ここまでゲームセンターそのものについて長々書いてきたのですが、どうも、今も変わってないんだけど、ゲームセンターってアタシにとっては「電車に乗ってわざわざ行くところ」だったんです。
というのもね、アタシの実家の最寄り駅にはいつまで経ってもゲームセンターなんて出来やしなかった。ゲームセンターと名のつく場所に行きたければ三宮か、もしくは高速神戸まで行かなきゃいけない。
つまりデパートなんかとなーんも変わらないくらい「身近ではない存在」だったんです。
じゃあ徒歩圏内にビデオゲームが出来る場所がなかったのか?というとね、あるにはあった。ま、多少はお古いっていうか最新のじゃなかったけど、その代わり1プレイあたりの値段が100円ではなく50円。さらに古いのになると30円なんてケースもあった。
それが駄菓子屋の店先だったわけでして。
どうも駄菓子屋なんて言うと昭和30年代的光景と結びついてしまっていて、今もショッピングモールに駄菓子屋が入ってたりするけど、内装が昭和30年代をモチーフにしてたりします。
けど駄菓子屋は駄菓子屋なりにマイナーチェンジを繰り返していた。ずっと昭和30年代だったわけじゃない。
例えば昭和40年代になると店頭にジュースの自動販売機やPage1で書いた10円玉を弾くゲームが置かれるようになっていったし、昭和50年代には国取り合戦っていうルーレットのようなエレメカも置かれはじめています。
そりゃあ駄菓子屋だって商売なんだから子供に来てもらわなければ話にならない。ノスタルジーでは子供は来ませんからね。
やがて駄菓子屋はビデオゲームにも目を付けた。
ところがコイツがちょっと設置しづらい。というのも当時のビデオゲームは筐体の形がテーブル型だったからです。
今のアップライト型しか知らない人からすればものすごい違和感があるかもしれないけど、おそらく平成に入る頃まではテーブル型が主流で、というのも黎明期のビデオゲームは納入先として「ゲームセンター」ではなく「喫茶店」などを想定していたからです。言い切っちゃったけど、たぶんそうだったと思う。
喫茶店に置くと想定した場合、テーブル型でないと具合が悪い。というかテーブル型なら単に普通のテーブルと置き換えるだけなので設置もしやすいってことになる。
ところが駄菓子屋の店先となると問題が出てきます。
おそらく筐体自体は中古で安く仕入れるルートがあったんだろうけど、店先となると雨風の問題もあるのできわめて設置しづらいわけですよ。
本当はアップライト型があればいいんだろうけど、まだ当時はアップライト型の筐体はあんまりなかったからね。まったく、ではなかったからそれを店先に置いたりしてたわけで。
うちの近くにあった駄菓子屋は、実に大胆な策に打って出た。おそらく納屋か物置だったところを改装して「ミニゲームセンター」ふうのスペースを作ってしまったのです。これならたしかにテーブル型筐体でも問題ない。
もちろんホンモノのゲームセンターに比べると圧倒的にショボい。さっき書いたように機種は最新のじゃないし、せいぜい7、8台が並んでいるだけ。
それでもホンモノが近くにないんだから、これは本当に嬉しかった。
しかし、ここで問題が発生します。
もう当たり前過ぎるのですが、これらのゲームをするには金がいる。いくら50円程度にダンピングされていたところで、それでも「上達すべく」プレイしようと思ったら、やっぱりそれ相当の金がかかるわけです。
何しろフツーの小貧乏な家庭で育った小学生です。そんなに金が続くわけがない。まあ小貧乏な家庭はうちだけではなかったので、友人たちとの会話は「あのゲームの、あそこをどう攻略するか」ではなく「プレイする金をどう調達するか」になってしまうんです。
ある時、友人のひとりがとんでもないことを言い出します。
「ガットがいいらしい」
もう、この一言だけで「ガチャガチャ」という行為をご存知の方ならピンときたでしょう。
ぶっちゃけていいましょう。ガチャガチャ、というのは不正行為です。硬貨の投入口に「別の何か」を入れて、あたかも硬貨を入れたかのようにする、とんでもない行為を指します。
ガットというのはテニスラケットの、まあいや網の部分の繊維状のことで、適度な硬さ及び形状記憶があって、しかも金属じゃないので不正がバレない、ということでした。(金属云々のくだりの真相は今もってよくわからんけど)
ガチャガチャ、の噂はあっという間に広まり、実際に試す奴もでてきました。成功した、上手くいかなかった、いろんな経験を聞きましたが、アタシはなかなか試そうとしなかった。理由は簡単でガットが手に入らなかったのです。そりゃそうですよ。家にテニスをやる人間なんていないし、よしんばいたとしても、勝手にガットを切り取れば鼻血が出るほど怒られるのは目に見えています。
だけれども男の運命はわからない。ある時手に入れたのですよ、ガットを。たぶん「なあ藪似よ」みたいな感じで誰かから貰ったんだろうけど、詳細は忘れた。詳細は忘れたけど、即、駄菓子屋に走ったことは鮮明に覚えています。
この期に及んで、もう「金のことを気にせず、いっぱいゲームをして上達したい」という思考はどっかに吹っ飛んで、本当に、そーゆーことが可能なのか、とにかくそれを試したい、確認したい、挑戦したい、それだけでした。
当時一番ハマってたゲームといえば「ドンキーコング」だったんですが、すでにアタシは「ドンキーコングというゲーム」より「ガットなるものを手に入れて、タダでゲームができるか」というゲームに夢中だったのです。
結果からいえば、アタシのハマった最大のゲームは、あっさりゲームオーバーになりました。不正行為は失敗、というか未遂に終わったんですね。
一応日をおいて何度か試したのですが、どうしてもダメだった。
まあ今考えたら未遂でよかったんですが、つーか、ホントはこんなことも書かない方がいいんだけどね。
とにかくこれ以降、あんまり駄菓子屋のゲームセンターには行かなくなっていた。後ろメタファー、じゃない、後ろめたさも皆無じゃなかったけど、それよりも中学に入り、小学生がタムロしている駄菓子屋に近づきづらくなったからってのが最大の理由です。
それでも「ゲームがやりたい」という欲が消えるはずもなく、そうした欲求からアタシはマイコン(当時のパソコンの名称)に走った。ま、当時のマイコンのゲームはあまりにもショボくて、とても代替にはならなかったんだけどね。
アタシの「ビデオゲーム熱」に再び火がついたのは高校生になってからです。
うちの母親は、まさに「突然」という表現がピッタリくるような感じで、アタシが中3の時に喫茶店を始めました。
それまで母親は、一度たりとも喫茶店をやりたい、なんて口にしたことはなかった。もちろん息子のアタシに言わなかっただけで、ずっと秘めていたのかもしれないけどね。
それでも、今になってみても、この時の母親の決断はかなり不可解です。
それまで、いやそれ以降今に至るまで、母親は水商売というのもをやっていない。たぶんアルバイトとかパートですらないと思う。それがいきなり喫茶店の「経営」なんだから、不可解に感じて当然でしょう。
実際向き不向きのという面でも、母親に喫茶店は向いてなかったと思う。経営者としても店長としても、ね。
その証拠にわずか1年ほどで辞めている。たぶん、経営的に、というより、不向きなのを悟って辞めたって感じだったはずです。
じゃあ、母親の店はそれで閉店したか、というと、していない。叔母が後を引き継いだからです。
内装も店名も(おそらく仕入先なんかも)そのままで、経営者兼店長だけが変わった。
叔母とは母親の兄嫁にあたる人で、母親の兄(アタシにとっては叔父)と結婚する前はずっと水商売をやってた人でした。
だから経理関係から客あしらいまで手慣れたもので、ズブの素人だった母親とは比べものになりません。
結局何年やったのかは忘れたけど、たぶん最低でも5年はやった。店を閉めた理由も叔父の会社が大きくなり、そちらを手伝わなければならなくなったからで、けして経営不振で閉店したわけじゃなかった。
アタシの記憶でも客の入りは上々で、そりゃものすごく儲かったってことはなかったかもしれないけど、少なくとも赤字でなかったのはたしかです。
叔母が喫茶店をやってたのはアタシにとっては高1~大学2年になるわけで、つまり非常に多感な時期だったこともあって、かなり記憶に残っているのです。
いやたんに記憶に残ってるだけじゃなくて、実際メチャクチャ世話になった。
たとえば土曜日。当時アタシは土曜日に限って昼食代として母親から500円貰ってたんだけど、叔母の喫茶店に行くとタダで好きなものを食わせてくれた。もちろん食後のコーヒー付きで。
しかも帰り際には小遣い(といっても1000円くらいだけど)までくれる。母親からせしめた(と書くとイメージ悪いな)500円と合わせると1500円になるわけで、高校生にとってはこれはオイシイ。
そんなこともあって毎週土曜日には必ず叔母の喫茶店に行っていた。もちろんそれ以外にもちょこちょこ行ってたけど、何もカネ目当てだけじゃない。
というのも、ここの店が本当に楽しい、というか、アタシにとってはパラダイスのような場所だったからなんです。
アタシの野球好きは今更説明の必要もないでしょう。
野球が好きな人間にとって贔屓チームが勝った時にはふたつの楽しみがある。
ひとつは当日のスポーツニュースのハシゴ、もうひとつは翌日のスポーツ新聞を読むことです。
が、うちの家はスポーツ新聞なんかとってない。かといって高校生には毎日スポーツ新聞を買い求めるカネもない。
今はどうか知りませんが、この頃(1980年代)までは確実に、喫茶店に行けば全スポーツ新聞が読めました。ま、今もコメダ珈琲店とか珈琲館なんかに行けばスポーツ新聞は置いてあったりしますが。
当然叔母の喫茶店にも全スポーツ新聞(日刊スポーツ、サンスポ、スポニチ、報知、デイリー←神戸という土地柄外せない)が置いてあった。
いくらスポーツ新聞が読みたいからといって高校生の分際で喫茶店に入り浸るのはどうかと思うけど、何と言ってもここは叔母の店です。大手を振って行くことかできる。ま、ドリンクもタダで出してくれるしね。
さらに、この喫茶店にはとんでもない特徴があったんです。
いったいいつからか、そしてどういうきっかけでそうなったかは知らないけど、異様なほど漫画が充実していたんです。
とにかく壁という壁が本棚になっていて、ぎっしり漫画が並んでいる。もちろん当節の漫画喫茶ほどじゃないけど、普通の喫茶店レベルとしては破格の数でした。
もう、これを読んでいくだけで時間が潰れる。少年漫画だけでは飽き足らず、普通なら絶対に手に取らないような少女漫画まで片っ端から読んでいったのです。
だからアタシの漫画全般知識はこの店で養われた、といっても過言ではありせん。
さあ、そろそろ本題に戻します。
母親→叔母が経営していたのは「1980年代」の「喫茶店」です。ということは、当然「アレ」とは切り離せない。
そう、ゲーム!
ただしアタシが叔母の喫茶店に入り浸っていた頃はとっくにインベーダーブームが去った後です。さすがにどんなゲームが設置してあったかは忘れた。「ゼビウス」とか「ソンソン」とかがあったのは憶えているけど。
アタシもそれらのゲームで散々遊ばせてもらった。もちろんタダで。後で100円玉を回収すればいいんだから店のマイナスにはならないし。
とはいえやりたいゲームにお客さんが座ってたらできないんだけど。当たり前ですね。まさかお客さんをどかせてゲームをやるわけにはいかない。
でもお客さんがあまりいない暇な時間ならばやり放題。100円玉をアホほど積んで遊び続けました。
そのわりに、ちっとも上手くならないのは、これはもう才能の問題でしょうなぁ。
しかしですな、こうしてみるとよくわかりますが、たしかにアタシは、そんなに長い期間ではないとはいえビデオゲームに熱中していました。
ところが、本来ビデオゲームを遊びたければ行くべき場所である「ホンモノのゲームセンター」にはほとんど行ってないんですよ。
むろん何度も「カジノ・ド・三宮」といった紛うことなきホンモノのゲームセンターや、高速神戸地下の怪しいゲームセンター、んでデパートの屋上のエレメカ全盛期の頃の簡易遊園地にも行ったことはあります。
しかしそんなもんたかがしれている。それこそ近所の駄菓子屋や叔母が経営していた喫茶店とは比べものにならない。
ちょうどインベーダーブームが終焉する間際くらいからかな、ゲームセンターに良くないイメージが付き始めます。「不良の溜まり場」というレッテルを貼られ、「ゲームセンターへの入場を禁止する」なんてお達しを出す学校まで出てきた。
しかしこんな無意味なお達しもない。限られた繁華街にしかまともなゲームセンターはなかったし、だからといって駄菓子屋に行くことを禁じるなんて出来るわけがない。たしかに喫茶店に行ってはいけないってのは理屈としては通ってるんだけど、アタシの場合は叔母が経営する喫茶店なんだから関係ない。
こうなると、もう「ちゃんとしたゲームセンターに行って」なんて欲望さえなくなる。だってソコに行けばタダで遊べるんだもん。
だからアタシにはゲームセンターへの郷愁は一切ありません。一切は言い過ぎかもしれないけど、もし「1930年代の松屋のスポーツランドと1980年代のゲームセンター、どっちか好きな方に行ける」となったら、アタシは迷わずスポーツランドを選択する。
今現在ビデオゲームの類いに興味がなくなったってのもあるけど、そりゃあミッキィ横丁の方が遊んでみたいもん。
って何だか話の趣旨が変わってきたんで、これでおしまい。
過去エントリからのツギハギが基本になってますが、正直ちょっと強引だなぁ。つなぎ方が自然じゃないっつーか、もうちょっとちゃんと調査精査したら複眼単眼でもイケそうなテーマなのにね。 |
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