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嗚呼、勇者!
FirstUPDATE2017.2.1
@Classic #プロ野球 #1970年代 全2ページ 阪急ブレーブス 今井雄太郎 抗議 日本シリーズ 足立光宏 オリックスバファローズ 福本豊 国際化 PostScript #兵庫 #マジョリティ/マイノリティ #噂 @戦前 #1960年代 #1980年代 #1990年代 #2000年代 #2003年 #2010年代 #2020年代 #スポーツ #ダウンタウン #嗜好品 #大阪 #施設 #神戸 #福岡 #雑誌 tumblr 画像アリ

 たしか1998年のことだったと思う。当然細かい日付は憶えてないんだけど、とにかくアタシはその日、まだ渡辺通り1丁目交差点の角にあった頃のFBSに向かっていました。
 ってこれだけでは何のことかさっぱりわからないかもしれませんが、FBSというのは正確にはFBS福岡放送。名前で察しがつくはずですが福岡ローカルの放送局で日本テレビ系列になります。

 さてここで話が変わるようですが。
 今はそうではありませんが1990年代くらいまで、日本テレビ系列の日曜日22時半からの1時間は日本テレビでは「進め!電波少年」や「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」が放送されていた。
 しかしこの時間帯、いわゆるローカルセールス枠ってヤツで、例えば大阪のよみうりテレビでは「大阪ほんわかテレビ」が放送される、といった具合でした。
 完全に余談だけど、アタシは神戸出身なので、つまりは「ガキ使」が見れなかったんです。だいぶ経ってから深夜に放送されるようになったんだけど、これが悔しくてね。登り盛りのダウンタウンの、もっとも良さが出た番組って噂は聞こえていたから、何で関西出身のダウンタウンのそんな番組を関西で見れないんだ、と。

 話を戻します。
 1990年代末、福岡のFBSで日曜日の22時半から放送されていたのは「ナイトシャッフル」って番組でした。
 司会は、まァ、福岡の人にはいろいろ思うところがあるようだけど書かなきゃしょうがないんで書くけど、山本華世。全国的な知名度は皆無に近いけど、出産シーンがテレビで放送されたこと、つか赤ちゃんが産まれる瞬間がテレビカメラに映し出されたこと(女性器がモザイクなしで映し出された)でほんの少しだけ話題になったことがあります。
 もうひとり。今となってはというか、福岡の人からしたら当たり前すぎて違和感はまったくないんだろうけど、MCというかレギュラーとして今井雄太郎が出演していたんです。
 今井雄太郎、と聞いて「ああ、阪急ブレーブスの」と思う人は相当な年齢の人だけだと思う。ま、アタシ自身相当な年齢だからね、だから「たしかに最晩年にホークスに在席していたけど、あの今井雄太郎が福岡に定住し、あまつさえ福岡のテレビ局の番組にレギュラーで出ている」ってのは違和感がかなりあったわけで。

 「ナイトシャッフル」という番組において今井雄太郎=酒好き、というのはかなり認知されていました。
 当時アタシは某地方タウン誌の記者で、その雑誌で酒特集をすることになった。となると今井雄太郎は外せない、となってね。んでアタシはインタビューの打診を試みた。
 とは言ってもどこに打診していいのかわからない。たぶん今井雄太郎は芸能事務所にも所属してなかったと思う。ならばレギュラーで番組を持っているFBSに聞くしかない、と。んでいろいろあってFBSの社屋で今井雄太郎にインタビューが出来ることになります。
 ただ問題がないわけではなかった。
 そもそもの話ですがアタシは下戸です。まったく飲めないわけじゃないけど少なくとも強くはないし、酒の知識に精通している、なんてわけがない。
 ま、そこは何なりと誤魔化そう。それよりも、アタシはひとつ、野望を抱いてインタビューに臨んだのです。

 アタシは小学生の頃まで大の阪急ブレーブスファンでした。その後いろんなことがありすぎて阪神タイガース一本に絞ることになるのですが、最初に心を奪われた球団は間違いなく阪急ブレーブスであり、今でもあの当時のユニフォームを見ると胸が熱くなります。
 だから、この際、アタシが疑問に思っていたことを全部今井雄太郎に聞いてやれ。いやもう酒のことなんかテキトーに済ませちゃって、とにかく阪急の話だけを聞こうと。記者としてはサイテーな行為だけど、どうせ酒の知識なんかないんだからその方が面白い記事が書けるに決まってる、と。
 今井雄太郎は顔面はまァコワモテと言っていい感じの人だけど、とてもにこやかに応対してくれた。
 だからアタシも調子に乗ってね、酒の話なんて最初の10分くらい、あとの一時間半ほどはひたすら阪急の話を聞きまくったんです。

 最初は、たぶん「良く訊かれるであろう」、しかも本題である酒絡みの話題から入った。
 今井雄太郎と言えば「昭和最後の完全試合」を達成した投手として知られていますが、完全試合を達成した1978年頃まではとてもじゃないけど主戦投手ではありませんでした。
 ブルペンで投げる球は一級品なのに、気が優しくマウンドで本来の球が投げられない、とにかくそういう、どこのチームにもひとりはいるような「一皮剥けない投手」に過ぎませんでした。
 そして今井雄太郎にはもうひとつの顔があった。
 彼は新潟の出身で、とにかく酒豪で知られていた。水島新司の「あぶさん」の劇中にも「酒を浴びるように飲んで支離滅裂になる今井雄太郎」が活写されていますが、当時は「今井に酒を飲ませて投げさせろ」とまで言われていたんです。
 だからこんな伝説が生まれた。「あの完全試合の試合前にコーチが一杯飲ませてマウンドに向かわせた」と。
 この質問に今井雄太郎は「プロはそんなに甘くない」と笑いながら答えてくれましたが、そういうことを言われた(酒を飲んでマウンドにあがれとコーチに言われていた)のは本当らしい。
 「あぶさん」の話に触れると「水島先生はね、下戸なんだよ。何度も一緒に飲みに行ったけど、ずっとコーヒーを飲んでる。コーヒーをボトルキープしてたくらいなんだから」

 他にもいろいろ面白い話を聞いたけど、印象に残っているのは2019年逝去された高井保弘の話は印象深かった。
 高井と言えば代打男として、今でも代打本塁打の日本記録保持者ですが、有名なのは1974年のオールスターでサヨナラホームランを打ったことでしょう。
 守備位置は一塁で、しかし一塁には不動の3番打者だった加藤<アホ>秀司がいる(わかる人にはわかると思うけど<アホ>は別に侮蔑ではない)。つまりいくら代打で打とうがレギュラーにはなれなかったんです。
 もちろんそれがすべての理由ではありませんが、こんな打者がいるのだから、というのも間違いなくあったと思う。とにかくパ・リーグはすでにメジャーのアメリカンリーグで導入されていたDH制の導入を決めたのです。
 というか先程「あぶさん」のことをチラッと書いたけど、高井の存在があればこそ「代打一本稼業」のようなキャラクターが生まれたんだとも思う。(高井は「あぶさん」劇中にも何度も登場する)
 今井雄太郎から聞いたのは如何にも「らしい」話でね、「高井さん、代打でヒット打って怒ってるんだ。自分に腹を立ててるわけ。つまりホームランじゃなかったと」
 すごいよね。代打でヒットじゃ物足りないなんて打者、高井だけだよ。

 そしていよいよ核心に迫ります。
 結果としてアタシが阪急から若干心が離れるきっかけとなったあの試合、そう、1978年の日本シリーズの話です。
 このシリーズは3連覇中だった阪急ブレーブスと初のリーグ優勝を決めたヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の対戦でしたが、下馬評は阪急圧倒的有利であり、何しろ阪急はレギュラー陣の油が乗り切った時期で、しかも蓑田浩二や佐藤義則、そしてこの年完全試合を達成してようやく一人前になった今井雄太郎といった新しい戦力まで台頭してきていた。ま、ヤクルト<如き>に勝てる要素は何もないと思われていたんです。
 しかしヤクルトは思いの外善戦し、6戦を終えて3勝3敗のタイ。決戦となった第7戦に日本一の栄冠が委ねられることになったんです。

 ヤクルトの先発はエース松岡弘。阪急はその2年前に場所も同じ後楽園球場で、しかも同じ第7戦に巨人相手に見事なピッチングを披露した足立光宏。
 試合は5回、均衡を破ったのはヤクルトでヒルトンのタイムリーで先制します。しかしこの時点まで1-0。まだどちらに転ぶともわからない状況です。
 そして運命の6回裏を迎えます。
 ヤクルトは一死後、4番大杉勝男に打席が回った。そして足立の投げた低めの球をすくい上げるようにレフトに高々と打ち上げた。
 距離は十分でしたが切れるかどうか、非常に微妙な当たりでした。
 個人的にはファールに思えた。もちろんアタシが阪急ファンだったってバイアスがかかってたのもあると思うけど、ポールの左側を通過したように見えたんです。
 結果はホームラン。これが日本シリーズ最長の1時間19分の猛抗議の原因です。

 今井雄太郎は三塁側のブルペンでこの様子を見ていたらしい。
 「打った瞬間とかボールの落下地点は見えてなかったけど、これはファールだと思った」と言います。というのは「客を見てわかった」と。レフトのポール際付近もほぼヤクルトファンで埋め尽くされており、打球が落ちた瞬間、そのあたりにいたヤクルトファンがみなガッカリした表情になっていたと。ま、どう考えても客が一番見えるからね。
 いやね、アタシは正直、大杉の打球がホームランかファールはどうでもいいんです。阪急ファンとしてはファールであって欲しいけど、もちろん当時はビデオ判定なんかないし、判定は覆らない。審判の判定がすべてです。だからいくら抗議しようが無駄っちゃ無駄なんです。
 アタシがずっと疑問だったのはそこじゃない。それよりも、ですね。

「何で足立さんを代えたんですか?」

 単刀直入に、ズバッと今井さんに訊いた。というかこれが一番聞きたいことだった。
 大杉の打球がホームランだったところでまだ0-2。試合はぜんぜんわからない。しかも大ベテラン足立は最後の最後で踏ん張れる、いわばラストエリクサーとも言える選手だったんです。
 実績からしても、終盤もつれた時は山田久志が出てくる。それは当たり前として、まだ足立は球数的にも投げられた。つか足立から山田に繋ぐのは当然だと思っていたし、けど延長(当時は最長18回)まで見越すとまだ山田の投入は早い。ならば足立を続投させるのが当たり前、つか定石じゃないかと。
 なのに上田監督は足立に代えて実績に乏しい高卒2年目の松本正志をマウンドに送った。たしかに松本は左投手、次打者のチャーリー・マニエルも左打者だったとはいえ、足立と松本では経験が違いすぎる。
 そして案の定、と言っては松本に失礼だけど、マニエルにホームランを打たれて0-3になった。これで勝負が結してしまったと言っても過言ではない。

「ああ、あれねぇ」

 今井雄太郎は口を開いた。アタシとしては一番聞きたかったことなんで固唾を飲んで次のひと言を待った。
「足立さんは膝が悪かったんだよ。いや投げてる時はいいんだけど、時間を置くと膝が固まって動かなくなってしまう。あれだけ長い抗議だったでしょ?だからその間に足立さんは投げられなくなってたんだよ」

・・・ああ、そうか。それは、もう・・・どうしようもないな・・・。
 アタシは固まってしまった。すべての疑問が氷解したと同時に、次の言葉が出てこなくなってしまった。
 いやね、今となってはわかるんです。あれだけ上田監督が抗議したのも、仮に足立がダメでも松本を投げさせたことも含めて。
 でも当時アタシはまだ子供だった。何というか、あの絶対的王者だった阪急ブレーブスが、こんな形で崩れるのが信じられなかった。
 今井雄太郎という、まァいや当事者ですよね。そんな人を前にして<あの時>とまったく同じ心境になったというか、子供の頃に完全に戻って呆然となってしまったんです。

 もう今では「絶対的王者」という、当時の阪急ブレーブスにたいする形容がわからないかもしれません。いや<ブレーブス>なんだから「絶対的勇者」(もっと正確に言えば絶対的勇者<たち>だけど)と言った方がいいかもしれない。
 今では下位に低迷する期間が長いチームを指して<暗黒>とか言いますが、1960年代前半までの阪急ブレーブスは「灰色の時代」と言われ、まったく優勝争いに絡むようなチームではなかったんです。
 1936年に結成したブレーブス(当時は阪急軍)は「西の4番打者」小林一三が作り上げたチームであり、本来なら「東の4番打者」正力松太郎が作り上げた東京讀賣巨人軍と対を成すチームに、そして関西の球団を代表するチームにならなければならなかったはずなんです。
 しかし巨人軍の好敵手に位置付けられたのは本業で阪急のライバルだった阪神電鉄が作り上げた阪神タイガース(当時はタイガース)であり、チーム力でも人気面でも球界内でのポジションも、阪急は阪神に煮え湯を飲まされて続けていました。
 とくに2リーグ分裂の時の、一般に「阪神の裏切り」「阪神の変節」と言われる一連の阪神球団の行動で、その地位は絶対的になったと言っていい。阪神は「対巨人戦」という切り札があったために最低限の観客動員を維持出来たのにたいして、阪急はパシフィックリーグ内でも「弱くて人気のないチーム」に成り下がっていました。

 皮肉にも阪急のチーム力が持ち直したのは小林一三の逝去後で、西本幸雄が監督に就任しイチからチームを立て直したのです。
 1967年の初リーグ優勝を皮切りに、阪急は強豪に生まれ変わった。たしかに日本シリーズでは巨人にしてやられ続けましたが、間違いなくパ・リーグ内では文句なしの強豪チームになったんです。
 西本幸雄が退任し、上田利治が監督に就任して以降、ついに阪急は日本シリーズをも制するようになった。
 1975年に広島東洋カープを下したのを手始めに、1976年と1977年の2年連続でとうとう宿敵巨人を倒した。まさに「阪急ブレーブス黄金時代」が到来したのです。
 話が逸れるようですが、チームが強い=スター選手が揃ってる、ということではない。初心者はこの辺を勘違いしやすいけど、スター選手がいない強いチームもあるし、逆に複数のスター選手がいるのに弱いチームもあります。
 しかしこの頃の阪急はまさに「強くてスター選手も揃ってる」チームでした。
 世界の盗塁王・福本豊を筆頭に、投手陣は山田久志、山口高志、野手は長池徳士、加藤秀司など、ホンモノのタレント軍団でした。

 とにかくこの頃の阪急は子供心に「ものすごくカッコいいチーム」だった。選手がカッコいいのはもちろん、本拠地の西宮球場も、ユニフォームも、全部がカッコ良かった。子供の頃の思い出という強い思い入れ抜きに、おそらくプロ野球史上もっともカッコ良いチームだったと今でも思います。

 ただし、阪急ブレーブスには致命的な欠点があって・・・。Page2に続きます。