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「ニッポン無責任野郎」徹底深読み
FirstUPDATE2009.7.14
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 「ニッポン無責任野郎」という映画の中で違和感バリバリのシーンといえば、多くの人が新婚旅行先の船橋ヘルスセンターの遊園地で歌われる「これが男の生きる道」のシーンを挙げるのではないでしょうか。

 劇中で源等が口ずさむのは全部で8曲。見ず知らずの人の結婚披露宴で「その場しのぎ」のために歌った「ハイそれまでョ」と宴会の席上で歌った「ゴマスリ音頭」、果物カゴをぶらさげながら歌う「ショボクレ人生」、この3曲は例外で、あとはまるで哀しみを表すかのようなシーンに見えてくるんです。
 冒頭、ほとんど絶望的な状態で歌われる「無責任一代男」、長谷川部長を激怒させてしまった(その場しのぎが通用しなかった)後に歌われる「やせがまん節」、クラブ・料亭の支払いを迫られ追いつめられた時に歌う「ショボクレ人生」。後述する「のんき節」の時もそうです。

 源等は何故歌うのか、それは彼にとって歌うことが唯一の哀しみを表現する手段なんです。
 哀しくてやりきれない時、追いつめられてどうしようもなくなった時、そして何より「自分はこんな風にしか生きられないんだ」と自覚せざるをえなくなった時、彼は口ずさむ。まるで代償行為かのごとく。

 そうなるとなぜ新婚旅行先の遊園地で「これが男の生きる道」を歌うのかもわかってきます。
 他の楽曲はどれも明るい、というかパワフルなメジャーコードの楽曲です。が「これが男の生きる道」はマイナーであり、本当に哀しい時には明るい曲を歌い、逆にむなしさこそあるものの、それなりの喜び(何しろ新婚旅行だからね)もあったからこそ暗めの「これが男の生きる道」を口ずさんだのでしょう。

 さてみなさんはこの映画のクライマックスはどのシーンだとお考えでしょうか。
 一般的にいえば明音楽器に帰ってきた源等、そして衝撃のラストシーンということになると思うし、またそのように作ってあるとも思う。
 しかしアタシの考えは違います。
 「のんき節」を歌うところから満江の家で社長を紹介してもらうシーンまで、ここがこの映画のヤマじゃないか。そう思うのです。
 その前のジャズ喫茶のシーンで自分がクビになったことを英子に告げ、ひとり旅立った源等。
 その場しのぎが限界に達し、またしても「こんな風にしか生きられない」姿を露呈してしまった、いわば彼のかかえる哀しみが絶頂に達した瞬間です。
 なぜ手ぶらなのか(これは劇中ずっとそうだけど)、なぜ盛り場に現れたのかはわかりませんが、とにかくここで彼はすべての哀しみを吐き出すかのように「のんき節」を歌う。
 そして、源等は満江と出会うことになります。

 実は「のんき節」を歌った後に満江と出会うまで、ふたりの接点はあまりないのです。
 源等は満江がマダムをつとめるクラブを一度接待に使いましたが、王仁専務と長谷川部長があらわれたため、中途半端な形で姿を消している。
 二度目はゲーリーが接待「された」時ですが、この時源等はほとんど事務的な会話しかしていない。
 顔見知りであるのは間違いないし、お互いのことを認識していても何ら不思議はないくらいの間柄なのですが、立ち話→自宅へ招待、はいくら満江が自由奔放でも強引に感じるむきも多いはずです。
 でもアタシが不自然に感じないのは、実はこの物語の真のヒロインは満江だと思っているからなんです。
 本来満江は奔放なようにみえて、その実、金持ち、もっとはっきりいえば社長にしか興味がないはずなんです。
 それを、それほど深い顔見知りでない(商売柄、そういう交友は星の数ほどあるはずです)、しかも「行くアテはない」と答える男を誘うのは、何かただならぬものを源等に感じていたからではないか、と。

 なぜ満江は源等に「ただならぬもの」を感じたのだろうか、これが重要です。
 満江、という人物を冷静に考えてみると、源等にシンパシーを感じる要素は充分ある、ということがわかってきます。
 いくらマダムという役割を演じるにしても、一夜限りならともかく「同時進行」で複数の男性と関係を続けていく(社長ばかり47人も!)のは、もう「お金のため」、「(マダムの座を守る)保身のため」なんて理由じゃとても割り切れない。
 そうなんです。満江もまた、源等と同様に「こんな風にしか生きられない」ひとりに他ならないのです。
 そんなふたりは出会うべくして出会った、と言えるはずです。

 満江のマンションでふたりは踊り狂う。それは妻となった英子の前ではけして見せなかった哀しみを表す行為であり、満江もそれを悟ったかのように「馬鹿に陽気じゃない。何かいいことでもあったの」とつぶやいている。もちろんこれは反語に他なりません。
 さらに源等も満江は自分と同種の人間であることを悟ります。

「死んだおふくろと同じニオイがする」

 このセリフは、まさにそれを意味しているではないか、と。
 このあと宮前社長が乗り込んできて一端小休止となりますが、状況からみても、この夜ふたりが結ばれたのは確実です。
 いや、源等と満江が肉体的に結ばれたかどうかはどうでもいいんです。そんな下衆な話をしたいわけじゃない。
 考えてみれば源等は英子には「本当の自分の姿」を何も見せなかった。そもそも英子との結婚自体がその場しのぎの行為であるし、結婚してから源等がクビになるまで何故か出社していなかった英子には、詐欺すれすれの行為も200万円の貯金通帳のワケも、すべてがバレるまで何も伝えなかった。
 (そういえば「これが男の生きる道」も歌詞三番は英子の前で口ずさんでいたものの、なぜか歌詞二番は、まるで英子のいないスキを狙ったが如くひとりで歌っている。それを考えると「英子の前でも哀しみを表現した」というよりも、つい続きが口をついてでてしまった、と考える方が自然です)
 同時に彼はけして英子に甘える行為にはでなかった。
 買った家具も結局中込夫妻に売りつけることでカタをつけたし、貯金のある英子から借金してもよさそうなものなのに、それもしなかった。
 源等と英子は結局どこまでいっても他人なんです。
 結婚式をあげようが、同じ寝具で寝ようが、それは関係ない。身体は結ばれても精神的にふたりがひとつになることはない。

 ところが満江との関係は違う。
 まず先ほど書いたように、満江には哀しみを隠さなかった。
 そして前作「ニッポン無責任時代」の平均の嫌いなもののうちのひとつ「女の子のおせっかい」も甘んじて受け入れている。(ま、受け入れたシーンは実際にはない。満江が名刺を見せびらかせるところで終わっているんだから。しかし平均と源等の接点は、仮に間接的であったとしても、満江を介してでしか考えられない。というかこれは映像の「お約束」です)
 これだけでも十分、本当のヒロインは英子ではなく満江だということがわかっていただけるはずです。

 ここまで読んでいただければだいたいわかっていただけるはずですが、結局アタシが何度も「ニッポン無責任野郎」を観返すのは、当然ギャグがおもしろく、しかも数が多いこともある。が、それよりも源等というキャラクターに惹かれるからだと思う。
 誰しも一切の束縛から解放されて自由になれたら、どれだけ楽しいだろうと夢想することがあると思います。もちろん、そんなことは現実的に出来るわけがないのだけど、しかし源等は違う。
 むしろ彼は自由になりたくて自由にやってるわけじゃない。
 平均のような悪人ではなく、本質的には善人なのですが、常にその場しのぎの行動しかとれない。これからどうやっていけば自分が幸せになれるか考えることができない。
 彼の善意が多少混入した、面白半分かつデタラメな行動で、彼にかかわった人たちは結果的に幸せになっていく。
 ただしそれは源等本人には還元されない。どころか「ほのかな善意」が気づかれることもないまま、彼は信用を失い、疎まれ、最後には排除されてしまう。
 そんな彼が自分のためにやっているのは、自らを慰めるために歌ったり踊ったりすることだけです。
 そしてまた放浪を繰り返し、再び英子や明音楽器の面々の前に姿を表しますが、これとていつまで続くかわからない。

バガボンドは「放浪者」や「さすらい人」などの意味で使われるカタカナ語です。
 由来である英語の「vagabond」には「乞食」「ごろつき」「あてにならない」などの意味もありますが、カタカナ語では前述のように「放浪者」などの意味で使われることが多いです。
 そもそも「バガボンド」はカタカナ語としては漫画タイトル以外ではあまり見かけず、漫画の題材である宮本武蔵に当てはめて考えると、「乞食」や「ごろつき」ではしっくりこないため、「放浪者」「さすらい人」という意味で使われていると考えるのが妥当です。(「意味解説ブログ」より引用)


 源等こそバガヴォンド(バガボンド)なのです。あるいは同じく放浪者であり、歌うこと、楽器を奏でることでしか自らを表現できない「ムーミン」のスナフキンと同種であるともいえるはずです。
 以下にスナフキンの語録を転載しておきますが、源等語録だとしても何の違和感もないですよね。

人の目なんか気にしないで、思うとおりに暮らしていればいいのさ

 僕は世の中すべてのことを忘れたいと思っているくらいなんだ

 僕たちは本能にしたがって歩くのがいいんだ

 あんまり誰かを崇拝することは、自分の自由を失うことなんだ

 生きるっていうことは、平和なことじゃないんですよ

 いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。理由はかんたん。時間がないんだ

 「そのうち」なんてあてにならないな。いまがその時さ

 長い旅行に必要なのは大きなカバンじゃなく、口ずさめる一つの歌さ

 故郷は別にないさ、強いて言えば地球かな

 何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。ぼくは見るだけにしてるんだ。そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。その方が鞄をうんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね


 バガヴォンドに安らぎはありません。彼はつねにある種の楽しみを得ながらその場しのぎを続けるが、計画がない以上、永遠に「その場しのぎ」を続けていかなければいけない。
 が、ラスト間際で源等はついに安らぎを見つけることになる。
 その場しのぎという役回りを演じなくていい、甘えることができる女性、満江です。
 満江もまた走り続けなければいけない人間であり、きっと彼女も源等と一緒にいる時間こそ安らげる時間のはずです。

 「ニッポン無責任野郎」という物語のラスト、人によっていろんな解釈があるだろうけど、アタシからいわせると、あれはハッピーエンドなんです。
 ここでも源等がバガヴォンドであることには何ら変わりない。またどこかへ消える可能性もおおいにある。
 しかし彼は間違いなく、安らげる場所と安らげる女性を見つけることが出来た。バガヴォンドにとって一番困難なことが達成できたわけだから、これは大ハッピーエンドといえるのではないでしょうか。

当時、つまり元エントリを書いた2009年頃に深読み系考察が流行っていた、いや流行ってたかは忘れたけど、ちょうどいろいろ読んだので、自分がやるなら「無責任野郎」だな、と思って書いたわけです。
深読みといっても正確には作品そのものの深読みではなく、主人公である源等という人間に絞ってね、やった方がいいんじゃないかと。ま、満江のこともちょっと掘り下げてるけど。




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