これ、あくまで個人的に思ってることなだけで、別にこれが正解!と言い切るつもりはない。つかそこら辺は議論すりゃいいって思ってるんで。
もし「学校は何をするための場所」なのか、と問われたら、まァ人によっていろいろ考えがあると思います。
この場合の「学校」というのは、義務教育期間中、つまり小学校と中学校を指すのですが、何で小学校や中学校に行かなきゃいけないのか、そうしたことを我が子から問われたら何と答えたらいいのか、みたいな話です。
ま、アタシには子供はいないんだけど、それでもそうした疑問を投げかけられたら、何となく、こう答えよう、というのは決まっています。
普通であれば「勉強をしに行くところ」であり、人によっては「友達を作るところ」と答えるかもしれない。
しかしね、それって本当に、学校に行かなきゃ出来ないことなの?というと、そんなことはないんですよ。
勉強は自分ひとりでも出来るし、つかある程度のレベルになったら学校に行ってようがなんだろうが「ひとりでやる」のが当たり前です。
友達だって別に「学校以外の場所で友達を作ってはいけない」というきまりはない。つかアタシなんか学生時代からの友達はひとりもいないしさ。
つまりね「学校=勉強するため」とか「学校=友達作りのため」ではぜんぜん答えになってないと思うのですよ。つかさ、そうした屁理屈は子供の方が得意なので、絶対に納得してもらえない。だからアタシならそうしたことは言いません。
やっぱ、こうした話を大人ではなく子供にする場合、な?学校以外では無理だろ?みたいなことを提示出来ないと話にならない。もちろん前段として勉強や友達の話をするのはアリだし、「じゃあ、◯◯は何でだと思う?」と子供自身に答えさせてもいい。でも大人であるならちゃんとした回答、つまり「学校という場所があればこそ可能なこと」は理解しておくべきです。
アタシの思う「学校だから出来ること」とは、要するに「社会に出た時に必ず降りかかる、嫌な、避けたいことの疑似体験をする場所」だと。
んなもんね、一度も、死ぬまで嫌な思いをせずに過ごせるなんてあり得ないわけですよ。どれだけ社会が過保護になっても、人間というものが存在する限り、その人間内で絶対に優劣は存在する。当然のことながら<優>は優遇され、<劣>はないがしろにされる。これはもう避けて通れないことであり、ナニ主義だろうが結局は一緒です。
しかし、これまた当たり前だけど、何をやらせても秀でた能力がある、なんて超人なんかほぼいない。それこそ勉強は出来るけどスポーツはダメだとか、芸術的な才能はあるけど他がダメとか、枚挙にいとまがない。つかそれが普通です。
学校ってのは「同じ年度生まれ」という理由だけで一定の数毎にひとまとめにされる。当然そこにも優劣は存在しており、何らかの箇所で100%劣等感が生まれるわけです。
それは社会に出てからも同じで、ま、社会はどちらかと言えば得意分野で勝負出来るので学校よりかは劣等感を抱きづらい。
しかしそれでも「得意な人間」と「さらに得意な人間」に仕分けることが出来るわけで、どうやったって優劣は出てくる。しかもその優劣は<生活>にまんま直結するので、<劣>に属したら<優>に比べて生活レベルまで落とさなきゃいけなくなる。となるとまた別の劣等感も生まれるわけで、そうか、人間ってのはどうやっても優劣が生まれるんだ、と自覚するには学校というの実にちょうどいいのです。
もうひとつ、クラスメイトは自分と同い年、ということは、そんなに体格や腕力の違いなんかないはずなんですが、実際には存在する。
そして、悪辣きわまる、卑劣なことを平気でするような人間もクラスにひとりかふたりはいるものです。
これもまた、しょうがない。そういうもの、で片付けていいのかわからないけど、社会に出たらそういう人間との関わり方が求められるようになる。
学校であれば、せいぜいイジワルをされたりする程度ですが、社会ならばそういう人間とかかわるだけでオマンマ食い上げになる。その訓練も学校が一番いい。
しかしここからが肝心なのです。
子供への答えとしてはそれで十分なんだけど、大人はそれで終わらせてはいけない。言ったからには責任がある。
「学校で嫌な思いをした」となっても「そりゃ学校ってのは嫌な思いをする場所だから」で済ませても良いのですが、「学校で(おそらく将来トラウマになるほどの)嫌な思いをした」となったら話が変わってくる。
嫌な思いをする場所ではあるんだけど、それがあまりにも行き過ぎてトラウマになるほどであってはいけない。そこの線引きだけは絶対に崩しちゃいけない。
それこそ暴力的なイジメとか、金銭が絡むような嫌がらせとか、本人ではなく家族(というか家庭環境)を馬鹿する言動をされたとか、そういうのにはね、断固として対処しなきゃいけない。それが大人の務めです。
アタシの姪っ子はイギリスに在住しているのですが、向こうの学校は日本とは違い、授業毎に教室を移動する。一応クラスという概念はあるようなんですが、日本の小学校中学校よりも希薄で、席が決まってるわけでもなく、実際「どこからどこまでがクラスメイトなのかはっきりしない」らしい。ま、小学校中学校でありながら日本で言えば大学のようなもんか。
クラスメイトかクラスメイトでないかの境がユルいので、人間関係が硬直化しづらいというメリットがある一方、仲良くなるにもわりと積極性が求められるわけで、日本のように「たまたま机が隣同士だったから」みたいな理由で仲良くなることはない。
要するに一長一短なんですが、少なくとも「どちらがトラウマになるほどの嫌な思いをしやすいか」となったら圧倒的に日本の方です。
だからこそ、教師であったり親であったりは「どの程度の嫌なこと」なのかを注意深く見守る必要がある。これがイギリス式(アメリカも同じらしい)ならそこまで気を配る必要はないかもしれないけど、日本式の人間関係が硬直化しやすいシステムであれば、これはやらなきゃダメだと思うんですね。
ぶっちゃけ、学校という場所は非常に特殊な場所で、近々そういう話をちゃんと書く予定なんだけど、子供の頃にそうした特殊な場所に身を置くというのはけして悪いことではない。
ただね、これだけは言いたいんだけど、どうも親側が学校を「特殊な場所」と見做してないんじゃないかと思われるケースが散見されるんですよね。
学校はあくまで「親の監視下外にあえて子供を置いて、嫌な経験をさせる場所」です。理不尽な先生、理不尽なクラスメイト、勉強やスポーツで優劣をつけられる。そういう社会の縮図ではあるけどネガティブな影響は実は少ない、そうしたことを体験させる場所なんです。
ま、放置してるようで実は隅々まで見渡しているってのが一番難しいんだけどね。つかそれが出来るなんて大人でも、いやそれはいいか。