漫才・考
FirstUPDATE2004.3.7
@Scribble #Scribble2004 #笑い #上方芸能 漫才 フットボールアワー ボケとツッコミ 単ページ 上岡龍太郎 PostScript

まぁ関西在住の人なら、ほとんどの人が漫才に一家言あると思うのですが、もちろんアタシも御多分に漏れず、ってなわけです。

去年(現注・2003年)末にひさしぶりに関西に帰ってきて、全然知らない漫才コンビがテレビに出ていると「どれどれ?ナンボのもんやろ?」と実にエラソーに批評してしまいます。
その中でもやっぱりフットボールアワーですね。もちろんM-1でグランプリをとるぐらいだから実力は誰もが認めるところでしょうけど、ネタによってハズレがない。これが凄いと思う。5本ほどテレビでみましたが、どれも均等に面白い。まぁふつう若手だと突出したネタはドカンドカンウケるけど、それ以外のネタはグッと落ちるもんなんですけどね。それだけの腕前なんでしょうね。

漫才の役割の決め方って難しいですよ。はっきりいって<ボケ>と<ツッコミ>でわけるなんて愚の骨頂で(ややこしいのでここでは便宜上そういう書き方をしているが、演じる側の人間がそういう意識でやっていたとすれば相当ヤバいと思う)、だからといって<笑いをつくる方>と<話を進める方>という分け方もちょっと違うなーと思うし。

一般にツッコミといわれる役割には絶対適性というのがあると思う。

① 声の立ち上がりが早い
② 家庭教師的立場でボケをみることができる

①はつまり、ツッコミはスピードが命なところがあるでしょ。もちろんそうではない手法もあるんだけど、やっぱり声の立ち上がりが遅い人はツッコミの種類が限られてしまう。つまりリズムが生まれにくいと思うんです。
さっきあげたフットボールアワーの後藤も声の立ち上がりが早いですよね。だからスパンといく。反面ナイ○イの矢○なんかどうしても声の立ち上がりが遅いから、反復的なツッコミしかできないですよ。そうなるとどうしてもテンポが悪くなるんですよね。(相方は声の立ち上がりがいい方なんで、ボケとツッコミの役割を変えた方がいいんじゃないかと。余計なお世話ですが)

②はね、もっと根源的な話なんですけど、結局<ツッコミ>という役回り名がよくない気がするんです。アタシが思うに≪ボケ≫と対になるのは<チェッカー>ではないかと。つまりボケのやることを注意深くチェックしていくという役回りなんじゃないかと思うわけです。

「家庭教師的立場で」というのはボケがボケることをすべてチェックしておく必要があるけど、全部にツッコむ必要はないということです。家庭教師もそうでしょう。要は「それは違うよ」ということをボケ(と観客)にたいして伝えることであって、何がどう違うのかを的確にわかりやすい言葉で伝えなければならない。そうするにはなんでもかんでもツッコんでいたらボケも(観客も)理解できない。本当にここぞ!と思う場面でツッコむことが大切なんです。

それともうひとつ。ツッコミは絶対ボケを莫迦にする態度をみせてはならない。かといって同じ立場でもいけない。それはまさしく≪教え子と家庭教師≫の関係でなければならないと思うんです。
でもこれができてない(というか適性のない)ツッコミって意外と多いんですよね。しかし名コンビといわれている人たちのほとんどは①と②の両方を満たしているハズです。

しかし何事にも例外というものがあって・・・。
こうやってみてみると、やすし・きよしやダウンタウン、漫才ではないけれどコント55号といった人たちはかなり異端なコンビということがわかると思います。
やすし・きよしのように<ボケ>も<ツッコミ>も、<笑いをつくる方>も<話を進める方>もコロコロ交代していくというのは実にわかりやすい例です。(きよしは声の立ち上がりが遅いが、やすしもツッコめるのでツッコミがワンパターンにならない)しかしダウンタウンはどうでしょうか。

ダウンタウンは一見オーソドックスな<ボケ>と<ツッコミ>のコンビにみえます。しかも①と②の両方の条件を満たしている。しかしやっぱりふつうのコンビではない。はっきりいえるのはこの人たちのパターンを真似した漫才コンビは雨後の癲のごとく出現しましたがどれも失敗している。それはこの人たちがよくある<ボケ>と<ツッコミ>の漫才コンビではないということです。

昔上岡龍太郎が自著でダウンタウンを「どっちもエキセントリックなボケでしょ」と評していましたが、アタシには読んだ当時その意味がわからなかった。でも今ならおぼろげながらわかります。
それは「ガキの使いやあらへんで!」をみるだけでもよくわかります。松本は<話を進め>ながら<笑いをつく>ることができる。反対に浜田は<ツッコミ(つまり松本の言動をチェックし)>ながら<ボケ>ることができる。これは単純に才能の問題ではなく(もちろんそれもデカいが)こういう特性をもった人2人がそんな簡単に組み合わさるわけがない。つまり「ダウンタウンの模写から漫才を始める」というのは自殺行為に等しいと思います。

漫才というのは落語にも増して「正解のない芸」であり、だからこそ若手がでてくるたびにこんなにわくわくするんでしょうね。

これがはじまりっていうか、こんなエントリを書いたことがすべての<きっかけ>となって、約1年後、このサイトは<笑い>について書く、みたいになったのです。
この辺りの心理的な<くだり>についてはココに詳しく書いてますので是非。




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