1926年からはじまって
FirstUPDATE2024.1.8
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 100年ほど前、具体的には1926年。場所はイギリス、その最大の都市であるロンドン。


 この年、そしてこの街でひとりの日本人が生まれました。彼の名前は「ヘンリー」。日本人なのにヘンリーって、と思われるかもしれませんが、彼は日本に帰国後は「ヘンリー」ならぬ「千里」と名乗ることになりますが、それはもう少し先の話。
 そして同じ年の、つまり1926年、年も押し迫った12月25日に愛知県名古屋市で「等」という男の子が生まれた。


 それはいいのですが、父は等の出生のタイミングで体調を崩しており、出生届を叔父に託したのですが、その叔父が何故か届けを3ヶ月近く忘れるという謎の大失態。しかもその3ヶ月の間に年号は大正から昭和へと移っており、等は「大正15年12月25日生」のはずが「昭和2年2月25日生」になってしまったのです。

 等が出生届を出された1927年、画家の青木繁の息子で、当時「名うてのプレイボーイ」と言われた音楽家の福田蘭童の息子として生を受けたのが「英市」です。
 さらにその2年後の1929年、代々裁判官の家系であったと言う「オカタイ」名家で生まれたのが「弘」です。あ、「ヒロシ」ではなく「ヒロム」ですよ。
 で、その翌年の1930年。「1930年型」なんて言葉が流行語になり、いわば最先端というイメージが強いこの年なのですが、最先端とは何の関係もない、東京の下町の水道工事屋の倅として生まれたのが「定夫」です。
 そしてその2年後の1932年、今の田園調布で「泰雄」が2月に、中野で「秀峰」が9月に生を受けている。「秀峰」は読みづらいけど「ひでみね」ね。


 えと、これで全員揃ったかな。
 英市、弘、定夫、泰雄、秀峰は全員東京生まれ。ま、東京生まれったって一等地から下町までいろいろありますが、とにもかくにもこの5人が戦前期の東京で生まれたことには違いない。
 ヘンリー改メ「千里」がロンドン生まれなのはともかく、唯一の地方出身者と言えるのが「等」です。
 彼ら7人は、偶然にも音楽に熱中し、とくにジャズに熱い情熱を傾ける人生になるのですが、当時の、要するに戦後すぐの世の中で「楽器を得られる」というのは「そこそこのお坊ちゃん」なのが常識だったのです。
 少なくとも定夫と等以外はこれに当てはまる。彼らは幼少の頃より楽器や踊りを嗜み、成人する直前に戦争が終わって、アメリカ直輸入のジャズに魅了されるのです。
 定夫にしたところで東京の生まれであり、戦中こそ郷里を離れていたものの戦後に東京に戻り、すぐにバンドのボーヤになっている。

 等だけはあきらかに立場が違いました。
 等の実家は寺院であり、東京に出てきた理由も父の跡を継いで僧侶になるため駒込の寺に小僧として入ったのがきっかけです。
 その後等は東洋大学に進学するのですが、この時点でも「将来は僧侶になる」のが決定的であり、まだジャズにさえほぼ出会っていない。
 とはいえ、在学中にバンドボーイのアルバイトを始めたことがきっかけでジャズに興味を持つようになったわけで。


 いろいろあった末、彼らは「ジャズコンブーム」という時代の波にも押されて、全員プロのミュージシャンを志した。そして1955年、定夫は新しい、エンターテイメントに重点を置いたジャズバンドを結成する。名前は「キューバンキャッツ」。しかし先に名前を挙げた7人のうち、1955年の結成当時に在籍していたのは定夫と弘のふたりだけです。
 翌1956年に英市と泰雄が、さらに翌年の1957年に等と秀峰が、そして体調不良のため一時的に活動を休止した英市のピンチヒッターとして千里が加わったのが1960年。その後英市は復帰しますが千里もそのままバンドに残ることになり、ついに7人の男たちが集結することになるのです。



 ジャズに狂った男たちは何故か「7人組のコメディチーム」として絶大な人気を得ることになった。
 彼らが主演の映画がいくつも作られ、とくに等の当たり役となった「無責任」は時代の流行語を超えて時代の象徴とまでなったのです。



 過熱する彼らの人気は1960年代の終わりに近づくにつれ、醒めていった。そして1970年代に入る頃には「個々に役者としてはまずまず活躍しているが、グループとしての活躍はほとんどない」という感じになっていくのです。


 1980年代になると、彼らは「再結成」的なニュアンスでポツポツとテレビに登場するようになりますが、別に再結成ではない。何故なら彼らは解散したわけでも何でもないんだから。ただただ、グループとして活動するチャンスがなかったからだけの話です。



 1990年代に入ってすぐ、再び彼らは脚光を浴びることになる。とくに等が1990年の紅白歌合戦に出場したことで、かつてこんなすごいグループがいたんだ、というのが再度注目されたのです。
 しかし、さすがに再び脚光を浴びるには遅すぎた。1993年に定夫が、1994年に英市が、1996年に秀峰がこの世を去った。つまり、せっかくスポットライトが当たったにもかからわず、メンバーがほぼ半分になってしまったのです。


 2000年代になってからも彼らの逝去は続き、2007年に等、2010年に泰雄、2012年に千里が亡くなった。
 そして以降、唯一存命となったのが弘だったのです。


 そして2023年、ついに弘も旅立った。これで1926年からはじまった彼らの歴史は97年で完全に終了してしまいました。

 97年、ま、だいたい100年ですね。ひと口に100年と言ってもこうやって、当時の映像を中心に振り返れば如何に移り変わりがあったか、嫌でもわかっていただけるはずです。
 彼らはこんな<街>で生きていた。コミックバンドとして、コメディアンとして、華々しい<表>だけではなく、ごく普通の生活者として、こんなふうな<街>で生活していたのです。

 今回のエントリはそれ以上でもそれ以下でもない。ただ、それだけを感じとっていただけたら十分です。

まったく、どこにも、クレージーキャッツとも、ハナ肇や植木等などとも書いていない、でも紛れもなくクレージーキャッツのエントリというのを一度やってみたくて。
何というか、こんな時代に彼らは生まれて、彼らは活躍して、彼らは人生の終焉を迎えた、というのが説明したくてね、ま、活躍してってのはそれこそ主演映画を観てもらったらいいんだけどさ。
というかこのエントリ、貼り付けてある動画を見ていただかないとアッと驚く、じゃないアッと言う間に読み終わって、何の面白みもないエントリになってしまうので、最後まででなくても、途中までで構わないので動画を再生させながらお読みください。




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