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アイちゃんのいた三宮
FirstUPDATE2008.9.15
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 後編はいよいよアタシが物心がついてからの話になります。

 もう冗談にしか聞こえないだろうけど、幼少期のアタシはね、マジで天才じゃないかと言われていたんです。
 たとえば3歳の時点ですでに新聞を読んでいた。ま、新聞ったってテレビ欄だけだけど、テレビ欄にしたところで漢字も使われているわけで、つまりは簡単な漢字なら、少なくとも読むことは出来たんですな。
 もうひとつ天才エピソードとして、これも3歳くらいだったと思うけど、ひとりで<そごう>に行ってたんです。
 <そごう>ってのはもちろん百貨店のそごう。今は神戸阪急に名称が変わってしまいましたが、とにかくあそこまで「ひとりで」「歩いて」行ってたんですよ。まだ3歳なのにさ。

 もう一度整理します。
 うちの祖父祖母の家は国鉄(現・JR)と阪急の高架より北側にありました。んで<そごう>は南側。つまりそごうなんかがある繁華街に行こうと思えば高架をくぐらないと行けない。
 道はね、簡単なんですよ。まっすぐ南下して、でっかい富士山の壁画を右に曲がれば、もうそごうが見える。
 そこまで来たら勝ったも同然なんだけど、とにかく高架下を抜けるってのがね、やはり3歳児にはかなりハードルが高かった。
 何故なら当時、ここの高架下には数人のルンペンがいたからです。
 とくに怖かったのが高架下の一番南側に陣取っていたアイちゃんで、とにかく目を合わせないように、足早に抜けるしかなかったんです。
 ただ、もしかしたらアイちゃんはアタシのことを認識していたのかもしれない。
 Page1の最後でも書いた通り、アイちゃんはアタシのおばあちゃんになついていたので、あれはあそこの孫だ、くらいはわかってたんじゃないかとね。

 しかし、何だってまた、3歳児がひとりででもデパートなんかに行きたがったのか。
 ひとつは下見。もちろんカネなんて持ってないから何も買えないんだけど、次に親なりおばあちゃんなりと一緒に行ったらこれを買ってもらおうっていうね。
 もうひとつは、とにかく良い記憶があったから、としか思えない。
 まだひとりでは行けなかった、つまり赤ちゃんの頃にね、母親やおばあちゃんにおんぶされて、そごうによく行ってたんです。
 すると、あまりにアタシがかわいいものだから、店員さんが代わる代わる「抱っこさせて!」と寄ってきたらしい。
 どうですこの、アタシのすごさ。かわいいわ、天才だわ。
 ま、トシをとるごとに化けの皮が剥がれて、かわいいどころか「人を殺したことがあるような人相」なんて言われるようになって、天才なんて滅相もない凡人になり、そのうち実は凡人以下だとわかったってオチなんですがね。

 小学生になった頃までは、まだそごうにも<ひとりで>行ってたのですが、そごう以外にもだんだんお気に入りのスポットも出てきてね。
 ここからは、アタシが愛した当時の神戸の、三宮から元町間にあったスポットを挙げていきます。

大丸
 元町からすぐの場所に今もありますが、大丸と言えば「大丸焼き」です。もうなくなってずいぶん経つけど、ま、いわば「小ぶりな大判焼き」で(小ぶりで大判って意味わからんけど)、特別美味かったってほどじゃないけど大丸に行けば買わなきゃ気が済まないって存在だったことはたしかです。

朝日会館
 ここもほぼ元町になるのかね。
 大昔は証券取引所だったそうですがアタシが知ってるのは洋画封切館として。建築が重厚だったのがすごく良かった。

三劇
 昔はシネコンではない映画館がいっぱいあって、旧ジョイントの場所に日活の封切館があったそうですがさすがに知らない。東映や松竹の封切館もありましたが、阪急のお膝元だけあって東宝系は充実してました。
 三劇は東宝邦画系ですが、ここで「ドラえもん のび太の恐竜」を観たこともあって特に思い出深いのです。

阪急三宮駅
 アタシもいろんな駅舎を見てきたけど、こんなカッコいい駅舎は他に知らない。
 あの、建物の中から電車が飛び出してくる&吸い込まれていくってのがサイコーでした。

阪急会館
 で、その阪急三宮駅の階上にあったのがコイツです。
 母親が子供の頃までは「神戸で一番大きな映画館は?」となれば新開地にあった聚楽館だったそうですが、アタシの世代で言えば阪急会館になる。
 オープンは1936年4月4日。つまり阪急電鉄が三宮まで延伸して駅が出来た当初からあったらしい。
 とにかく大きな劇場でね、三劇が東宝邦画系ならばこちらは東宝洋画系。ここで「スターウォーズ」の第一作(エピソード4ね)を見たことは鮮明に憶えています。

南京町
 あんまり詳しく書けないけど、ここ、昔は本当に怖かったんです。だから南京町に限っては<ひとりで>行くことはなかった。せいぜい叔父に連れられて豚まんで有名な老祥記に行ったことがあるくらいです。
 というか、今でこそ「老祥記」って店名が有名になったけど、昔は店名が入った看板は出てなかったはずで、アタシたちはたんに「南京町の豚まん屋」と呼んでいました。
 ま、あとはねぇ。つか今のギンギラギンのストリートとあの頃の南京町が同一の街とは思えないレベルなんですよねぇ。

場外馬券場
 今も同じところに、つまり元町駅の目の前に場外馬券場、というかウインズはありますが、もちろん当時はこんな小洒落た名称はなく、とにかく異様に汚くて薄暗くて、しかも臭かった。
 叔父が競馬を嗜んでいたので日曜日毎に連れられて行ってたけど、今思えばまさしくあれこそが「戦後すぐで時間が止まった」空間だったと思う。
 つかここもだし、南京町もだし、Page1で書いた三宮から神戸までの高架下商店街も、新聞会館そばのルンペンの溜まり場も、とにかく当時の神戸には「背中がゾクッとする」スポットがいっぱいあったんです。
 そんなところで生まれ育ったせいか、アタシはよほどのところに行ってもあんまり怖いと思うことがない。それが良いことかどうかわからないけどさ。

新聞会館
 先ほどもチラッと書きましたが、「新聞」とあるのは神戸新聞社の本社だったからで、今でもタイル張りの富士山+山一証券のロゴ+電光時計を覚えてらっしゃる方も多いでしょう。
 小学生の時に社会科見学で新聞の印刷風景を見たことはよく憶えてます。たしか使用済みの活字をもらったはずだけど、あれどうしたんだろ?
 そういえばここのホールでやってた切手の交換会みたいなのにも参加したことがありました。

マクドナルド
 唐突ですが、あのマクドナルドです。
 かなり早い時期、たぶん昭和40年代からあったはずで、場所は国際会館のところでした。
 当時はハンバーガーとマックシェイクのバニラがアタシの定番でしたが、いつかビックマックを食ってみたいと野望を抱いておりました。

太平閣
 ここの豚まんは定番中の定番なんですが、神戸にしか店舗がないので神戸以外の関西人には馴染みがないはずです。
 昔はよくここで親戚一同と中華料理を食べました。もちろん回るやつ。ただもう今は、中華料理屋としてはやってないみたいです。

洋食いくた
 もう死ぬほど通った店で、特別美味いってわけじゃないんだけど安心できる味でね。
 2014年3月に帰省ついでに久しぶりに行ったら、この年の2月に閉店していた。一足違い!

梅春園
 東門街の入り口のところにある台湾料理の店ですが、ここも美味い。特に餃子はここのを食ったらしばらく他では食えないレベルです。
 なんでも某王さんの親戚の方が経営されているそうで。ここは現存しています。

 食い物の話になるとキリがないのでこれくらいにして。

三宮センター街
 センター街と言えば、みどりや!じゃなかったっけ?(ちなみに「みどりや」の<や>は関西弁の○○や、の<や>ではなく屋号の、つまり漢字で書けば<屋>です)
 どうも名前が怪しいんだけど、とにかく今で言えばLUSHの向かいあたりにあったオモチャ屋です。
 毎年12月の半ばくらいになるとここのチラシが入るのですが、それが楽しみでね。もう一日中そのチラシを見てたくらいで。
 あとはコヤマカメラかな。ここで現像するとくれる写真ホルダーが猫の写真のヤツで可愛かったんです。
 ちなみに両店とも現存しません。これも時代の流れか。嗚呼。

さんちか
 三宮の地下街だから<さんちか>。天井の低い、いかにも昔ながらの地下街なのですが、華やかもあって雰囲気も良かった。ここにある風月堂のぜんざいが大好きでした。ちなみにほとんど店舗が入れ替わったさんちかには珍しく、現存しています。つかよく流行ってるしね。
 あ、また食べ物の話になってる!

ダイエー
 神戸といえばダイエー、そんな時期が確実にありました。何しろダイエー村といわれたくらいですから。
 1970年代といえばダイエーが本格的に様々な業種、様々なブランドで展開をし始めた頃ですが、中でも京町にあった三宮一号店は思い出深いです。

ビッグ映劇
 映画館は映画館なのですが、もうすっかりなくなってしまった2番館というやつです。
 いわゆる名画座とも違って、一年以内にやったロードショー映画をリーズナブルに観れるというシステムがなくなったのは寂しい。もうDVDとかあるから要らないんだろうけど。
 ただ<名画>の類いをまったくやらなかったのかというとそんなことはなく、アタシが強烈に憶えているのはヒッチコックの「裏窓」を観に行った時です。
 あれ、最初病室から始まるんだけど、何かわからんけど猛烈な眠気に襲われて、そのまま熟睡。目が覚めるとスクリーンに映っているのはまたもや病室で、そのままエンドだったという。

ナガサワ文具センター
 大型文具店の<はしり>だったと思う。とにかく通常の文具から画材までありとあらゆるものが揃っていて本当に楽しい場所でした。

ジュンク堂書店
 もう全国的にあるので意外かもしれませんが、創業の地は神戸。これまた大型書店の<はしり>だったと思う。
 とにかく異様に広い「本屋」ってのは初めての体験だったので、最初に行った時はものすごく興奮したものです。

星電社
 後の<せいでん>。今はヤマダ電機グループに吸収されて名前すらなくなってしまいましたが。(すんげぇ小さくロゴはついてるけど)
 ここに本格的に通うようになったのは高校生になって本格的にマイコンに淫するようになってから。とにかくワンフロアまるまるマイコン売り場で、本当に毎日ように行ってた。んで毎日マイコンやマイコンソフトのチラシやらパンフレットと持って帰ってたという。
 あれ、どこ行っちゃったんだろ。


 アタシが思う、というかあくまでアタシが知ってる範囲で「神戸の変革期」と思えるのは1981年から1994年ってことになります。つまりアタシが中学生の頃から大学を出てちょっとしたくらいまでっつーことになる。
 何故<1981年>かというと、この年「ポートピア’81」という博覧会(≠万国博覧会)が開かれたからです。
 それまでの神戸は、というか神戸の街は良くも悪くも「神戸市民のためのもの」でしかありませんでした。つまりあまり観光客の存在を意識してなかったといっていい。もちろん土地柄、外国人観光客はいたし外国人自体も多かったんだけど、別に観光に力こぶを入れていた雰囲気はまるでなかった。
 ところが「ポートピア’81」なる博覧会をやって、観光客に意識が行きだした。そしてこの頃から「株式会社神戸市」なんて称賛とも揶揄ともつかない二つ名が付き始めたんです。
 とくに力を入れたのがデートスポットとしての機能性が高い観光地の創造で、その集大成が1992年開業のハーバーランドだったと思う。とにかく初期の頃のハーバーランドは完全にデートスポットに特化した、もっと言えば「若いカップル以外お断り」な感じで、少なくとも「市民が日常的に利用するスポット」からは大きく乖離したものになっていました。

 アタシがアイちゃんの姿を見かけなくなったのは、たしか「ポートピア’81」の頃だったと思う。
 それまでの、つまり1970年代までの神戸はちょっと変わったところがあって、意外と土着的なんだけど、妙に洒落たところもある、みたいなね。その洒落方もアメリカンな感じじゃなくてヨーロッパ的な、悪く言うならベチャーッとした、良く言えば重厚な洒落方でした。
 それは神戸の土壌がそうさせた。港町であり、江戸末期には早くも外国人居留地が誕生している。つまり最初の時点で<新興国>だったアメリカの影響を受けるわけがなく、どうしてもヨーロッパ的な洒落方になる。
 Page1でも書いたようにアタシはロンドンに滞在していたことがありますが、意外にもすんなりロンドンに馴染めたのは、昔の、それこそ1970年代までの神戸と似通った空気感があったからです。
 しかし神戸はそれをかなぐり捨てようとした。<今>を前面に押し出して観光客を誘致しようと躍起になった。
 もう、そうなると、アタシが知ってる神戸ではないわけで。

 何のことか、そんな「株式会社神戸市」は1995年1月17日、一瞬で崩壊します。
 もしかしたら、なんて思うことがある。あれはアイちゃんの仕業なんじゃないかって。
 アイちゃんが最後どうなったか、アタシは知る由もない。アイちゃん同様三宮近辺に住み着いたルンペンたちのその後も知らない。
 ただ確実に言えるのは「株式会社神戸市」にはルンペンは不要のものだったってことだけです。
 いくらヨーロッパ的に洒落てても、怖さも薄暗さも臭さも、そしてルンペンも、受け入れるだけの器が1970年代までの神戸にはあったんです。ところが「ポートピア’81」から始まった観光地化されて以降、全部排除された。

 アイちゃんの年齢的に言えばちょうどその頃に亡くなった可能性もある。もちろん排除された挙げ句、神戸に見切りをつけた可能性も残ってる。
 その辺はアタシにはどうでもいい。どっちにしろアイちゃんが住めない街になったのはたしかなんだから。
 臭いものに蓋して、何が株式会社神戸市や。そんなことやるんやったら、目にモノ見せたるわ!
 アイちゃんがそう思った、だからあんな震災が起こった、とは言いませんし、ルンペンが住みよい街=本当に良い街とも思わない。
 でもさ、結果論じゃないけど、結局デートスポットも通りいっぺんになるしかないし、つまんない街になっちゃったってのは事実だと思う。何というか、1970年代まで残存していた神戸<らしさ>が本当に減ってしまったと。

 それでも、今の神戸とアイちゃんがいた頃の神戸、どっちがいいかって話じゃないんです。ただアタシにとってはですが、単純にアイちゃんがいた頃の方が面白そうに感じてしまうんですよね。

元の文章はmixiに書いたものですが、メチャクチャ良い題材なのに異様にあっさりした記述で終わってたので、「とにかくガッチリ書く」というコンセプトで全改稿しました。




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