脚本家を目指しているのは
FirstUPDATE2024.3.14
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いやちょっとね、面白いネット記事を見たもので。
あくまでアタシが個人的に思う、創作について本当に才能がある人って最低このふたつの資質があると思っているのです。

・1から10まで全部自分でやらないと気が済まない
・絵が描ける

このふたつ。って、じゃあどちらかでも欠けてはダメなのかの、と思われるかもしれませんが、けしてダメなわけじゃない。ただ、少なくとも「天才」とか、そういう類いの人ではないんだろうな、と。
ちなみにアタシはどちらの資質も有していない。全部自分でやるより「任せるところは任せた方がラクだしクオリティが上がる」と考えるような人間だし、何よりアタシは絵がまったく描けない。もうビビるほど描けないんですよ。

って、しつこく「グラフィックデザイナーてごさい」って書いてるんだけど、グラフィックデザイナーのクセにまったく絵が描けないんですよ。もうグラフィックデザイナーの風上にも置けない。だから「最底辺のグラフィックデザイナー」と自嘲しているわけで。
かと言って、じゃあイラストを描かなきゃいけないシチュエーションがあるかというと、実はほとんどない。だったら絵が描ける描けないとか関係ないじゃん、と思われるかもしれませんが、やっぱり関係あるんですよ。

いやもう、この際百歩譲りましょう。
テクニックやなんやの問題で、イマイチな絵しか描けないってのはアリだとします。でもね、もう最低限も最低限、脳内に「ベストイメージ」が描けないと話にならないのです。
これは画力なんかまったく求められてないはずの小説ですらそうで、脳内でベストのイメージを浮かべることが出来るからこそ情景描写が可能になる。
本当は「なろう小説」と書こうと思ったけどあんまり知らないので、素人に毛が生えた人の書く小説、という表現に留めますが、とにかく情景描写がないんですよ。あってもメチャクチャいい加減。ちゃんと脳内イメージを浮かべることが出来てない証拠です。

つまりね、何も漫画家や宮崎駿や富野由悠季のようなアニメ作家だけに限らない。ジャンル一切問わず、創作を生業にしようと思ったら、最低限脳内イメージくらいは描けないと話にもならないのです。
でもベストはやはり、脳内イメージだけでなく本当に絵が描けることで、つか絵が描けるからこそ他のスタッフにも自分の理想とするものを正確に伝えることが出来る。つまり「1から10まで全部やる」ことが可能になるんです。

これ、本当かどうか、いや本心かどうかわからないのですが、黒澤明は「手塚治虫のような才能が漫画界に行ってしまったから、日本の映画はダメになったんだ」と息子の手塚眞に語ったとされます。
もちろんリップサービスの可能性もあるのですが、それでも手塚治虫が先ほど挙げた、いわば天才の条件である「1から10まで全部やりたがる」というのと「絵が描ける」ってのは見事に当てはまっています。
言うまでもなく手塚治虫はストーリーテラーでもあったわけで、たしかに一本だけでも実写映画を撮ってみても面白かったな。

先ほどの天才の条件からはあえて外したのですが、ストーリーテラーである、というのは必須条件ではあるけど、十分条件ではないのです。
もし、物語の構築に自信があるのであれば、そして年齢も低ければ、次にやるのは「絵を習う」ことなんじゃないかと。
それこそ実際に仕事で自分の絵を見せる必要はなかったとしても、絵が描けるようになって損なことは何もない。絵が描けた方が絶対脳内イメージも浮かびやすくなる。
結局ね、アタシはそのことに気づいてなかったんです。「絵なんかかけなくても必要であればイラストレーターに頼めば済む話じゃん」と簡単に考えてしまった。そのせいでデザイナーとして頭打ちになるのが早くなってしまった。

アタクシ事はさておき、絵が描けることの重要性に気づいていない、軽く考えている、もしくは「中途半端なレベルだったらやんなくてもいい」と考えてるってかなりもったいないんですよ。とくに年齢が若ければ若いほどね。
つかさ、そう考えれば、早いうちから絵の重要性に気づき、1から10まで全部やりたがるエゴもあって、しかも物語を考える能力がある本当の意味でのクリエイティブな人が漫画家を志すってのは自然すぎるくらい自然なんです。
漫画ってのは絵や物語、そして細部に至るまで1から10までやんなきゃいけない。言い方を変えれば全部やることが当たり前で、それって相当魅力的に映るはずです。

漫画家にはアシスタントはいるけど、基本的には共同制作者はいない。そりゃ原作者付きの作品はあるし、「ゴルゴ13」に代表される、さいとう・たかを作品のように完全分業制を標榜して制作されたものもあるけど一般的になったとは言い難い。
何かね、漫画って1から10まで全部やりたい人の最後の砦のような気がするんですよ。
昔は、それこそサイレント映画の時代ならほぼ完全な自作自演が可能だったし、ゲームも8ビットマイコンの頃はコーディングからグラフィック、サウンド、全部ひとりでやるのが当たり前でした。
しかしそれらのジャンルはどんどん分業化が進んでいった。そしていつしか「餅は餅屋」としてその道のプロに任せる方が良い、という考えが定着した。

アタシはね、それが悪いと言ってるんじゃないんですよ。それも進化のひとつだと思う。しかし同時に、分業化が進めば進むほど、そのジャンルには天才が入ってこなくなるんじゃないか。そんな気がしてならないんです。
そういやアタシは昔、ゲームデザイナーになりたいのであれば、最終的にどのポジションに就くにしても最初は8ビットマイコンくらいのハードウェアの詳細な仕様が完全に把握出来る低性能なマシンを使って、コーディング、グラフィック、サウンド、全部ひとりで作った方が良い、というようなことを書いたことがあります。

正直プログラム能力、デザイン能力、作編曲能力、全部高いレベルの人なんてこの世にいない。だから完成品というか<商品>にするには苦手なところをその道のプロに頼むってのは間違ってないんだけど、その前段階として「1から10まで全部、やれるだけやってみる」ってのを経験した方がいいに決まってる。つか「このハードウェアの性能で、このプログラマー陣の能力で、締切がいつまでなら、実現可能なゲームデザインにする」というのも仕事だから。つか自分でやった経験がなければわかるわけないよ。

アタシはね、脚本家になることが悪いって言ってるんじゃないですよ。
でも三谷幸喜にしろ宮藤官九郎にしろ演出の経験もあれば役者として舞台に立ったりドラマに出た経験があるわけで、少なくとも脚本しかやったことがない人よりは全体を把握する能力があると思っている。そしてそれが脚本にも反映されているはずです。
とか考えるとシナリオコンクールなんて意味ないよな。それよりも小劇団とかで演出も出演も脚本もやってる人に脚本書かせた方がはるかにマシなんじゃないの?と。

要するにです。
脚本家なんて目指すものではない。なるべくしてなるものです。昔「監督は脚本を書けなければいけない」なんて言われたけど、今はその逆。脚本を書こうと思えば演出も出来るくらいでないと本当に良いモノにはならないと思うのですがね。







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