ぼくいめちぇんちゅうですぅ、な街・錦糸町
FirstUPDATE2024.2.18
@街 #東京 @戦前 #戦後 #2003年 #東宝 #エンターテイメント #施設 錦糸町 ドラえもん 木村さん 楽天地 小林一三 テーマパーク ロッテ ブルーカラー 錦糸公園 アルカキット錦糸町 オリナス錦糸町 すみだストリートジャズフェスティバル 単ページ

 いやはや、おそらく「昭和」と「令和」でここまでイメージの変わった<街>はないんじゃないかと思うほどなのですが。

 令和の今、錦糸町のイメージは何故か「ドラえもん」になってしまった。錦糸町と言えばドラえもん、ドラえもんと言えば錦糸町・・・ではないけど、錦糸町に縁がなかった人ほど「錦糸町?ああ、ドラえもんの」って感じだと思う。
 って、わかんない人には何を言ってるのがさっぱりわからないと思うので説明します。
 正確に「いつから」というのは軽く調べた限りわからないのですが、おそらく2021年9月に放送された「月曜から夜ふかし」にて<錦糸町>と<ドラえもん>を結びつける「とあるVTR」が放送された。
 残念ながらYouTubeの動画はすべて削除されたみたいなのでTikTokのリンクを貼っておきます。(注・TikTok上では「木下さん」になってますが「木村さん」の誤りです)

@mario.mario1up #月曜から夜ふかし #錦糸町 #クレープ屋さん #木下さん #バズって #似てる  #ドラえもん@きゃすみる(辻加純)【 #Popteenレギュラーモデル】 ? オリジナル楽曲 - mario.mario1up - ドラえもん????


 要するに「錦糸町にあるクレープ屋さんに、ドラえもんにそっくりな<声>の店員さんがいる」ということなのですが、瞬く間に拡散され、ついには、ただのクレープ屋さんの店員だったはずの木村さんはCMに出るまでになりました。

 というか木村さんの<素>の声や喋り方は「ドラえもんの声」というよりは「大山のぶ代がドラえもんの声優をやってる時に出す声」で、つまり大山のぶ代の<素>の声や喋り方とも違うんですよ。
 ところが面白いのが、大山のぶ代時代を知らない、つまり「水田わさび世代」が聴くと「水田わさびがドラえもんの声優をやってる時に出す声」に聴こえるらしい。
 え!?いやいや、どう考えても大山のぶ代の声っしょ。つか水田わさびとは違うよ、と思うんだけど、実際、大山ドラを一度も見たことがない世代が聴いても「あ、ドラえもんの声!」と思うらしい。
 フシギですよね。そもそも大山のぶ代と水田わさびは声質も口調もあんまり似てないというか明確に違うのに、何で原典が違ってもドラえもんに思えるんだろ。

 ま、アタシもね、2023年7月に久方ぶりに東京に居住することになって、比較的錦糸町に行きやすい場所に部屋を借りてるんでね、錦糸町にはわりと行くことがある。
 で、何度か例のクレープ屋さんの前を通ったことがあるんだけど、よほど運がないのか、残念ながら一度も「木村さん」を見たことがない。
 いやマジで、もし木村さんがいるなら、たいして好きではないクレープを買おうと思ってるんだけどさ。いないんなら、ねぇ。
 つかね、錦糸町に行くたびに「今日のデザートはクレープかな」と思いながら行くわけで、結局一回も買ったことがないのにアタシのイメージまで「錦糸町=クレープ」、転じて「錦糸町=甘ったるい街」になってしまったと。

 つまり、令和の現在、錦糸町のイメージと言えば「ドラえもん」だったり「クレープ」だったり、どちらかと言えば「ほわほわ」した感じで、ま、「ほわほわ」という表現が適当かわかんないけど、間違ってもハードなイメージではない。あ、「ドラえもんも大長編はハードだろ」みたいなツッコミは不要です。
 しかしほんの20年ほど前、つまり平成の中頃までは錦糸町にはハードなムードが漂っていた。いや令和になってもそういう場所がなくなったわけじゃないんだけど、その頃までは錦糸町駅周辺全体がハードな感じだったんです。

 ここからは錦糸町の歴史をざっくりおさらいしておきます。
 いや、錦糸町の歴史を語るなら東宝を語るみたいなものというか、楽天地のことを語ることに他なりません。
 かつて錦糸町が錦糸堀と呼ばれていた頃、具体的には1930年代後半の話ですが、この辺は面倒なのでWikipediaを引用します。

(筆者注・東宝は)東京では松竹の牙城である浅草への進出も目指したが、恩人である根津嘉一郎に懇願されたこともあってやむなく断念し、代わりに錦糸堀(錦糸町)を娯楽街とする計画を立てた。当時の錦糸堀は殺風景でうらぶれた街に過ぎず、東宝の重役たちは軒並み仰天したほか、世間は小林(筆者注・=小林一三)の暴挙として捉えた。


 要するに浅草の代替地として、たまたま錦糸堀に『汽車製造合資会社東京支店(現在の川崎重工業株式会社)があり、1931年(昭和6年)の小名木川駅近辺への移転後はその跡地が8000坪の空き地となっていた』のでこの地が選ばれたわけです。
 にしてもです。
 この時点で東宝が手掛けていたのは「ステージ」と「劇場(ステージ、映画)経営」のみで、まだ映画<製作>には本格的には乗り出していない。もちろん楽天地が開場した1937年にはすでにP.C.L.とJOスタヂオの吸収合併の話は進んでたんだろうけど、仮にスムーズに進んだとしても砧にあるP.C.L.のスタジオが東宝のスタジオになるだけです。
 つまり、ここに映画製作スタジオを建てるわけじゃない。建てるのはあくまで「劇場」のはずで、となると『8000坪』というのは巨大すぎて持て余してしまう。
 だからといって兵庫県の宝塚市で運営していたルナパーク(後の宝塚ファミリーランド)のような、いわゆるフルサイズの遊園地を作れるほどは広くない。
 この『8000坪』という、広すぎるし狭すぎる絶妙な土地の大きさを東宝は、いや小林一三はどう活かしたかです。


 メチャクチャざっくり言えば「錦糸堀という土地に<ミニ浅草>を作ろうとした」というのは画像を見てもらえれば明らかです。
 浅草寺境内の仲見世、浅草寺、花やしき、六区の興行街。これをギュッとコンパクトにして『8000坪』の中に収めた、という。
 しかも当時提携していた吉本興業まで引っ張り込んで「江東花月劇場」まで作っているのがすごい。これで東宝が唯一弱かった演芸までカバーしたというね。
 ま、うだうだ書くより開園当時の写真を見ていただいた方が早いか。










 要するにこれは、現在で言えばテーマパークです。
 浅草テーマパーク、いや、もう「東宝ランド」と呼んでも差し支えない。つか「楽天地」という名前からして現代で言うところのテーマパークという意味に近い。
 それまでの錦糸堀は、文明開化以降、いわば工場街であり、ま、ブルーカラーが多かった街と言ってもいい。そんなところに「最先端」を謳うテーマパークを作ろうとした小林一三には舌を巻きます。

 じゃあ、楽天地が出来たことで錦糸堀改メ錦糸町が一気にモダンな街になったのか、というとなってない。「テーマパークとしての楽天地」は1945年、俗に「東京下町大空襲」と言われる3月10日未明の大爆撃で江東劇場など主要施設はほぼ灰になった。

 開場が1937年、実質閉場となったのが1945年なのでわずか8年の命で、以降も「楽天地」という名称は受け継がれたとはいえ「テーマパークとしての楽天地」は地域に根付く前に消滅したわけです。
 結局、モダンな街へ生まれ変わることはならず、復興が立ち遅れたなどの理由で「徹底した庶民の街」というイメージが根付いた。
 何しろ元々がブルーカラー層が多い土地柄です。戦後になって新しく出来る施設も、良く言えば「お高く止まっていない」悪く言えば「ガラの悪い連中がタムロしそうな」場外馬券場やパチンコ屋などが幅を利かせ、飲食店もそれに似つかわしい店が立ち並ぶようになっていったのです。

 ただしそれも、良く言えば「ガラは悪いかもしれないけど活気のある街」とも言えるのですが、大規模な工場が次々と東京近郊に移転=ブルーカラー層の減少と、東京の他の街が著しい発展を遂げたことで、ガラの悪いイメージはそのまま、活気だけが薄らいでいく、という悪いスパイラルに入ってしまった。
 アタシが初めて錦糸町に行ったのは2003年ですが、もうこの頃には街の活気みたいなものは消滅しており、しかし相変わらずもつ煮なんかを食わせる一杯飲み屋のような店が点在する、という状態でした。
 もちろんその間も「新しい動き」がなかったわけじゃない。
 例えば1970年、まるで小林一三の意思を受け継ぐが如く、お菓子メーカーのロッテが錦糸町に複合レジャー施設(ロッテ会館)をオープンさせましたが、ここは楽天地よりもさらに手狭だったこともあり「ひとつのビルにボウリング場や結婚式場を押し込めた」スケールになった。結局ロッテの野望は日本では実現することなく韓国のロッテワールドとして結実することになります。


 もうひとつ、東宝は1950年代になって「テーマパークとしての楽天地」の夢よもう一度、と言わんばかりに高層タワーを備えた近未来的な新楽天地の構想を発表したことがありましたが、実現に至らなかった。

 もちろん楽天地はその後大幅なリニューアルを果たすのですが、劇場機能こそ有しているものの、有り体のビルになった。つまり人々がワクワクするようなテーマパーク的な、それこそ高層タワーのようなランドマークは計画段階で終わった、ということになるわけで。

 このように、楽天地にしろロッテ会館にしろ、錦糸町という土地を一大レジャータウンにしようという試みはことごとく上手くいかなかった。
 ただそれでも、山の手線の外側とはいえ総武線で浅草橋まで4分、秋葉原まで6分、新宿まで25分という便利な場所です。だから、おそらくいろんな企業が「錦糸町を何とか出来ないか」と思案を巡らしたと思うんですよ。
 何しろ<錦糸町>という名前からしてイメージが良くないので住宅地に向かないし、かと言ってレジャーの街化は失敗の歴史があるわけで、そういう意味で<詰み>に近かったのではないか。
 それでも錦糸町はゆっくりゆっくり、下町のちょっと便利な街、というポジションを確立していくのです。

 では令和を生きる我々が、実際錦糸町に繰り出した時にどこに出向くのか、です。
 まず、特別に何かある、という先入観は捨てなければなりません。たしかにちょい足を伸ばせばスカイツリーはあるんだけど、さすがにスカイツリーのある押上を「錦糸町」というのは無理がある。つまりランドマーク的なものは皆無と言って差し支えない。
 だったら、いくら行きやすい場所に住んでるとはいえ、テメエは何のために錦糸町なんかに繰り出すんだ?と思われるかもしれないので、あくまでアタシ個人が「錦糸町に行けばほぼ必ず立ち寄るスポット」を紹介していこうと。

 
◇ アルカキット錦糸町

 まァね、有り体の都心型ショッピングモールなんだけど、ここのウリは何と言ってもダイソーのデカさです。たぶん東京一、もしかしたら日本一デカいダイソーかもしれない。
 ダイソーって実は店舗によって品揃えがだいぶ違うので、どうしても百均で探したい、という場合は非常に便利なのです。
 あと「ワークマン女子」があったりしてね、ワークマンは愛用してるので非常に便利なんだけど、隠れたスポットとして10階にある喫煙室を推したい。ここの窓から見えるスカイツリーは「スカイツリー撮影スポット」としてはベストに近い。ま、喫煙者でないと入りづらいけどさ。


 
◇ オリナス錦糸町

 これまた有り体のショッピングモールですが、わりと面白い店が入ってるんですよ。
 サンリオ好きとしてはサンリオショップが入ってるのが嬉しい。

 
◇ 錦糸町PARCO(楽天地)

 で、ここが楽天地の成れの果て、と言っちゃうとアレだな、とにかく楽天地であり錦糸町PARCOでもあります。
 いや別にね、こここそ何があるわけじゃなくて、ただただ「あ、ここが小林一三の夢の跡か」と感じることが重要というか。
 にしてもここの映画館、普通に東映の封切り映画とかもやってるんだよな。もう東宝とはあんまり関係ないのかね?つかブロックチェーンがなくなったから関係ないかもしれないけど。

 
◇ 錦糸町マルイ

 マルイでしょ?と思われるかもしれないけど、注目は地下にあるジャパンミートというスーパーです。
 いわば「ハナマサの巨大版」で、つかハナマサは関東一円にわりとあるけど、どういう理屈かわかんないけど全体的にハナマサよりも絶対的に安いんですよ。それも野菜や魚といったハナマサの本業(ハナマサは肉類に特化した業務スーパーに近い)とは本来関係なさそうなものが特に安いというね。

 
◇ 錦糸公園

 だだっ広いだけでとくに何があるわけじゃないんだけど、タイミングがあえば意外とイベントをやってたりします。んでそのイベントが結構楽しげなものが多いんですよ。

 
 さて、よく行くスポットはこれで終わりますが、錦糸公園を中心に錦糸町の駅周辺にかけて毎年「すみだストリートジャズフェスティバル」なるものが行われており、ジャズを中心に音楽が街に溢れる、なんてイベントがあったりします。
 この手の「まちおこし的音楽イベント」にしてはこの「すみだストリートジャズフェスティバル」は成功の部類だと思う。いい意味でプレイヤーと観客の距離が近く、少なくとも寒々した空気はありません。

 こうした試みが成功したのは、間違いなく「錦糸町がイメチェンに成功しかかってる」証拠でしょう。
 たしかにね、まだまだ、正直空気のよろしくない区域はあるんだけど、それでも駅の北側に限ればそこまで「ガラが悪い」という感じはしない。良くも悪くも<並>に近づいている。
 つかさ、すみだストリートジャズフェスティバルもだけど、錦糸町の行く末はやっぱりイベント的なことをやる街だと思うんですよ。
 もちろん失敗の歴史がある以上、なかなかね、難しいところはあるんだけど、そもそも楽天地が実質的に消滅したのも戦争のせいであって「錦糸町に興行が向かない」ということではなかった。ロッテ会館だって別に失敗したわけじゃない。

 ただもう、錦糸町って中途半端に発展しすぎてもう土地がないのよ。つか今、もし小林一三が創造した楽天地があればな、と痛切に思う。今なら当時の楽天地くらいの敷地でもいくらでもね、ま、ビルを高くすりゃいいんだから、それこそリトル浅草、いやUSJとは違う形のシネマテーマパークになったと思うんだけどなぁ。

本文にもあるように、アタシが初めて錦糸町に足を踏み入れたのは2003年です。しかしそれから20年ほどはほぼ行くことがなく、つまりはアタシにとって「個人的な歴史の浅い、懐かしい思い出皆無な街」なんですよ。
なのに何で錦糸町かというと、それはここまで読んでいただけたらおわかりの通り「小林一三が作り上げた、テーマパークとしての楽天地のあった場所」だから。もう、それだけ。
もし戦災がなくて今も往時に近い形で楽天地が残っていたら、そんな想いを馳せるだけで楽しくなってしまう。んで、だからこそ錦糸町にはこれから良い方向に進んで欲しいと思うわけで。
というかさ、映画ドラえもんは東宝配給なんだから、もっとドラえもん推しでも良いと思うんだよね。ま、木村さんがやりたいかは別にして。




@街 #東京 @戦前 #戦後 #2003年 #東宝 #エンターテイメント #施設 錦糸町 ドラえもん 木村さん 楽天地 小林一三 テーマパーク ロッテ ブルーカラー 錦糸公園 アルカキット錦糸町 オリナス錦糸町 すみだストリートジャズフェスティバル 単ページ







Copyright © 2003 yabunira. All rights reserved.