いや、こんなの「センス=時代感覚」なのは当然なんですよ。それは承知の上で、普通の会話で使われる「センスがいい」ってどういうことだろうと。当たり前だけど誰も「センスがいい=時代感覚が優れてる」って意味では使ってないから。
さてさて、これ、本当のことかわからないっつーか、かなり眉唾な話というのを頭に入れながらお読みください。
「恰幅の良い」という表現がありますが、この言葉が慣用句のようになったのは芸者が上客にたいして「デブ」と表現するのは失礼なので「言い換えた」のが定着した、らしい。
他にも「小作り(=チビ)」なんかもありますが、どちらも「仮にそのワードを知らなくても語感だけで何となくイメージ出来る」というのがすごい。
「恰幅」なんか<ぷく>というのが効いてる。もうこれだけで十分「ふくよかさ」が想像出来ますからね。
アタシはね、こうした「上手い言い換え」が出来る=センスのいい人だと思う。
並の表現を用いてしまうとただの悪口でしかない、例えば「馬鹿(頭が悪い)」とか「キチ◯イ」とか、もちろんデブもチビもですが、こうした言葉を巧みに別の言葉に置き換える。こうすることで人間関係のギスギスを抑えることが出来る、という。
これを徹底的に<笑い>に活用したのが松本人志で、松本人志の切り返しの面白さのほぼすべては「言い換えの面白さ」なんですよ。
もし脳内で否定的なことか浮かんでね、でもそれをストレートに言葉にしても<笑い>になるどころかただ空気が悪くなるだけです。
そして「意味はほぼ同じな別の言葉」を探す。つまりピッチングで言えば「同じアウトローを狙うんだけど球種を変える」という感じか。
まァ、芸人でもなければそこまでユーモアは必須ってわけではないけど、逆の言い方をすれば捻りのない=ストレートな言葉しか使えない人は「センスがない」と言えるのかもしれません。
某掲示板やそのまとめサイトなんかで「頭が悪い」という表現をよく目にしますが、「頭が悪い」なんてストレートな表現を用いている時点でその書き込みをした人間はセンスがないし、人間関係のギスギスを甘くみている、人間の感情を無意味に逆撫でするとまったく余計な遠回りをしなきゃいけないってわからない輩は少なくとも「頭が良い」とはとても思えない。
つまりは「頭が悪い」なんて口に出す(書き込む)ヤツは、まァ、間違いなく「自己紹介乙」ですな。
要するにです。センスがいい=頭がいい、かどうかはともかく「頭を使ってる」くらいは言えるんじゃないか。
ファッションなんか一番わかりやすいですよね。流行りや色の組み合わせをどうするか、そのことにたいしていっぱい頭を使えば、まァ、そこまで変にはならない。逆に言えば「ファッションにたいしてまったく何も考えない」人の格好はお察しになってしまう。
「言い換え」なんてまさにそうじゃないですか。それこそ「恰幅の良い」なんて、たとえ瞬間的にでも頭をフル回転させてないと絶対出てこないワードチョイスですから。
アタシの一応の生業はグラフィックデザインですが、実はデザインと世間一般で言われるセンスはあんまり関係ない。
結局デザインも「閃き」よりも「基礎知識」とその「応用」の連続で、それこそ基本的な色彩の知識がないとダメだし、その他の知識を含めて如何に応用して目の前のデザインに結びつけるか、これってどれだけ「頭を使ってる」かどうかだけなんですよ。
つまり手癖で、流れ作業的に作っても絶対いいものが出来ない。当然、何故かラッキーパンチ的に評価されることは皆無じゃないんだけど、あくまでラッキーパンチなので再現性が薄い。
だから何年経っても「頭を使う」ことからは逃れられないのです。
つかさ、天才的な閃きなんてもんに頼ってたら仕事にならないよ。アタシだって極稀に<閃き>で一気に仕事が進んだ経験がないわけじゃないけど、そんないつ訪れるかわからないもんに頼ってたら永久に仕事が終わらない。
で、アタシが出会ったすごい人たちもみな、そんな閃きなんかに頼らずに、一切閃きなんかなくてもどうやったらレベルの高い仕事が出来るか、んで目の前の仕事に真摯に向き合って頭を使って進めていくか考えてるような人たちばかりです。
だから再現性がある。常にレベルの高い仕事が出来る。そしてそれが「センスがいい」という言葉になってるだけのような気がするんです。
つまりさ、いいトシして「センスが」云々とか言ってるのって、ちょっとさ、いやもういいけど。