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アイちゃんのいた三宮
FirstUPDATE2008.9.15
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 アイちゃん。この物語の主人公です。
 架空ではない、れっきとした実在の人物なのですが、アタシはただの一度もこの人と言葉を交わしたことはありません。
 そもそもこの人物を<彼>と書いた方がいいのか、はたまた<彼女>とするべきなのか、非常に悩む。というのもこの人物、はっきり言えばオカマなわけでして。

 アタシはアイちゃんがいつ頃から神戸に住み着いたかを把握しておりません。しかし母親が子供の頃からいたということなので、おそらく戦後の混乱期が終わった頃には住み着いていたのは確実です。
 住み着いていた、なんて書くと言葉が悪いけど、実際こう書くしかない。何故ならアイちゃんは「住所不定」だったから。
 ここまで書けば何となく察してもらえるかもしれないけど、この人はルンペンでした。今どきルンペンなんて書いちゃいけないのかもしれないけど、物乞いではない路上で寝起きする人なんだから、ま、今で言えばホームレスってことになるのですが、時代を考慮するとルンペンとしか表記しようがないんです。
 何しろ母親が子供の頃からいるのです。アタシが物心ついた頃にはすでに見た目は老婆であり、祖母や母から「オカマ」ってのは聞かされていたので、何とも異様な存在に思えたわけで。

 先ほど「住所不定」とは書いたけど、寝床は基本的に決まっていた。三宮駅よりやや東側の高架下がアイちゃんの寝床で、いつもそこにいました。
 どうも、ルンペンなんていうと日陰者というか、ひっそり生きているみたいなイメージを持つかもしれないけど、そういうんじゃぜんぜんなかった。
 明るい性格で、とにかく常に誰かと喋っていた。うちの祖母や母も積極的に喋りに行くようなことはなかったけど、それでも声はかけられていました。
 でもアタシは怖くてとても話しかけられなかった。いったい、子供が「オカマのルンペン」と何を話せばいいのか、今でも答えが見つからないもん。

 それにしても、です。
 一般に神戸のイメージは「ハイカラ」で通っている。
 百万ドルの夜景だの、港町だの、異人館通りだの、旧居留地だの、最近で言えばルミナリエとかね。
 とくに神戸以外の関西の人は神戸にたいして必要以上に「オシャレ」と思っている人は多いんです。
 しかし神戸で生まれ育ったアタシからしたら、いったい神戸のどこがオシャレなんだと思う。
 アタシの中にある神戸のイメージは、とにかく「ションベン臭い街」です。形容ではなく本当に街中にアンモニアの臭いがたち込めていた。あそこまでションベン臭い街はその後お目にかかったことはないレベルで臭かったんです。
 そんな街だから、アイちゃんのようなね、ま、オカマってのはこの際置いといて、ルンペンがいても何の違和感もなく、アタシの子供の頃くらいまではアイちゃん以外にも多数のルンペンがいたんです。

 ルンペンというのは元はドイツ語で、正直日本でいつから今のホームレスのことをルンペンと言い出したのかは調査不足もあってはっきりしません。
 ただ昭和初年頃には一般庶民が普通に使う言葉になっていたのは間違いなく、昭和6年、西暦で言えば1931年には徳山璉が「ルンペン節」というコミックソングを吹き込んでいます。
 しかしこの曲を聴けば現代に住むアタシたちが思い描くホームレスとは少し様相が異なることに気づきます。
 たしかに貧民層であるのには違いないのですが、野宿をメインとしていたわけではなく木賃宿で寝起きしていますし、男性だけではなく女性のルンペンも相当数いたのではないかと思われます。
 アタシの記憶でも、さすがにオカマはアイちゃんだけだったけど、女性のルンペンもいた。もちろん老女でしたがね。

 すでにアイちゃんが神戸に住み着いていたかはわからないのですが、ルンペンという言葉が庶民に完全に定着しはじめた昭和のはじめ、つまり戦前期の神戸のことを少しだけ書きます。
 神戸は昭和に入る前の時点からすでに、少し前の言葉で言えば「流行発信都市」でした。活動写真(映画)やジャズはまず神戸から流行り、各都市に流布していった。事実、大正時代には日本の三大都市と言えば東京と大阪、そしてもうひとつは神戸だったのです。
 この当時の神戸最大の繁華街は新開地でした。ところが昭和に入った頃に形勢が変わる。三宮周辺がものすごい勢いで発展していったからです。
 とくに阪急電鉄が三宮延伸を果たした1936年からは完全に新開地を差し置いて神戸最大の繁華街になったと言っていい。

 そしてこれは時代の風潮もあったと思う。
 たとえば東京の浅草ならすぐ近くに吉原(正確には新吉原)があった。これは神戸も同じことが言える。新開地のそばには福原がありました。
 つまり昭和に入ってからのほんの数年までは、最大の繁華街の近くには性サービスの地域があるのが当たり前だったんです。
 それが1930年代に入る頃になると逆に性サービス地域から離れている方が健全で、これからの時代の繁華街の条件、という風潮になった。
 だから東京では銀座が発展し、神戸では三宮が発展したんです。

 1945年8月15日、約4年にわたる太平洋戦争が終結します。もちろん、日本にとっては<敗戦>という形で。
 終戦してすぐに撮られた三宮近辺の写真が現存しますが、とくに省線(現在のJR)より南側はそごう三宮店を除いて、マジで何にもない。瓦礫すらない。これは三宮クラスの街であっても、当時は如何に木造建築が多かったかの証明でしょう。何しろテキは焼夷弾なるものを使ってきたからね。
 戦後すぐ、と言えば何と言っても闇市ですが、神戸の闇市は三宮駅から元町駅を通って神戸駅までつながる省線の高架下にあったと言われています。もちろんこれが現存する高架下商店街の原型となった。つまりあれは「闇市が姿を変えたもの」だったんです。
 正確にいつからいつまでかは調査不足ですが、戦前から戦後の一時期まで、省線の高架下は神戸市が管轄していたらしく、そういう意味でも不法占拠しやすい状況にあったと言えるはずです。
 ただ、いくら東西に長いといっても三宮から離れれば離れるほど人は減るわけで、次第に闇市は南側に拡大していった。今でいえば交通センタービルから、マルイやセンタープラザがあるあたりまでが闇市だったらしい。

 たぶんアイちゃんが神戸に住み着いたのはこの時代だったと推測されます。
 もちろんもっと前から、という可能性は否定出来ないけど、戦禍が激しく、食料を入手しづらいこの時代の三宮にいたとは考えづらい。こういってはナンですが、ルンペンが<おこぼれ>を期待するのは当然で、人々の活気が生まれ出した闇市の誕生の頃にルンペンも寄り付きだした、と考える方が自然な気がする。
 そしてアイちゃんをはじめとするルンペンの目論見通り、かはわからないけど、神戸も例に漏れず、1950年代以降急速な復興を遂げます。
 ただし決定的な<何か>があって発展していったわけではなく、日本全体が豊かになるのと歩調を合わせるように、三宮もゆるやかに発展していったのです。

 そして三宮の発展と反比例するかのように、かつて神戸最大の繁華街だった新開地は衰退していった。
 ただでさえ性サービス地域が近く、街としても衰退していく最中、となれば、どうしてもガラが悪い場所になってしまう。これは浅草や大阪の新世界も同様です。
 今も、とまでは言いませんが、そういう場所にルンペンは溜まりやすい。でも長く定住することもない。寂れた街では<おこぼれ>が少ないんだから当然です。
 かといって三宮や、大阪でいえば梅田あたりは風紀の目も厳しいんだけど、それでも背に腹は変えられない。
 今の若い人は信じられないかもしれないけど、アタシの幼少期の三宮や梅田には、地下鉄の階段付近や、陸橋の下、あと地下道の類いには、ほぼ100%の割合でルンペンがいたのです。

 だから子供のアタシにとってルンペンなんて何も珍しいものではなかった。もちろん今もルンペンを見ても「へえ、今どき珍しいな」とは思うけど奇異な目で見ることはない。
 アタシは2012年からロンドンに滞在していましたが、ロンドンはかつての日本ほど、とまでいくかはわからないけど、かなりの数のルンペンが街中にいます。
 でも、やはり、彼らにたいして、見下すこともなければ、変に同情心を持つこともなかった。当たり前の、日常的な風景のパーツとして彼らを捉えていたんです。
 これはロンドンのルンペンもそうなのですが、アタシの幼少期にいたルンペンは意外なほど街に溶け込んでいました。
 彼らは普通の人に迷惑をかけるようなことはほとんどなかったし(ま、おそらく立ちションしまくってたんだろうから悪臭という面では迷惑をかけていたかもしれないけど、この頃くらいまでは普通の人も平気で立ちションしてたからね)、街の人たちとも普通に喋っていました。

 ここで、どうしても、母方の実家の話をしないわけにはいかない。
 母方の実家、つまりアタシの母親の実家、要するに祖父祖母の家は三宮駅から徒歩5分ほどの場所にありました。
 いつからここに居を構えるようになったかまでは知らない。おそらく1935年くらいからだと推測されますが、想像の域を出ません。
 ただ、戦前期からなのは確実で、ということは当然神戸大空襲の時もここに住んでいたことになる。なのに祖父祖母の家は焼けていない。納屋がちょっと燃えたくらいで済んだらしい。
 先ほどアタシは『終戦してすぐに撮られた三宮近辺の写真が現存しますが、とくに省線(現在のJR)より南側はそごう三宮店を除いて、マジで何にもない』と書きましたが、祖父祖母の家は省線より北側にあった。だからほとんど被害に合わなかった。
 そういう意味ではものすごくツイてると言えるんですが、そこで運を使い果たしたのか、戦前戦中までは「まずまずの暮らし」だった生活レベルが戦後になると一気に没落した。
 ま、はっきり言えば「ビンボー」の仲間入りをしたと。

 そうは言っても、戦後すぐなんてほとんどの家がビンボーで、ガラスがはめられた窓すら珍しかった時代なので(たいていは素通しか障子紙一枚貼っただけ)、別に恥ずかしいことではありません。
 ただ、そんな状況でも、祖母は本当に誰にでも優しい人だったと母親は振り返ります。
 どうしても子供は父方より母方の方と縁が深くなるものですが、ウチもそうで、幼少の頃よりほぼ毎週のように母方の祖父祖母の家に行っていました。
 祖母は、祖母と書くと堅苦しい感じになるのであえて<おばあちゃん>と書きますが(実際は<おばあちゃん>とは呼んでなかったけど)、当然ですがアタシにたいしてはあくまで<孫>として接してきました。もちろん「かわいのうてかマゴじゃもの」(上方落語「後家馬子」のサゲ)の通り、孫、つまりアタシにとってのおばあちゃんは本当に優しく、可愛がってもらいました。
 しかし、これも当たり前ですが、孫以外の人たちにたいしてどのように接してきたのか、少なくとも実感はない。

 アタシが憶えているのはひとつだけです。
 祖父祖母の家のそばに市場があり、ま、スーパーなんてあまりない時代なので、食料品はそこで買い求める。それが当たり前の時代だったアタシの幼少期は、市場=ものすごく活気のある場所だったんです。
 活気があるのが当たり前になると、キチンと店舗を構えたところだけでなく、いわゆる行商人もかなりいた。記憶では4、5人はいたと思う。
 おばあちゃんは一時期、そんな行商人のひとりから野菜を買っていた。理由は「売れてなくてかわいそう」だから。
 ところがこの行商人の野菜がかなりモノが悪い。さすがにモノの良くない野菜をいつまでも買うわけにもいかず、かといって前を通ったらかわいそうになってつい買ってしまう。
 その行商人のいる場所はいつも同じだった。だから祖母はそこを通らないように、かなり大回りで市場に行っていたのです。
 普通はここまでしない。テキトーに買わない理由を言って誤魔化すと思う。だいたい「モノが悪い」野菜を売ってるその行商人が悪いんだし。
 でもおばあちゃんにはそれがかわいそうで、どうしても出来なかったという。

 そんなおばあちゃんだから、少しでも食べ物があるとルンペンに分け与えていたと言います。自分の家もたいがいビンボーなのに。
 後年、母親は「せやからルンペンがウチに寄ってきて大変やった」と苦笑していましたが、当然「寄ってきた」ルンペンの中にアイちゃんも含まれる、ということになるわけでして。







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