あまりにもスマホの話が続くのもアレなので、今日はちょいと趣向を変えます。
えと、やや古い話で恐縮ですが、先月末、友人が神戸に来てね、彼が滞在するビジネスホテルで駄弁ってたのですが、何となくテレビが点いていて。
その時かかっていたのは佐藤健主演の「100万回言えばよかった」っての。あの、佐藤健が幽霊として登場する、というヤツね。
アタシはこのドラマをまったく見てなかった。ただ設定だけは何かで読んだことがあって、たぶん「ゴースト・ニューヨークの幻」みたいな変則ラブストーリーなんだろうな、と思ってた。ま、「ゴースト」に若干のミステリ要素を混ぜ込んだ感じなんだろうな、と。
いやね、安っぽいとかはどうでもいいんですよ。そんなことより、とにかく
佐藤健がそこにいすぎる
んです。ってわかります?
もう一度言いますが、佐藤健は幽霊の役です。つまり実存はしない、という設定ってことになる。なのに、いや、間違いなく「いる」じゃん、というふうにしか見えないんですよ。
何もね、昔ながらの手法で佐藤健を半透明にしろってんじゃないです。そんな加工はせずに「オズの魔法使」のモノクロパートのように「実はカラーフィルムで撮影してるけど、役者にモノクロに見えるメイク」を施してるわけでもない。
とにかく、映像からは佐藤健=幽霊、というのはうかがい知れないのは「あえて」なんだろうし、それはそれで構わない。
でもさ、だったらなおさらなんですよ。佐藤健を感じることが出来る設定の井上真央と松山ケンイチ以外の役者は「佐藤健はそこにはいない」体で演技しなきゃいけない。
なのにそういうのはまったくない。
どころか、インパルス板倉なんか佐藤健を軽く押してたくらいだし。いやいや「いる」どころか「触れる」とか、もう幽霊でも何でもないじゃん。
ま、「触れた」のは偶然だとしても、これじゃあ
「幽霊になった佐藤健」
じゃなくて
「石ころぼうしを被った佐藤健」
じゃん。
他にも荒川良々の「如何にも裏で悪いことしてます」みたいなシーンも実に酷かったんだけど、こういう話になるとすぐに役者の演技力の話になる。
しつこすぎるけど、アタシは演技力なんか一切わからないし、気にしたこともない。というか役者の演技力を気にするなんて演出家とか監督だけで十分なんですよ。
演出家がね、その演技が「良い」となればオッケー、「悪い」となればリテイク、もしくはカットになるだけなんです。
つまりね、何でこうした酷いシーンが生まれるかというと、単純に「演出家の能力が低い」だけなんです。逆の言い方をすれば役者は1ミリも悪くない。
もしかしたら佐藤健もインパルス板倉も荒川良々も、リハーサルの時には大多数の人に「自然に見える演技をしていた」んじゃないか、んで演出家の指示であんなとんでもない演技に変えさせられた可能性もあるんですよ。
逆にリハからクサい演技をしていたら演出家には「ちょっと、それは困る」と言える立場なんです。
視聴者側は完成されたものしか見ることが出来ない。完成したものが作品ということになる。だから作品でしか判断が出来ないし、そうなれば役者の本当の演技力なんか絶対にわかるわけがない。
要するにね、酷い演出をされた役者は酷い演技になる。結果、役者の技量とは関係なく「下手な役者」というレッテルを貼られることになるのです。
黒澤明映画の常連だった志村喬は「器用ではあったが実は演技力が優れているわけではなかった」という話があります。
もちろん志村喬と言えば名優のひとりに数えられているわけですが、こういう例は実は多いんじゃないかと睨んでいる。
実際、名優と言われている役者が評判の良くない監督の作品に出演すると「え?この人、こんな演技が出来ない人だったっけ?」と思うことがあるわけで、低レベルな演出家もしくは監督にかかると役者の評判まで落としてしまうのです。
たまたま今回「100万回言えばよかった」をやり玉にあげたけど、視聴者が違和感なく見れるわけでもなく、かと言ってトンデモ作品になるほどは振り切れておらず、役者はヘタクソというレッテルを貼られ、しかし演出家はノーダメージ、みたいなテレビドラマが多すぎるように思う。
役者人生を背負い込めないようなら演出家なんか辞めちまえ。やりたいようにやりたいけど責任は取りたくないとか、そんな無責任な話があるか。
すぐにしたり顔で「日本の役者はヘタクソ、それに比べてハリウッドの・・・」なんて言いたがる御仁がおられるけど、ヘタクソなら演技指導しなかった演出家の責任じゃん。そんなの当たり前の話でしょうが。