最近ほんとにScribbleの更新頻度が減っちゃって、つか駄文書いてるくらいならちょっとでも動画のクオリティを上げたいって意識が強くなりすぎてるっていうか。
えと、本来ならもうちょい早めにこのテーマで書くつもりだった。でも書くのが億劫で。
てなわけで結構前にアップした動画なんですが、この動画ね、「街のオキテ」という泉麻人の著書をコスったというかパクった内容になっています。
以前もサービスステーキの話を書きましたが、この本、いい意味で時代の空気が濃厚で本当に面白い。ただそれだけ時代が出てるってことは、時代の悪影響も見て取れるわけでして。
1980年代という時代はとにかく「ヌルさへの嫌悪感」が充満していた時代で、たしか「オヤジギャグ」という言葉が生まれたのもこの頃だったと思う。
ダジャレ、なぞかけなどの、後の言葉で言えば「誰も傷つけない笑い」は莫迦にする対象だった。というかビートたけしの勢いがものすごくて毒舌、罵倒などのギャグが幅を利かせていた。「お約束」は軽んじられ、お約束を破ることこそ面白くてカッコいい、そんな価値観が生まれたんです。
先日アタシは「結局マンザイブームの影響は皆無だった」と書きました。ってこれはマンザイブームの影響なんじゃないかと思われるかもしれませんが、マンザイブームの影響というよりほぼ「ビートたけしひとりによる影響」です。
つまりビートたけしたったひとりによって「ヌルい笑い」も「王道のベタな笑い」も消滅しかけた。
今回は「王道のベタな笑い」についての話はオミットして「ヌルい笑い」について書きたい。
本来、ヌルい笑いというものは「爆笑させるためのもの」ではありません。一番わかりやすいのが黒澤明の作品に出てくる<笑い>で、たとえば「酔いどれ天使」での志村喬が何度閉めてもドアが開いてしまう、などまさにそうです。
あそこで爆笑するヤツァいない。でもほんのりと心が和む。もしかしたらちょっとクスッとしてしまうかもしれない。そしてそれが全体の空気をユルめるわけです。
つまりこれが「ユーモア」です。
ユーモアってのは爆笑させるためにあるわけじゃない。つまりギャグとは目的が違う。
なのにビートたけし以降、ま、数年だけとは言え「ギャグはユーモアの上位互換」みたいな扱いになった。言い方を変えれば「ユーモアはギャグの下位互換」であり、ギャグを発することが出来ないからヌルいユーモアを発しているのだ、と。
もちろんこれはビートたけしの戦略でもあったと思う。ユーモアで満足なんかするなよ、ギャグで笑わせてやっからよ、みたいなね。それはそれでぜんぜん構わないんだけど、大衆がそれに全乗っかりしちゃった。そうか、ユーモアってのはレベルの低い、莫迦にされて然るべきものなんだ、とね。
もう一回言います。ギャグとユーモアはそもそも目的が違うのです。コメディアンやヴォードヴィリアンがギャグが必要なのは「爆笑させたい」からであって、必ずしも「爆笑させた=偉い」ということではない。
ましてや一般人は、というか一般人と一般人の会話においては「ここは爆笑させなきゃいけない=絶対ギャグでなければならない」場面なんてほとんどない。そもそも一般人が易々と爆笑ギャグを思いつけるわけもなく、必要ないどころか「会話の邪魔にしかならない」んだから一般人には「ギャグを発する」ことなど必要ないんです。
むしろ必要なのは「場を和ませる」ためのユーモアであり、実際問題、会話においてはギャグなんかよりもユーモアの方がはるかに有益なんです。
オヤジギャグと莫迦にされたダジャレだってね、あれはあれで役に立ってたんですよ。つかあれは「<笑い>のクオリティ」みたいなことで測ることではない。あくまで「あ、このオッサン、堅苦しい感じじゃなくて、柔らかい場にしようとしてるんだな」とわからせるための合図だったんです。
それをね、「笑えない」とか「サムい」とか「イタい」とか<笑い>のクオリティの話にすり替えられてしまった。で、そう思われたくない意識からもう誰もダジャレも言わなくなってしまった。
これは悲劇と言ってもいい。
前も書いたけど、日本語ってのはこうしたユーモアを扱いやすい言語だったのに、ユーモアはギャグの下位互換、ユーモアなんて発するヤツなんかどれだけ莫迦にしても構わない、という間違った認識が広まったせいで日本語から柔らかさみたいなのが目減りしてしまった。
本来であれば痛いことを言われたり、答えようのないことを質問された時は「軽いユーモアで返す」という文化があった。それが今は、と言うと、SNSなんかを見れば一目瞭然のように、強い言葉で真っ正面から言い返す、というのがデファクトスタンダードになっちゃったんです。
某ホリエモンなんか最たる例だけど、こうしたユーモアのある切り返しがまったく出来ない。何かっつーと「馬鹿」とか「死ね」とか強い言葉で反論するのみ。たぶん本人に伝わったら「そんなのいくらでもやれるけどやらないだけ」とか言うに決まってるんだけど、それはやれるとは言わない。自然にやれる人だけを「やれる」という。
ユーモアがどれだけ無駄な争いを回避してきたか。ユーモアがあればこそ丸く収まったことなど無数にある。その効用を無視しちゃいけない。
いやね、先日、友人に「アナタのツイートはオッサン臭い」と言われたんだけど、ホンネでは嬉しかった。
アタシは自分で、発達障害ではないけど、ものすごくガキっぽいと思ってるんだけど、そうか、オッサン臭いのか!これでアタシもイッパシのオッサンに見られるのか!って。
オッサンってのは「若者から馬鹿にされようがそんなことに判断基準を置かない、必要だと思ったら関係なくやる」もんだと思ってて、アタシだって場を和ませるためならいくらでもオヤジギャグっつーかダジャレを言うよ。そんなの当たり前じゃん。
それはもう、ユーモアという文化が消滅して欲しくないから。そのおかげでたくさんの人が助かるんだから。若者に馬鹿にされる?いいよ別に。そもそも若者の方が偉いと思ってないから馬鹿にされても痛くも痒くもないし。