先日も書いたように、人命というか人の生き死ににたいしてアタシはあまり感情的にならない人間です。ま、達観してるってよりは「心を揺さぶられるってのはそういうことじゃないだろ」と思うから、というか。
さてアタシが似非事件マニアだってのは何度も書いてるけど、ぶっちゃけ、被害者に同情心が向くことはほとんどないのです。いや、そりゃあ、胸糞な事件はありますよ。それこそイジメが高じて殺人まで行ったり、あきらかに警察の怠慢で事件が発生する、なんてのは胸糞でしかない。
警察の怠慢で<未解決>なら、まだ百歩譲れる。でも警察の怠慢で「本来なら殺されずに済んだ人が殺された」ってのは、ホント、胸糞どころじゃない。
しかし、こうした場合であっても怒りの感情が先に立ってしまう、というか。
被害者に何の落ち度もない場合は当然、仮に落ち度があっても悪いのは100%被疑者です。いや「被疑者」の段階で100%はないけど、とにかく被害者に落ち度があったんじゃないか、つまり責任は0%ではないのではないか、という考えは嫌いです。
だけれども「かわいそう」と思うかどうかはまったく別問題で、というかアタシの個人的な考えとして「かわいそう」という発想自体が被害者を馬鹿にしてるような気がしてる。
同情する、というのは慈悲の問題もあるんだけど、やっぱ、極端に言えば「下に見てる」んですよ。当たり前だけど上に見てる人には同情心は生まれづらい。だからむやみに「かわいそう」と思うのも違うんじゃないかと。
そんな中、例外中の例外と言える被害者というか事件があります。
それが岩井市女子高生殺害事件です。
ここんところ、先週紹介した「だてレビsideB」さんでこの事件を再度考察されてたんだけど、本当、この事件の被害者には「かわいそう」という気持ちしか沸かない。っても、間違っても馬鹿にして「かわいそう」と言ってるわけではないんですよ。
アタシはね、こういうと選民みたいで嫌なんだけど、幸せになる権利のある人っていると思っているのです。
いや権利があるというよりは「こんな人間は幸せにならなきゃいけない。でないとあまりにも世の中不公平すぎる」と思えるような人がいる、というかね。
この事件の被害者の方はまさしくそう思える人で、間違っても「良い環境で育った」わけじゃないのに、それでも他人への共感力が高く、自分のことより他人の幸せを考えるような人だ、というのがだんだんあきらかになってきた。
まだ高校生で、ここまで優しく、そして強い人間はいない。そんな人間が幸せになれない、どころか人生が突然シャットダウンされてしまった、というのは、もう「かわいそう」以外の言葉が見つからないのです。
きっとね、彼女が生きていたら、彼女のおかげで幸せを感じられた人がもっともっと増えたはずで、そう考えると「将来、もしかしたら彼女と出会う可能性があった人全員」が不幸になったと言えるのかもしれない。
もう一度言いますが、彼女の家庭環境はサイアクに近いものだったと思う。幼少時から施設に預けられ、無事高校に進学して家族と暮らすようになってからも「家事の駒」と言えるような扱いだった。
そんな状況でも、常に他人を気遣い、弱ってる友人に手を差し伸べて、友人に危害を加えようとする者に「自分はどうなってもいい」という覚悟で食ってかかる。
アタシはオッサンですが、ここまで強く優しい行動をやれ、と言われてもなかなか難しい。もう失うものなんか何もない、開き直り人生モードに突入しているオッサンでさえも難しいのです。
それを高校生がやる、というのがどれだけすごいことか。
事件発生から20年経って、それでも今も、彼女を忘れないでおこう、何とか未解決事件として終焉するのだけは避けようという人がいる、というのは、もうこれ、彼女のカルマとしか考えられないのです。
要するにね、たった16年の間にとんでもない<徳>を積んでたんだなぁ、と。
アタシなんか彼女の3倍以上生きてるけど、こと<徳>で比べたらたぶん彼女の半分もないね。もしかしたら1/10くらいかもしれない。
そんな人間が死のうが何しようが「別に、だから何?」で済ませられても構わない。しかし彼女は違う。
何をやったところで彼女が生き返るわけじゃないけど、せめて、今からでもいいから事件が解決して欲しい。それは彼女のためでもあるけど、今も彼女の記憶が強く心に残り続ける人のために。
こんな子だもん。絶対あの世で「なんか、いつまでも私のことに引っ張られて、申し訳ないなぁ」って思ってるはずだからね。