ノンフィクションの立ち位置
FirstUPDATE2023.2.17
@Scribble #Scribble2023 #Twitter 単ページ ノンフィクション #ゲーム 論文

Twitterで、最近発売されたゲームの歴史書があまりにも間違いが多すぎる、とリアルタイムで関係者だった方が嘆いておられるのですが。

もちろん、気持ちはわかるんですよ。あまりにもデタラメなことを書かれたら、んで当時の状況を記憶されておられるなら、そりゃあ嘆きもしたくなるだろうし、時には怒りたくもなるでしょう。
じゃあ、アタシが件の元関係者に感情移入してるのかというと、残念ながらまったくしてない。
何というか、あんまり意味がないんじゃないかなぁと。

ゲームの歴史書を執筆した方もどんな人なのかまったく存じ上げませんが、もしね、アタシがこの書籍の執筆者ならば、勝ったな、と思うと思う。
いや勝ち負けの問題じゃねーよ、と言われるかもしれないけど、もう、現今、どれだけ書籍が売れないかはわかってるつもりだし、もはやTwitter界隈の、そのまた一部界隈でさえ話題に出れば、ましてや、例え否定的意見が大半であろうと軽くバズったりでもしたら、アタシなら手を叩いて喜ぶわ。

というかね、これは何度も何度もしつこく書いてるけど、ゲームの<歴史書>といえど、まァ、ごく普通の書店で購入出来る、つまりはノンフィクションなわけです。
また今度詳しく書く予定ですが、アタシの中では「フィクションとノンフィクションとの違いは、登場人物が実名であるか否か」だけしかないと思ってる。つか「ノンフィクション=真実」と思うから腹が立つ。
ま、名称は、フィクションではない=ノンフィクション、なんだけど、正直、真実がどうだろうが、マジで、死ぬほどどうでもいい。アタシがノンフィクションに求めているのは、フィクションとまったく同じで、つまり「面白いかどうか」だけなんです。

嘘八百でも書籍として面白ければ、もうそれだけで十分で、だから一橋文哉とか近藤唯之のノンフィクションだって面白く読めたりするんです。
逆に言えば、限りなく真実に近いかもしれないけど、書籍としてまったく面白くない、なんて場合は、当然評価も最低です。というか純粋に真実が知りたいのであればノンフィクションなんか読まないよ。当たり前じゃん。

これも当たり前の話だけど、キチンと取材、調査、資料の精査をやってるノンフィクションのが「面白くなりやすい」んです。
つまりね、何でアホみたいに苦労して調べまくるのかって言えば、それはもう、ノンフィクションとしての面白さのためなんですよ。
もちろん、結果的に、調査を進める毎に真実に近づいていった。それは素晴らしいことではあるんだけど、結果論っちゃ結果論で、面白さのオマケとして正確さも出たってだけです。
そこを見誤るととんでもないことになる。つかノンフィクションを<真実>を追い求める目的で書いちゃいけないとさえ、思う。それは論文とか別の形でやるべきことでしょ。

もし、元関係者の方が件のゲームの歴史書を書いた執筆者が許せない、と思うなら、たとえTwitterであっても一切話題に出さない、これしかないんですよ。
反論すれば反論するだけ執筆者はほくそ笑むことになるし、いやもし、自分もキチンとしたゲームの歴史書を作りたいと思うのであれば、Twitterでなんか反論しないで執筆者とジカでやり取りしたらどうですかね。

上手く言えないけど、真実に近づけば近づくほど楽しい。それはもう、本当に、よーくわかる。浅いところでゴチャゴチャやってるよりも「資料を漁ったらこんな事実が判明したぞ!」ってのは本当に楽しい。
ノンフィクションなんて、その叩き台の役割を果たしてくれたら十分じゃないですかね。アタシはそう思うんだけど。







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