これ、ずっと思ってるんですが、メチャクチャってパターンがないなって。つまり「メチャクチャなんだけど、よくよく見たら全部一緒じゃねーか」と。
以前も書いたことがあるのですが「よく知らないからこその発想」って、そのほとんどはたいしたことがない。これを過大評価する人はいるし、某巨大掲示板なんかでは誇らしげにレスして自画自賛してるけど、どれもこれも「ああ、知らない時ってみんなそういうこと思うよね」と。
つまりね、それが正しい間違ってるの話じゃないんです。アタシが言いたいのか「誰も思い付かなかった=画期的」か否かの話で、そこにフォーカスすれば「ありがちもありがち」ってことになってしまうと。
ま、それは良いとして、では画期的ってどういうことだろうって。
もうアタシがいつも思うのが「最果て」ということです。ま、最果てなんて言うと「場所」にかんして使われることが多い。例えば「最果ての地に」とか。
でもね、それこそ自宅から直行で「最果てと呼ばれる地」に行ったところで、それは最果てではない。ただの旅行です。
やはり最果てと言うからには、いろんなところを巡り巡って、どこにも安住を得られず、散々彷徨った挙げ句に辿り着いた、そういう過程がね、やっぱ必要なんですよ。
もう、いろいろやった結果、辿り着いた場所、それが最果てだと。だから具体的に「どこが最果てか」はない。
そう考えるならば、何らかのクリエイティブなモノを作る場合であっても、最果て感には「巡り巡って」というのがないと話にならない。
もちろん、その過程で<王道>であったり<ルーティーン>も通ってる。でもこれは違う、これは自分のクリエイトではない、そういう発想から脱却して、何か<次>はないものか、そうしたことは必要だと思うんですよ。
これはもう、ピカソを見れば嫌でもわかる。
今さらピカソの説明はしませんが、あれ、ご存知のように、デビューして、いきなり<あの絵>になったんじゃないんですよ。でもそんな過程を知ってようが知らなかろうが、見た人たちに「何かすごい」という印象を植え付けることが出来たと。
そういえば「たけしの誰でもピカソ」という番組があったけど、あのタイトルは一種の皮肉だったと思う。つまり「誰でもピカソ(になれると思ったら大間違いだぞバカヤロ!)」という。
つかね、これはイメージの問題だけど、天才なんて言われると「デビュー時から、若い時からいきなり世間が驚愕するような画期的なモノが作れた、やれた」みたいになってるのが問題のような。
たいていの場合、仮に画期的っぽかったとしてもラッキーパンチだったり、はたまたまったく持続性がなかったりする。でも自らの<天才>というイメージを守るために「すごい」というよりは「より大衆にわかりづらい」方向に走ったりする。ま、わかりづらい=勝手に「すごい」と解釈されやすいので、一番ラクな方法なわけで気持ちはわかるんだけどね。
天才ってそういうことじゃないんですよ。
あくまで才能だけの話をすれば、とにかく「大衆との距離感」が絶妙に上手いのが天才であり、能力や「画期的なモノ」かは関係ない。
どれだけ高い技術があろうが、それを専門家ではなく大衆が嗅ぎ取れなければ、その人は天才ではない。逆に評論家に相手にされなかろうが大衆を味方に出来るか、そこが鍵になってくる。
アタシが加藤茶を天才と言ってはばからないのは、あの人はまったく玄人ウケしない芸なんですよ。でも強力に大衆を味方につけられる。つまりこれが天才なのではないかと。
そしてこれがフシギなんだけど、たいして道程を経てない時点でも、加藤茶ってメチャクチャじゃないんですよ。画期的ってほどでもないけどメチャクチャじゃない。
つまり加藤茶は画期的なんてモノにとらわれてない。だからメチャクチャにはやらない。でもメチャクチャじゃないから「ありがち」にもなってない、と。
つかメチャクチャにやる芸能人ってたまに出てくるけど、よくよく考えたら「過去にいたメチャクチャやる芸能人」と全部同じなんですよ。だから興味がない。アタシは。
つかね、もうこれは絶対だと思うんだけど、誰もやったことがない、なんて、実はほとんど意味がない。
若いうちはそういうのを目指すのはわかるし、アタシだってそうだった。んでそれが後々活きてくることもある。それはわかるんです。
でも冷静に、それこそタイパで見れば、ただの遠回りでしかない。本当は<画期的>かどうかなどのくだらないものにとらわれず、とにかく愚直に、自分が信じる方向に向かって能力を高めるしかない。それが実は近道なんです。
でもそういうのはね、何だか大変そうだし遠回りに思える。つまり近道をしたいがばっかりに<画期的>を目指して、結果的に遠回りになってしまっている、みたいな。
もちろん、近道だろうが遠回りだろうが、本当はゴールなんかない。ゴールのないマラソンは辛いので自分でゴールを決めてしまうんだけど、あえて辛い道を選んで、ゴールなんていらない、と思えた人が巡り巡って辿り着く場所、それが最果てです。
これもね、実はそんなメチャクチャ時間がかかるわけじゃない。ちゃんと真っ直ぐ進んでいれば、そんな老齢になる前に、極端に言えばかなり若い時点でも最果てまで辿り着くことは可能です。
やっぱ岡本太郎とか、かなり早い時点で最果てまで辿り着いていた感がありありとわかる。だからそれこそ太陽の塔にしてもあれほどインパクトがあるわけで、太陽の塔は岡本太郎59歳の時の作品ですよ。今のアタシとそれほど変わらないんですよ。それであの「最果てまで辿り着いた感のあるオブジェ」を作れるのは本当にすごい。すごすぎる。
そういや万博が始まったようだけど、結局ね、今の万博って太陽の塔のようなシンボルがないんですよ。
これがどういうことなのか、を書こうと思ったけど、まァいいや。