日本語がどうなっていくか考えると夜も眠れない。ウソです。
「言葉は生き物」という考え方に基本的には賛成しています。というかこのブログも厳密にいえば日本語として滅茶苦茶です。が、これでいい。正しい日本語よりも、相手に正しく伝わる方がよほど大切なことじゃないか、と思うから。
もっともそれは日常の会話とか、こういう雑記での話。やっぱり使い方を間違っちゃいけない時があると思う。
名前を出すのも忌々しいのでこういう書き方をしますが、2008年下半期の朝ドラ(現注・「だんだん」)で、しつこく<はんなり>という言葉が間違った使われ方をしていたのはかなり気になった。
最終話でも藤村志保が「祇園のおかみはもっと<はんなり>しとかなあきまへん」(うろ覚え)みたいなことをいってたが、これはあきらかにおかしい。
ずっと遡って1990年ごろの話。上宮高校の超高校級プレーヤーと騒がれた(いや、後の姿からは想像できませんが、たしかにそうだったんです)元木大介を評して、ドラフトで指名するのかと問われた阪神の球団社長が
「ああいう<はんなり>した選手がうちにきたらな」
とあいまいな返事をしたのですが、これが正しい<はんなり>の使い方。つまり「華のある」とか「華やかな」という意味の京言葉なのです。
それが某朝ドラではあきらかに「のんびり」とか「悠然と」みたいなニュアンスで使われていた。まあ語感だけだとそう受け取るのもわかる気がするし、実際間違えて覚えている人も多いのではないかと思う。
しかしこのドラマの中で間違うのは致命的です。藤村志保の役は祇園のお茶屋を長年支えた、という設定で、そういう人が<はんなり>の使い方を間違うなんて絶対あっちゃいけない。
あのドラマの中で<はんなり>という表現が合う登場人物といえば某ホリエモンがモデルっぽいIT企業の社長だけですが、残念ながら彼にはそういった形容は用いられなかったわけで。
と、ここまで書いて思ってみた。よくよく考えてみれば、先の藤村志保のセリフは2011年に発せられたことになってるんですよね。
言葉は生き物です。もしかしたら2年後には<はんなり>はそういう意味になってるのかもしれないぞ。それは誰にもわからないし知らないからな。絶対ないと思うけど。
ココでも書いたけど、この「だんだん」という朝ドラが如何に酷いものだったか、この一例だけでもよくわかるはずです。というか脚本家が何の取材もしてないのがまるわかりです。 ちゃんと取材してたら<はんなり>の用法というか意味を間違えるなんて絶対にない。いや仮に脚本家が間違えてたとしても、現場で誰も指摘しなかったんだろうか。それとも言える空気でなかったってことか? いや、そりゃあ、さすがにひとりふたりはいたと思うけど「こんな糞ドラマ、間違っていようがどうでもいい」って感じだったんじゃないの? |
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