小林信彦著「笑学百科」の中で「「広告批評」のバックナンバーに「ビートたけしによるタモリ論」がある」と書いてあったんでね。
今は便利な時代で、家にいながら1981年6月号の「広告批評」が読めたりする。いやぁ、これは本当にありがたい。
この号はタモリの特集となっており、永六輔や吉行淳之介などが「タモリ論」を展開しているのですが、やはり、世間的にはライバルと目されていたビートたけしのタモリ論が一番注目されたんじゃないか。そう思います。
実際読んでみると意外と長々と書いており(ま、100%聞き書きだけど)、これがね、実に面白かったので今回こんな文章を書こうと思ったわけでしてね。
いやね、もちろん特集のテーマがタモリなのでタモリについて語ってるし、小林信彦も「たけしがタモリについて語ったところ」を中心に取り上げている。
それはそうなんだけど、じっくり読んでみたところ、これはタモリをダシにした「ビートたけし論」もしくは「ビートたけしという芸人論」であり、つまり「自分自身を分析してる」内容になっているんです。
1981年、というとたけしが世に出てからまだ日が浅い頃で、もちろん映画監督にチャレンジするなんてかなり先、どころかまだまだ「ツービートの毒を吐く方」というイメージが圧倒的に強かった頃です。
つまり意気揚々、血気盛ん、まさにこれからのし上がって行く時期のたけしが自分自身をどう見ていたか、これが面白くないわけがない。
とにかくこの文章を読めば、たけしの果てしのないコンプレックスが嫌でもわかります。
昨日NHKでやってたサーカスの中に出てきた人、ジョン・ハーブとかいったかな。あの人の芸はものすごくおかしかった。パントマイムなんですけどね、とにかくケタハズレにおかしい。オレなんか涙流して笑っちゃった。ホント、ああいうの見ると自己嫌悪に落ちちゃうよね。(中略)あれはきっと何度みてもあきないね。あの人はきっとあれ一つで何十年も食える。
要するに<芸>とは何か、という話なんですが、少なくともこの時点でのたけしは『あれ一つで何十年も食える』のが<芸>であり、しかし自分は暗さ故、イジイジした性格が故の細かいことしか出来ない=<芸>を見せる芸人としては、みたいなことを言ってるわけです。
もう自分でも言ってるからアタシが念押しするのもアレなんだけど、ここから芸能界を上り詰めてやろう、とする芸人の言葉にしては威勢の良さ皆無で、まさに当人が言うようにイジイジしすぎている。
しかしよく読んでみると「自分の<暗さ>が客を惹き付けるポイント」ということにも気づき始めており、というかタモリが人気になったのは<暗さ>故だ、だから自分も、というのが垣間見えるというか。
しかし「売れる=コンプレックスが消える」というような簡単なもんじゃない。いや、どれだけ売れてもたけしは「<芸>で観客を笑わせる=正統派」へのコンプレックスをなかなか解消出来なかったんじゃないかと思うのです。
そもそも師匠である深見千三郎がコンプレックスの塊のような人だったらしく、懸命にタップを踏み、指が欠損しているのにギターも弾いた。つまりエノケン的な意味での正統派コメディアンたらんと「あがいた」のです。
しかし圧倒的にウケたのは、後にたけしに引き継がれる毒舌や機関銃トークで、それがわかっていたからこそたけしにもタップの練習を強いた。つまり弟子には「正統派の道を歩んで欲しい=自分のようなコンプレックスまみれの芸人になって欲しくない」というのが強かったと思うし、だからこそ東京では邪道と見做されやすい漫才への転向に猛反対したんだと思う。
1981年、と言えば深見千三郎はまだ存命の頃であり、師匠の思いを深く受け止めていたたけしからすれば「師匠に認められる芸人になりたい」という志が強かった頃とも言える。
要するに「広告批評」に載った「タモリ賛江」という一文は「タモリのことを語るという体をとった<ホンモノの芸>、<正統派コメディアン>、<師匠・深見千三郎>」へのコンプレックスの吐露なんですよ。
この後たけしは明石家さんまと接触することで「自信を得るのと敗北感が同時に押し寄せてきた」と思うのですが、まァその話はいいや。