思えば「タモリ倶楽部」って、あくまでアタシの中ではですが、本当に規格外の番組だったんだなってね。もう最近つくづく思うわけで。
アタシが番組開始当初から、その番組が終焉するまで「ずっと見続けた番組」って実はそんなにないんですよ。
10年以上続いた番組で、本当に最後までずっと見ていた、なんて「鶴瓶上岡パペポTV」くらいしかないと思う。だからパペポも特別っちゃ特別なんだけど、それでも個人的には「タモリ倶楽部」のがすごいような気がして。
「タモリ倶楽部」は<ちゃんと>見てなかった期間の方が長い。初期の頃から見ていたのは見ていたし、その後も変にポップ路線になった頃や「おしり推し」ではなく「おっぱい推し」になった頃のことも憶えています。
しかし「毎回欠かさず」にはほど遠かった。見たり見なかったり、という状態が何十年も続いていたのです。
それが、ちょうどアナログ放送が終了する直前の2010年頃から欠かさず見るようになった。ま、そのトシになって本当の面白さに気づいたというか。
でもね、パペポにしろタモリ倶楽部にしろ本当に例外中の例外で、開始当初は熱心に見ていても、時間帯が合わなくなったり、番組のテイストが微妙に変わってアタシの<好み>から外れてしまったり、いろんな理由で途中で見なくなるケースが大半です。
例えば、これは以前に書いたけど「ドラえもん」なんか最たる例だと思う。
「ドラえもん」にかんしてはのぶ代時代の、そうだなぁ、1990年代後半にはもう見なくなってたと思う。たぶんこれはアニメとしてのテイストが変わったってよりも時間帯が合わなくなったって理由の方が強かったはずです。
もうひとつ、あ、そういや途中からほとんど見なくなったな、と思うのが「とんねるずのみなさんのおかげです(でした)」です。
これもね、最末期まで、避けてたわけじゃないんですよ。でもたまたまテレビをつけたらやってた、じゃあちょっと見てみるかくらいの熱量で、少なくともごく初期の、それこそ仮面ノリダーをやってた頃に比べると熱量なんか1/10にも満たないレベルでした。
それでもね、「みなさんのおかげ」にかんしてはちょろっとは見てるとも言えるわけで、その「ちょろっと見た」時に「また毎週見てみるか」とはならなかった。
だからこそ「タモリ倶楽部」は規格外だって話なんですが、これ、テレビ番組に限らずYouTubeとかでもあるじゃないかね。
つまり「このチャンネル、昔は更新されたら必ず見てたなぁ。でもいつの間にか見なくなって、こないだ久しぶりに見たけど、それからまた見てない状態」って。
ただね、テレビ番組であってもYouTubeチャンネルであっても「嫌いになって」見なくなるって実はあんまりないんですよ。それこそこないだ書いた島田紳助の番組のように「能動的に、嫌になって見なくなる」ケースなど例外で、ほぼ「何となく」から始まって、いつしかほぼ見なくなるという状態になる。
そうは言っても嫌いになったから見なくなったわけではないので、ぼんやりと程度は、その番組やYouTubeの出演者のことは気になってる。自発的に検索したりはしないけど、元気でやってる姿を見ると妙に嬉しくなってしまうのです。
とんねるずなんかまさにそうで、もう今はコンビとしての活動は皆無に近いけど、それでも石橋貴明や木梨憲武が頑張ってるのを見るだけで嬉しいし、イメージだけで叩かれているのを見ると悲しくなってしまいます。
とんねるずって本当に評価が難しいというか、真っ当な評価をされてない人たちで、よく「部活ノリ」とか「内輪ウケ」とか言われるけど、そう単純なものじゃない。じゃあ何なんだ、となっても、ふたりともヴォードヴィリアンとしての能力は際立って高いわけではないので評価のポイントが見えづらい。
彼らはね、実は典型的なコメディアンなんですよ。
しかもコンビ間の関係で笑いを作るタイプではない。だからダウンタウンのように「個々でも面白いけど、コンビ揃えば何倍ものパワーになる」という感じでもない。というかお互いをイジり合って笑いを取ることなど皆無で、それどころか「みなさんのおかげ」の「食わず嫌い王」とかでも会話すらほぼありませんでした。
それでもとんねるずをマルクス兄弟に見立てると本当にわかりやすく、石橋貴明はグルーチョ・マルクス、木梨憲武はハーポ・マルクスなんですよ。
マルクス兄弟は他にチコ・マルクスやゼッポ・マルクスがいるからグルーチョとハーポの関係が生まれるけど、とんねるずはコンビであり、ふたりをつなぐ役割がいないんです。
面白いのが、チコやゼッポの役割を担うのがゲストだったりスタッフだったするところなんですが、そういうのはずっととんねるずの番組を見てないとなかなか理解し難いのです。
だから後年になっての評価が難しいのですが、それでもリアルタイムでとんねるずの番組を見てた人たちには石橋貴明単体、木梨憲武単体だけでなく「とんねるずというコンビ」としての面白さが肌感覚でわかっている。
だから今が旬の芸人からもリスペクトされる。サンドウィッチマンがとんねるずを敬愛してるとかメチャクチャわかるし、関西出身の芸人でも「実はダウンタウンよりもとんねるずの方が好きだった」という人がいるのもよくわかる。
ただもう、とんねるず自体に全盛期のパワーはないし、世間的には令和の今、とんねるずと言えば「落ち目になった、かつての大スター」だと思う。
でもアタシは「落ち目になって以降のとんねるず」をあんまり見ていない。これって今にして思えば「見てなくて良かった」とね。
どんなコメディアン、ヴォードヴィリアンだって凋落期は存在する。当然「全盛期」よりも「凋落期」の方が時期的に近いわけで、全盛期の面白さよりも面白くなくなった落ち目の頃のインパクトの方が強くなってしまう。
でも「途中で見なくなった」ってのは全盛期のままでイメージがフリーズされるので、評価が公平になる。んで公平だからこそ今の人たちとの比較も成り立つと。
ま、映画はね、やっぱそれなりに人気がないと主演という形の映画は作られづらいわけで、昔の映画が主戦場だった頃のコメディアンは後年の人たちに醜態を晒すこともない。しかしテレビは映画よりもいい加減で安直なので、つい出演依頼をして、結果醜態が映像として残ってしまう、と。
ま、今の時代のがコメディアン、ヴォードヴィルの<枯れ方>は難しいね。