小林一三への熱き思ひ
FirstUPDATE2011.12.30
@Classic #東宝 @戦前 #大阪 #神戸 #1970年代 #エンターテイメント 単ページ 小林一三 宝塚 宝塚ファミリーランド 阪急百貨店 阪急電鉄 世界はひとつ 小林一三記念館 阪急ブレーブス 大食堂 ソーライス 阪急ブレーブス応援歌 PostScript

♪ 世界ッはッひッとッつゥ 手をつッなッぎッまッしょォ
  歌と踊りでェ 七つの海をォ 一緒ォに周ァりましょ~


 これはアタシが「聴くだけで号泣してしまう」ただひとつの曲のサビの箇所です。
 タイトルは「世界はひとつ」。ってもこのタイトルとサビの歌詞だけで、いったいどれくらいの人がわかるんだろうか。
 しかしアタシの前後10歳くらい(つまり1958~1978年生まれ)の、しかも阪神間にお住まいだった人なら、きっとこの感覚を共有出来ると信じているんですがね。

 子供の頃の楽しみ、それも非日常的な楽しみと言えば、ひとつが阪急百貨店梅田店に行くこと、もうひとつが宝塚ファミリーランドに行くことでした。
 もちろん神戸生まれのアタシにとって、デパートと言えば何と言っても神戸そごう(現・阪急百貨店神戸店)でしたが、やっぱり阪急百貨店うめだ本店には独特のきらびやかな感じがあってね。下駄履き感覚で行っていた神戸そごうとは根本的に違う<お上りさん>気分があったんです。
 子供だから、具体的に何が売ってる、何が高い安いなんて関係ないんですよ。それよりもムードですよね。あの何とも言えない、格式のある阪急百貨店はずっと憧れの存在だった、と言っても過言ではありません。

 で、宝塚ファミリーランドです。
 こっちは阪急百貨店よりさらに連れて行ってもらえる頻度は低い。梅田なら電車で30分で行けるし、デパートの場合、そこまで見て回るのに時間がかかるわけじゃないんで、夕方からでも余裕で行ける。
 けど宝塚ファミリーランドはそうはいかない。何しろこっちは遊園地です。しかも移動時間も乗り換えを含めると1.5倍近くかかる。となると<まる一日>を要するということになるので、そうそう連れて行ってもらえないのは当然です。
 だからこそ、とんでもなく希少な体験という感覚が味わえた。
 もうとっくになくなっているので、宝塚ファミリーランドの詳しい施設とかは憶えてないんだけど、たしか小規模な動物園も併設されていたはずで、まずは動物を見て回って、その後で遊園地エリアに行く。
 そして何故か、最後は「世界はひとつ」というアトラクションで締める、というのが定番パターンだったんですね。


 この「世界はひとつ」というアトラクション、もうぶっちゃけて言えば「イッツ・ア・スモール・ワールド」の丸パクリです。
 もちろんこの頃はまだ東京ディズニーランドとかない頃なので、子供だったアタシはそんなものは知らない。しかし今考えると比べるまでもなく「人形に歌い踊らせて、世界巡りをする」なんてコンセプトまでまったく同じです。
 音楽も似せてあったように記憶していたんですが、そんな時「世界はひとつ」のレコードバージョンを聴くことが出来た。
 いやね、別に「懐かしくて」聴こうとしたんじゃないんですよ。ただ、いったいどれくらい「イッツ・ア・スモール・ワールド」に似ていたのかが気になってね。
で、探したらYouTubeにあったので動画を貼っておきます。

 実際聴くとたしかに似ていた。良く言えば上手く換骨奪胎してあるというか。少なくとも「黄色いリボン」と「呼び込み君」の音楽(♪ ぽぽーぽ ぽぽぽ ぽぽーぽ ぽぽぽ ぽぽぽぽぽーぽ ぽーぽぽーってヤツね)くらいは似てる。
 けどもう、そんなことはどうでもいいくらい、あの頃の感覚と今置かれた状況がリンクして泣けて泣けてしょうがなかった。
 何より、今のアタシを形成しているのは「世界はひとつ」なのではないか?とすら思ったくらいでして。

 高校に入ったくらいから、アタシは「昔の邦画」にハマりだし始めます。
 とくにお気に入りだったのが1960年代の東宝映画で、東宝、と聞くだけで心が躍った。あのモダンな、それでいて安っぽくてテキトーな感じ(初出がっつーか誰が書いてたのかもう忘れたけど当時の東宝を称して「ノーテンキ・いい加減ノリ」って言葉がピッタリすぎる)が多感なオトシゴロのアタシを揺さぶりまくったのです。
 もちろん今も1960年代の東宝映画は大好きですが、同じくらいの比重になったのが戦前モダニズムでしてね。モダンなだけが取り柄の音楽喜劇映画を作っていたP.C.L.が東宝の傘下に入り、よりモダニズム感が増強された。
 戦前期のP.C.L.→東宝映画のモダンさは戦前モダニズムを今に伝える貴重な資料です。いやね、もちろん当時の日劇や有楽座の舞台が観られたらベストだけど、さすがにそれは無理というもので、そのエッセンスが注入された当時のP.C.L.→東宝映画を観るだけで、アタシは戦前期に果てしないロマンを見出すことになったわけで。

 気がつけば、アタシは阪急東宝グループが作り上げたもので育っていた。
 阪急百貨店も、宝塚ファミリーランドも当然そうだし、それらに行くために阪急電車を使っていたのは言うまでもない。うちは阪急沿線だったので高校への通学でもずっと使ってたしね。
 阪急、そして東宝を作り上げたのは、稀代の大実業家である小林一三です。
 大袈裟でもなんでもなく、この人なくして今のアタシはない。だからいつしか彼に傾倒した。何しろ小林一三の感覚に触れたくて大阪府池田市にある小林一三記念館にまで行ったくらいだから。
 ここはすごいですよ。何しろ小林一三の邸宅を改装しており、1937年建立という戦前モダニズム真っ盛りの時期の洋風建築なので、まさに戦前期の東宝映画の世界に迷い込んだようなというか、今にも中二階から歌いながらエノケンが降りてきそうな感覚が味わえるんです。
 <記念館>なんだから当たり前ですが、当然小林一三の足跡というか、彼が成し遂げた事業に関する資料もいっぱい展示されています。

 小林一三は阪急電鉄を手始めに、百貨店、遊園地、歌劇、映画など、数々の成功を手にしました。
 彼の功績の<やり口>をひと言で説明するのは難しいのですが、とくに優れていると思われるのは「極力自分で手を下さない。任せるところは徹底的に任せる」ことではないかと思います。
 アタシは彼の手掛けた事業の中で唯一、宝塚歌劇にだけはあまり興味がないのですが、宝塚温泉のアトラクションとして産声を上げた宝塚歌劇は「少女のみの歌劇団」(歌劇=オペラ)というコンセプトで、まだこの種のエンターテイメントが未成熟だったせいか、あまり優秀な人材を集めることが出来ませんでした。
 とくにスタッフ不足は深刻で、実業家であるはずの小林一三自ら台本を書く、などということにまでなってしまった。
 小林一三が偉いのは、そうしたことを失敗の経験と捉え、スタッフが揃って以降は台本を書くどころか、ほとんど内容に口出しすることがなかったことです。
 しかしスタッフにたいして無理解ということはまったくなく、必要とあらば長期の海外研修にも就かせている。とくに宝塚歌劇の発展期を支えた白井鐵造は2年間のパリでの研修から帰ってきた後にラインダンスを導入するなど「日本流歌劇の祖」とまでなりました。

 この人の足跡を見ていると「儲かるから」というよりは「業界が発展するから」という理由でポンと大金を投じている感じがする。
 もちろん業界が発展する=自社が儲かる、というのは間違いないのですが、それよりも仮に同業他社が現れても業界が認知されれば日本の文化レベルが上がると考えていたのではないかと。
 最初に阪急百貨店うめだ本店のことを書きましたが、「ソーライス」の件(黎明期、大食堂でカレーライスを注文出来ない貧困者がライスだけを注文し、テーブルに備えつけられていたソースをかけて食したものを称して「ソーライス」と呼ばれた。当初百貨店側は「ライスのみの注文お断り」の方針を打ち出したが、小林一三はその方針に大反対して逆に「ライスだけのお客様を歓迎します」と貼り紙まで出した)など典型的な例でしょう。

確かに彼らは今は貧乏だ。しかしやがて結婚して子どもを産む。そのときここで楽しく食事をしたことを思い出し、家族を連れてまた来てくれるだろう


 小林一三のこの言葉は「先々までを見通した、先見の明のある実業家の発想」ではない。とくに『ここで<楽しく>食事をしたことを思い出し』という箇所が重要で、むしろ「食をエンターテイメントとして捉える」はしりではないかとさえ思ってしまいます。
 つまり、彼の中では「百貨店の大食堂での食事」でさえ、映画や歌劇などの舞台と同じくエンターテイメントとして発展させよう、という意志があったとしか思えないわけで。

 しかし、当たり前ですが、小林一三の手掛けたことが全部が全部上手くいったかというと、そんなことはない。
 とくに「野球」へは高い情熱を持ちながらも、上手くいったとは言い難い結果になりましが、とにかく彼の野球にたいする情熱は凄まじく、大正期の時点ですでにプロ野球球団構想を持っていました。
 日本で最初のプロ野球球団は日本運動協会(のちの芝浦運動協会)でしたが、運営が立ち行かなくなったこのチームを小林一三は引き受け、宝塚運動協会と改名して存続させているくらいです。
 結局、宝塚運動協会は頓挫しますが、それでも小林一三はプロ野球リーグ結成に執念を見せ、阪神、京阪、南海、近鉄などを誘って「関西電鉄リーグ」構想なる青写真まで描いていたのです。
 ところが、甲子園球場を持っていた阪神は小林一三の誘いには乗らず、讀賣新聞のプロ野球リーグ構想に乗ってしまうのです。

 小林一三は本当に幾多の事業を普遍的な形で成功させた稀代の大実業家だった。しかしそんな小林一三が手がけた中でどうしても上手くいかなかったのがプロ野球事業で、そこには常に阪神という影があった。いわば阪神に煮え湯を飲まされ続けたのです。
 関西にお住まいの方なら、いや他地方の方でも地図を見れば一目瞭然ですが、阪神間において阪急と阪神は並走しています。阪急は山側、阪神が海側を走る、もう文句なしのライバル関係なんだけど、会社としては阪神の方がかなり小さい。(言うまでもないけど、今は同一企業グループですが)
 しかし阪急は三宮延伸を妨害されたのを手始めに、阪神と阪急の戦いは常に阪神が優勢だった。
 プロ野球も同じで、阪急主導のプロ野球リーグ構想を潰され、2リーグ分裂時には一度は「行動を共にする」と約束しながら、またしても阪神は讀賣に寝返った。
 阪神は対巨人戦という黄金カードを維持し、その後は「阪神ファンでなければ関西人ではない」という風潮まで生み出した。一方阪急はチーム力では阪神を圧倒しながらまるで人気を得られず、平成になる直前に球団経営から退く結果となったのです。

 しかし生まれながらにして小林一三イズムが染み込んでいるアタシは、阪急を応援していました。
 その後、阪神も応援するようになりますが、一番最初に興味を持ったのは紛れもなく阪急ブレーブスだったのです。
 初めてプロ野球観戦に行ったのも阪急対南海戦だったし、阪急ブレーブス子供の会にも入会していた。だから、小学生時代に限るならアタシは甲子園よりも西宮球場の方が数多く行っていたってことになるんですよ。
 西宮北口駅から西宮球場に向かう道の雰囲気が良くてね。一応<ハイソ>か売りの阪急沿線だから甲子園近辺ほど下世話ではないけど、それでもプロ野球という大衆的な興行が行われるムードがあって。あの空気は一生忘れません。
 そして西宮球場がまた良かった。とくに印象的なのがオレンジのスコアボードですね。何だか妙にモダンでカッコ良かったんです。

 しかしいかんせん、人気はまったくなかった。あれだけのメンツを揃えておきながら人気がないというのも異常で、当時は関西と言えど阪神人気も寡占状態ではなかったんです。なのに人気がなかったのに。
 アタシが阪急に心を砕いていたのは1978年までです。結果的にあの日本シリーズの抗議から熱が冷めちゃいました。(その辺の話はコチラ
 いや抗議云々じゃなくてアタシが見始めてから阪急は、たった2年とはいえずっと日本一だったんですよ。それがこの年日本シリーズで負けてしまった。
 ちょうどその年の暮れ、阪神に大変革があり、そう、あの江川問題です。そして翌年の江川初登板の試合で、阪神打線が江川を打ち崩したことが、完全に阪神一本に絞るきっかけになったのです。
 これね、今でも思うことがあるんですよ。もし、もしもね、阪急がヤクルトに勝って日本一になって、江川問題に阪神が一切絡んでなかったらどうなってただろうなって。

 それでもやっぱり、1979年以降も、阪急は他のパの球団とは別格でした。阪急電車に乗って阪急戦のポスターを見るにつけ熱いものがこみ上げてこなかったといえば嘘になります。
 しかしそれも1989年で完全に終わった。以降、オリックスになってからは阪神を除く11球団と何ら変わらない存在になってしまったわけでして。
 何より大きかったのは、やはり阪急が球団経営から手を退いたからです。
 この場合、阪急というよりは小林一三なのですが、小林一三が手がけた事業は、何だかわからない、特殊な吸引力があった。少なくともアタシには。だから、阪急百貨店にも宝塚ファミリーランドにも、東宝映画にも吸い寄せられていったのです。
 そんな中に阪急ブレーブスというものもあった。とっくに小林一三本人は亡くなっていたとはいえ、まだ小林一三イズムが残存していたからこそ、アタシはブレーブスに想いを寄せたのだと思う。
 もちろん子供がそんなことを考えないですよ。しかし頭で考えたのではなく感覚で、という方がはるかに強いんですよ。

 アタシは阪急ブレーブスの末裔にあたるオリックスバファローズには何の思い入れもない。小林一三と無関係なものに関心を寄せる義理も意味もないし。
 阪急ブレーブスにたいしても、宝塚ファミリーランドにたいしても、もうなくなってしまったんだ、という感傷が強くて、懐かしいよりも悲しい気分の方が強いんです。
 しかし「阪急ブレーブス応援歌」という歌だけは違う。
 「世界はひとつ」が号泣してしまうものならば「阪急ブレーブス応援歌」は聴くだけで熱い気持ちがたぎる歌だと言ってもいい。
 小林一三の逝去から4年経った頃に発表された「阪急ブレーブス応援歌」にはまだ小林一三イズムが濃厚に残っています。だからアタシはこの曲こそ小林一三の鎮魂歌だとさえ思うわけで。


♪ 晴ァれたる青ォ空ァ わァれらァのォブレーブスッ
  萌ォえたァつみどォりかァ わァれらァのォブレーブス!

元エントリは2011年の暮れに書いた「阪急ブレーブスへの熱き思い」なんだけど、小林一三が手掛けた他の事業の話の方を中心にするとなったら<ブレーブス>は外すしかない。
いやね、直前まで「阪急」にするか「小林一三」にするか迷ったんですが、内容を考えると本当は小林一三の方が相応しいのはわかっていた。
でも元エントリタイトルに敬意を払って一旦は「阪急」にしたんだけど、ブレーブス関連のエントリを別に書いたので、小林一三のエピソードを増補した上で「小林一三への」とした、と。




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