何だか「リロ&スティッチ」のCG版が公開されるみたいで、あともうすぐ「パディントン」の最新作も公開されるようなんですが。
どちらも一部のキャラクターのみCGで、あとは実写というか俳優が演じているという形になっています。
この形式は喋ったり特殊な動きをしたりする人間外のキャラクターが登場する場合、この基本実写+特定のキャラのみCGというのは現状もっとも無難なやり方かもしれません。ま、アニメ絵漫画絵を実写に溶け込んでも違和感がないようにするためにどうしてもリアル寄りのキャラデザになって、不気味になりやすいといつ問題はありますが。
ではです。もしテメエが「ドラえもん」をこの方式で作れとなったらどうするか、これ、真面目に考えたらかなり難しいな、と。
もちろんCGとして登場するのはドラえもんのみ。ま、ドラミちゃんは出さなきゃいいだけなので、ドラえもんだけで十分です。でも残りの、のび太をはじめとする人間キャラは役者が演じることになるわけです。
たしかに少年少女がのび太やしずちゃんを演んなきゃいけないっていう難しさもあるんだけど、実は一番の問題はエントリタイトル通り「のび太のメガネ」ではないかと。
は?と思われるかもしれません。しかしこの「のび太のメガネ問題」ってかなり大きいと思うのですよ。
当然のことながら原作の漫画でもアニメでも、のび太はメガネをかけているという<設定>です。しかしのび太がメガネというイメージがどこまで活かされているか、どこまでイメージとして浸透しているか、それはかなり疑わしい。
そういえば「のび太の太陽王伝説」という映画で、この「のび太のメガネ問題」が相当白熱した議論になったらしい。
のび太と太陽王がそっくりという設定に関してはかなり揉めました。そもそも僕は最初から、メガネのレンズ部分が白目に見えるというのび太の作画に引っ掛かっていたんです。のび太はメガネなのに、その状態で裸眼の王子と同じ目というのはいくらなんでも無理があるでしょうと(笑)。
芝山努の言う通り、メガネのレンズ部が白目として扱われているというのは如何にも漫画的アニメ的表現で、でも結局最後まで反対していた芝山努も「それもまた漫画やアニメの面白さである」と認めることになるのですが、つまり漫画を読む限り、アニメで見る限り、レンズは果てしなく白目と同じ役割でしかない。だから意外と「のび太=メガネ」というイメージを持ちづらい。
ただこれ「漫画とアニメ以外」でのび太の顔を再現しようと思えばどうやっても<メガネ>というパーツが強調されてしまう。
実際、スタンドバイナンチャラとかいうCG映画版ののび太は「如何にもなメガネキャラ」であり、こうなると絶妙にのび太っぽくなくなるんですよ。
本来、漫画やアニメにおいて「メガネキャラ」は秀才やガリ勉キャラ、はたまたお金持ちの嫌味なキャラに用いられるものでした。
漫画の絵というのは一種の記号であり、メガネも「目が悪いからかけている」というよりは「秀才キャラの象徴、キーアイテム」としてメガネをかけていたに過ぎない。
ところがあえてレンズのデカい丸眼鏡にすることでダメキャラにもメガネという作品が登場した。それが「ドラえもん」より5年ほど先行した森田拳次の「丸出だめ夫」です。
中途半端な性能のロボットとメガネをかけた劣等生という組み合わせは完全に「ドラえもん」のプリシッドで、おそらく藤本弘先生も「ドラえもん」という作品を作る上で何らかの影響があったのではないかと思うし、とにかく「メガネなのに劣等生」は「丸出だめ夫」の影響を感じずにはおれない。
ただし「丸出だめ夫」のだめ夫はのび太よりも圧倒的にメガネ感が強い。実写版ではよりメガネを強調したような縁の太いフレームのメガネを穂積ぺぺがかけていましたが、今見てもそんなに違和感がありません。
しかしのび太の場合、ほんのちょっとでもメガネ感を出したら、妙に秀才っぽい感じになる。たしかに「レンズのデカい丸眼鏡」はおマヌケ感はあるんだけど、やっぱどこか秀才っぽく見えてのび太っぽくなくなる。スタンドバイナンチャラはまさにそうでした。
つまりね、設定上でいくらメガネをかけてるとなっても、あれは白目なんだ、くらいの解釈の方がよりのび太っぽくなるんじゃないか、と。
ましてや、これはずっと言ってるように、のび太ってのは間違っても気弱キャラじゃないんですよ。すぐに調子に乗るし、ドラえもんに道具を借りるや否やすぐにジャイアンやスネ夫にたいして反撃に出る。そういうね、実はかなり好戦的なキャラです。
でもメガネが強調されると、もうどうしても弱っちい感じになるというか、気弱が強調されて、またしてものび太らしくなくなるわけで。
こうしたメガネにまつわるデメリットを考えるなら、いっそ、実写にする場合はメガネをかけない方が「のび太らしくなる」んじゃないかと。
もちろん「メガネじゃないのび太なんてのび太じゃない!」と言われると思うのですが、アタシはね、漫画やアニメから実写にアダプテーションするって結局こういうことだと思うのですよ。
もう一度言いますが、漫画のキャラってのは記号なんですよ。ましてやのび太のように「ちょっと<だけ>記号から外れた」キャラの場合はとくに難しく、それこそ「クレヨンしんちゃん」の組長先生のようなギャップ推しなくらい「まったく記号から外れてる」ならいいけど、このちょっと<だけ>が逆にものすごい違和感を生む原因じゃないかと。
そういうちっちゃな違和感を出来る限りなくして、物語だったり世界観に入り込める仕組みを作る、それがメディアの置き換えには必須なんです。
ぶっちゃけね、のび太がメガネをかけてない違和感なんて最初だけですよ。序盤はちょっと「え?」と思うかもしれないけど、そのうち気にならなくなる。でもメガネをかけるデメリット、つまり秀才っぽかったり、気弱に見えたら、最後までそのキャラをのび太として認識出来なくなるわけで、そういう割り切りが出来るか出来ないか、そこが分かれ目なような。
思えば「孤独のグルメ」が成功したのは結局そこなんですよ。
原作の井之頭五郎と松重豊は似てない。というか年齢からしてまったく違う。んでキャラクター自体もまあまあ違ったりする。(一応ドラマ版は原作の20年後の設定)
でも、あの、ドラマに出てくる「井之頭五郎」は原作漫画の世界観にフィットしまくりというか、たとえ漫画版井之頭五郎とは違っても、この井之頭五郎が漫画の主人公でも何の違和感もないよね、となってるのがすごいんです。
何しろ実写化するんだから「まんま」は無理です。でも少なくとも「原作野比のび太に似た実写野比のび太の家にドラえもんがいても何の違和感もない」というふうにしなければいけない。それが上手いアダプテーションであり、逆にビジュアルを寄せることばっかり考えるのは下手なアダプテーションだと。
当たり前だけど、ビジュアルも違えばキャラクターの根幹まで違う、とか、それはもう原作汚しとかじゃなくて「オリジナルでやれよ」と。つかアニメや漫画を土台とか叩き台に使うんじゃないよと。んなことは当たり前でしょうが。