何でこんなタイミングで、と思われるでしょうが、ま、自分のための記録として。つかアタシはお笑い評論からは足を洗ってるんでやる必要はないんだけど、ちょっと、発語衝動を刺激されたんでね。
いやね、上記記事を読む前から、おそらく「さや香は石井が完全なプレイヤー、新山がディレクターなんだろうな」とは思っていた。
あくまでアタシが感じるさや香の魅力は「石井の佇まい」であり、独特の佇まいを持つ石井のキャラクターをどう活かすか、それがさや香の面白さのベースだと思うのです。
つまり新山がやるべきことは石井の独特の面白さをどうやって引き出してやるかだと思うんだけど、どうもね、さや香の漫才をいろいろ見ると「石井がまったく活かされていない」ネタもあって。
例えば例の見せ算のネタも、もし一方的に喋りまくるのが石井だったらどうなっていただろう、と思う。
というか、さや香のネタって最初は石井がフィーチャーされてても途中で新山に比重が移ることが多くて、もしかしたら新山は縁の下の力持ちに徹することが出来ない、もしくはある程度自分が目立たないと気が済まないタイプかもしれない。
しかし新山がスタンドプレイに走ると石井の役割がなくなってしまう。実際去年のM1の2本目は「見せ算」というネタの内容云々ではなく「石井を完全に殺してしまった」ことの方が印象として強いのです。
当たり前だけど、ふたり、もしくは3人で演る漫才のいう芸において「ひとりが死んでる状態」というのは非常にマズいのです。
大昔のツービートや紳助竜介もビートきよしや竜介の役割が見えづらかったけど、それでも、少なくとも見せ算の時の石井ほどは死んでいない。つかきよしにしろ竜介にしろ役割は見えた。
というかもし見せ算のネタが石井メインだった場合、新山が自分自身を殺してしまうことは考えづらく、もうひと展開あるネタになったような、ね。
一方、さや香とはある意味真逆の、役割が足りなかったと思ったのがダンビラムーチョです。
あれは歌ネタだったことばかりが言われるけど、ネタの構成が片一方が歌って、もう片一方が口三味線では「ツッコミがいなくなる」というよりは「終わりどころ」がない。最後まで歌い切るか、それとも途中で無理矢理中断したみたいにするしか次の展開に移れない。さらにはアタシが重要視する精神的対立も生まれづらくなる。
あれね、もしトリオ漫才であれば、次の展開へ移行しやすく、もっとちゃんとした形で成立したと思うんですよ。M1は4分の間に複数の構成が入ってる方が好まれやすい傾向があるので、もうひとり、ツッコミでなくても、ある種の飛び道具的な存在がいてガラッとムードを変える展開にすれば歌ネタがどうこうとは言われなかったんじゃないか。
そうなってくると優勝した令和ロマンと、その令和ロマンと最後まで争ったヤーレンズは「役割がない」「役割が足りない」といった構造的欠陥もなく、言い方としては悪いけどオーソドックスで無難な漫才でした。ま、致命的欠点のない漫才と言い換えてもいい。
個人的にはヤーレンズの1本目が2023年のM1で最高の出来で、アタシが言う<筋漫才>(ストーリー(筋)があるというよりは全体を通して一本<筋>が通っているという意味)だったし、細かいクスグリも観客にクリティカルヒットしてて、漫才として完璧に近かった。ま、あれはいわゆるコント漫才ではあるんだけど、今の時代、完全なしゃべくりだけでってのは逆に難しいんで十分許容範囲でしょう。
令和ロマンはあの髙比良くるまのキャラクターがある限り、スベった状態になることは考えづらく、良くも悪くも年齢を考えれば異様に<仕上がった>コンビであり、優勝は納得出来る。
ただし納得出来るっちゃ出来るんだけど、これもアタシ独特の言い回しになっちゃうけど基本が<串刺し漫才>(<筋>が弱く、ギャグが串刺し状態で連なっている)で、どちらかと言えば爆笑問題やナイツの東京型漫才に近い。
正直、何度も書いてるけど、アタシは串刺し漫才があまり好きではないし、寄席のような何組も漫才師が登場して、というような場ではものすごくいいんだけど、いわゆるワンマンライブに行きたいとは思わないタイプなんですよ。
ま、こんな感じですかね。ひとつ残念だったのが一昨年、高須クリニックのパロディCMをやった空気階段で、発想は悪くないんだけど「強風オールバック」の実写パロディはユーチューバーもやってたことだからね。しかもネタ元が所詮「インターネット上でのみちょっと話題になった」程度なのも弱い。
今年はもうちょい大衆的な元ネタでやって欲しいわ。