いつ「自分は天才ではない」と気づくべきなのか
FirstUPDATE2016.12.5
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藤子・F・不二雄のSF短編に「未来ドロボウ」という傑作があります。

余命半年と告げられた功成し遂げた老人が、未来の見えない若者と「脳」を交換する、というものですが、オチを割っちゃって申し訳ないけど、最終的に「若さは何物にも変えられない」ことに気づいた老人が、再び脳を交換する(つまり元に戻す)ことになるわけです。

そう、若さは何物に代え難い。若いだけで七難を隠すというか、宮川泰作曲の歌じゃないけど、とにかく「若いってすばらしい」のです。
ネット上では、今の日本は「たった一度の失敗も許されない国」なんて言われてるけど、もちろんそんなことはない。重犯罪でも犯さない限り、若いって理由だけで再チャレンジは可能なんです。
若さこそ最大の特権であり、その代わり、さほどの余命がない老人に社会的な特権が保障されるのも当然だと思う。ま、ある程度は、ですが。

というような話と関係ありそうでなさそうな話を。
以前書いたように、若い頃って「何の根拠もない万能感」を持つものです。
もちろん実際は、若い者の方が優秀というような話ではなく、単純に時間的に様々なことにチャレンジできるってだけなんだけど、若いうちは、そうは思わない。
やっぱ、どうしても、才能という面でも傑出している、と思ってしまう。

でもこれは、けして悪いことじゃないんです。
何の才能もないことにチャレンジしよう、なんてことは、若かろうがなんだろうが、普通はしない。やるべきことをやれば頂点にまで到達できる、と思えるからチャレンジするんだと思うし。
ただ、何をやるにしろ、ずっと継続していけば、ああ、実は自分は天才なんかじゃなかったんだって気づくことになります。そして頂点なんか夢の夢だけど、とりあえず食っていけてる、それだけで十分じゃないか、なんてことにも気づくことになるのです。

アタシは20代の頃まで、ずっと物書きになりたかった。だからこんな駄文を書いてウサを晴らしているんだろ?と思われるかもしれませんが、反対なんです。
むしろ物書きへの夢なんか完全に消えたから、遊びで駄文を書ける。もし今でも本気で夢を追いかけていたら、「遊び」にはできないと思うんですよ。
でも「遊び」にできるようになるまで、それ相応の紆余曲折はあった。つまり、やっぱ、自分は才能があるんじゃないか、という妄想に取り憑かれていたんです。
何故なら、自分で書いた文章って、自分で読んでる限り、それなりに面白いんですよ。でもそれは自惚れじゃなくて理由がある。

(前略)過去に書いた文章ってのは、面白い面白くない、巧い下手はおいといて、自分の趣味嗜好にガッチリ合ったことが書いてる身元不明の文章に近くなる。だから楽しめないわけがないのです(2014年3月19日更新「おびただしい数の雑文」


文章を書くにあたって、まず最初のターゲットは自分自身です。いわば自分が喜ぶ、徹底的に自分好みの内容だったり文体だったりになってて普通です。
だから自分で書いたものが面白いなんて当たり前なんですよ。
ただしこの段階で本当に面白い文章かどうかはわからない。何故なら判断しているのが「100%内容を理解できる」自分だけでしかないから。

たぶん大抵の人は、次の段階として、自分のことを理解してくれている、そして内容にかんしても咀嚼できる人を選んで読ませると思う。
この時点で、よほどのイエスマンでない限り、苦言のひとつくらいは出てこなきゃおかしい。
全体的に面白かった、でも・・・くらいの苦言であったとしてもです。
一番肝心なことは、面白いもの=世の中に認められるようになる、ではないのです。
もし客観的にめちゃくちゃ面白いものだったとしても、もっといえば世界で一番面白いものだったとしても、それが世界で一番売れるかは話は別です。
ましてや、面白いと思っているのが「書いた本人」って段階では話にならないんです。

アタシは物書きはあっさり諦めて、グラフィックデザイナーになりましたが、もちろん仕事ですからアホほど数をこなしました。
で、デザインの数をこなせばこなすほど、何がウケるのか、さっぱりわからなくなったのです。
自分の中では「お、今回のはかなりいいんじゃない?」と思ったものがボツになったり、もうやっつけもやっつけで作ったものが、クライアントのみならず大勢の人から褒められたり。

はっきりいえばセンスとか微塵も関係ない。センスがいいからウケるか、センスが悪いからボツになるのか、とか何の関連性もないからです。
この「何がウケるのかわからなくなる」という実体験を重ねれば重ねるだけ、あ、自分は天才でもなんでもなかった、ということに気づくのです。
変な話だけど、アタシが物書きへの道を完全に諦めたのはグラフィックデザイナーになってからなんです。もちろん物書きとデザイナーはまったく違いますが、上記のようなことを経験することによって「自分の中での評価」なんて、まったくアテにならないってことを学んだからこそ、物書きへの夢を捨てることができた、という。

アタシが「学習」したのは、30歳前後です。早くも遅くもなく、わりといいタイミングで「自分は天才ではない」ことに気づけたと思っています。
20代で才能のなさを認めるのは辛すぎるし、チャレンジへの意欲もなくなって無気力になったかもしれない。
逆に30代後半まで気づかないと、次の道がなくなってる。追い込まれた形で、何の可能性もないとわかっていながら会社にしがみつくしかなかったんじゃないか。
そういう意味では、このタイミングで気づけたってのは、良かったと思う。ラッキーだったというべきか。

あ、これだけは書いておきたいのは、本当の天才って、いるんですよ。でもそういう人は得てして本心では、けして自己評価は高くない。というか、ハンパじゃない自信と虫ケラなみの能力しかないんじゃないかという不安の間を行ったり来たりしている。そしてどっちにも転ばない。
普通はそうはなれないですからね。それだけでもう「自分は天才ではない」と言い切れるわけで。







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