アタシが愛好するYouTubeチャンネル「だてレビsideB」さんで、俗に言う「和歌山カレー事件」をやっていたのですが、あ、ちょっと、そういう視点はなかった、みたいな話をされてて。
通常、本編の後に配信されるアフターミステリーアワーはメンバーシップ限定(つまり有料)なのですが、この回に限って無料で配信されてるので本編と合わせて是非ご覧いただきたいんだけど、リンクの動画内で和歌山カレー事件のような毒物混入の場合、殺意を証明するのが非常に難しいと。ま、もちろん未必の故意であるのは間違いないとしても、揺るぎない殺意があったのか、もう誰にも(下手したら真犯人自身にも)わからないのです。
毒物によって殺害しよう
毒物によって健康被害を及ぼさせよう
これは似て非なるもので、単純に「どっちも悪いこと」みたいな大雑把なことを言えば、そりゃあその通りなんだけど、裁判所がそんなザックリでは困る。というか「明確な殺意があったかどうか」は判決に多大な影響を及ぼすわけで、もし被疑者とされている人が真犯人だったとしても、仮に未必の故意(そうなったらしょうがないかーレベル)ならば死刑判決はあきらかにおかしいということになってしまいます。
だてレビsideBさんでも強調されているのですが、だからこそ検察側は「未必の故意ではなく明確な殺意があった」ことの証明に躍起となり、余罪である一連の詐欺事件を立証し、こういう人間なんだから、被疑者はヒ素の致死量も完全に把握していた。だからこれは未必の故意ではなく明確な殺意があった、という方向に行こうとしていると。
ただね、そもそもH氏が真犯人だった場合、あきらかに動機が不十分で、そんなあやふやな動機(近隣住民との不仲程度)で無差別大量殺戮までやるか、と言われたら、いやぁ、それはいくらなんでも、と思ってしまう。
これは先の動画のチャット欄で指摘されていたことですが、もしカレーを食べた人たちが嘔吐や体調不良をもよおす程度の嫌がらせ目的であれば、ま、近隣住民との不仲程度の理由でもやる可能性はあるよね、というふうに思える。
ただそうであれば、これは「未必の故意」になってしまう。未必の故意であればどう考えても死刑判決は重い。未必の故意認定されながら死刑判決を受けた人はいますが(「夕張保険金殺人事件」など)ほんの数例に過ぎないし、この事件のように致死量の把握というきわめて曖昧な要素がある、物的証拠が何もない、動機も確たるものがない、となったら、不当かどうかはともかくちょっと早計だったんじゃね?お思わないこともない。
こういう場合、結局は「裁判官の裁量」で決まると言われてるし、とくに過去の犯罪歴や裁判所での態度など直接事件とは関係ないことが大きく関係してくる、とは言われている。
しかも弁護団はそもそも不当判決云々ではなく、ハナから「無罪」の主張なので、未必の故意か否にかんしては争われていない。
いやこれがもし(実際にやったかは度外視して)最初から未必の故意にたいしての争いであれば、もしかしたら死刑という判決は下らなかったのではないか、と思ってしまうのです。
もちろん、裁判官の裁量で判決が決まるって、どれだけ日本の司法はいい加減なんだ、と思う人もいるだろうし、アタシ自身間違っても法律に明るくないので、もうちょっと何とか明確な基準はないものか、と考えてしまうのも事実です。
とか考えてたら、ふと「山崎晃嗣」という名前が浮かんだ。この名前でどれだけの人がピンとくるのかわかりませんが、とにかく戦後すぐに起こった「光クラブ事件」の首謀者です。
山崎晃嗣をひと言で表現するのは難しい。ま、そんなの誰でもそうですが、間違いなく「極端な考えをするしかなくなった人」くらいは言える。
彼がそうなったのは「そういう人格」と言い切る自信はない。たぶん戦争(というか軍隊体験)や<名家>という家庭環境は彼の性格形成に大きな影響を及ぼしただろうし、もし平穏かつユルい時代で、彼自身もっと上手く立ち回れる人間ならば官僚にでもなったかもしれない。
何をもって「頭が良い」というのかの基準はいろいろあるのでそこは明言しませんが、彼は勉強が出来る、という意味での頭の良さはあった。つまり学業成績優秀で、東大法学部に入ってるのだからそこは間違いありません。
ただ、学業成績優秀であり、同時にきわめて要領が悪く、極端な思考に陥りやすい山崎は法学部に入るや(ま、一浪してるし途中学徒出陣を挟んでるから<否や>ではないけど)、とにかく「刑罰数量表」なるものの制作に熱中した。
「屈辱」「悲しみ」「怒り」「復讐」「生活上の負担」「嫉妬」などといった感情にすべて数量を与える。むろん「悲しみ」といっても単に五十点をつけるのではなく、深い悲しみや軽い悲しみ、人生そのものを否定したくなる悲しみなどと差をつける。従ってもう再起不能で、 人生にも絶望し自殺までしかねない悲しみを五十点とし、そのほかの悲しみをその度合によって差をつける。短期間に終わるような悲しみは二十点という具合である。
「裁判官の裁量なんて曖昧なものがあっていいのか?」と思ってしまう法律ド素人が考えつきそうな、すべてを数値化してすべてを明確にする、というのを山崎晃嗣は本当にやろうとした。
現今、プロ野球やメジャーリーグにおいて、試合をまったく見ずに指標だけ見て論じたがる、いわゆる「指標厨」と呼ばれる輩がいますが、すべてのことは数値化出来ると考える山崎に近いところがある。というか山崎の考えは70年ほど進んでいたのかもしれません。
実際は、となると現時点で野球の指標化はまだ道半ばであり、到底プレイをすべて数値化出来てるとは言い難い。野球というスポーツの、かなり限られた範囲ですら数値化は不完全どころかスタートラインに立ったレベルです。
ましてやこれが法律になると、あまりにも範囲が広すぎてそう易々と数値化なんか出来るわけがない。だから職業として法律に携わる人は山崎のチャレンジを鼻で笑う。いや判決を数値化して決めること自体の是非はともかく、んなもんたったひとりが少々頑張ったところで実運用出来るようなもんが作れるわけない、と。言うまでもなく戦後すぐなんで全部手計算でやんなきゃいけないわけだしね。
いやね、ホント、山崎晃嗣について知れば知るほど、この人生まれる時代を間違えたな、とつくづく思う。というかすぐ極論を持ち出して突っ走るところなんぞアノヒトとかアノヒトそっくりじゃないですか。
それでも今の時代なら、光クラブのようなあくどいことをやらなくても大儲け出来たと思う。つまり世間に迎合は出来ないんだけどそれなりに幸せな人生をおくれたと思う。
そして「数値化へのこだわり」は今の時代だったら間違いなく狂信者を生んだ。
もったいないよね。それこそ今の時代ならアノヒトとかアノヒトくらいにはなれたのに。って悪いこととは言え一応歴史に名を刻んだ山崎とアノヒトやアノヒトで山崎のが下とは言えないけどさ。