば互換性がないのは当たり前で、仮に同じメーカーでもエントリ機種と高機能機種で互換性は皆無だったんです。
 
 ソースコードの有料配布が当たり前になり、やがて、いつしかそれは「市販ソフト」という形になった。そしてこの頃、無数のソフトウェア専業メーカーが大小問わず誕生している。
 しかしソフトウェアメーカーが販売するソフトはメジャーな機種に限られた。メジャーってのはそれだけ売れた、ある程度普及している機種ってことでして、そりゃ商売でやってんだから売れてない機種用のソフトなんか出しても損するだけです。
 1980年代半ばが近づくにつれ、マイコンは「プログラミングをするためのもの」から「ソフトウェアプレーヤー」に変貌しつつあったのです。
 こうなるとマイナーな機種を持つ者は悲哀を味わうことになるわけで、アタシが叔父から譲り受けたレベル3なんかマイナーもマイナーだったから、市販ソフトがほぼないのはもちろん、雑誌にソースコードが掲載されることすら稀で、アタシの「マイコンさえあればいくらでもゲームが遊べる」という夢は脆くも崩れ去ったんです。
 
 しかしそれでも、まだ「欲しけりゃ自分で作る」という選択肢がなくなったわけじゃない。つまりは自分でプログラミングすればいいんだけど、このレベル3って機種がまったくゲームを作るのに適した性能ではなかった。
 詳細は書かないけど、グラフィック性能は実に中途半端だし、メモリも少なすぎる。
 致命的だったのはとにかく遅いことで、こんなので初心者のアタシが、ごくごく簡単なものはともかく、市販ソフトに負けないものを作るなんて到底不可能です。
 よく「初心者ほど高機能なものを使うべし」とか言うけど、これは本当にそう思う。技術のなさをマシンパワーで補ってやるってのは正解で、初心者なんだからエントリ向けの低性能なので十分、なんてやったら、間違いなく<ソレ>が嫌いになるよね。
 
 だから結局、レベル3ではプログラムの初歩の初歩を覚えただけです。ン十マンの商品でそれはもったいなさすぎるって話だけど、それはしょうがないよ。まだ高校生になったばかりだもん。 
 てなわけでPage2へ続く。







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