もちろん、ハイトーンボイスで「♪ヤァレヤレヤレヤレェ!」と叫ぶわけではなく、何で「トシをとると人間みな図々しくなる」と言われるのか、てなことを考えてみたいとね。
ま、アタシも結構な年齢になったわけでね、というか、やっぱ、結構な年齢にならないとわからないこともあるんですよね。
何というか、そんなんどうでもええやん、と思うことが本当に増えた。若い頃はものすごくこだわったりしてたことでも、このトシになると、こだわったからって、たいした違いがあるわけでもあるまいに、こだわろうがこだわらなかろうが、結局似たような結果になったり、どう転ぶかわからないものにこだわるってメチャクチャしんどい、みたいな。
一番わかりやすいのが人間関係です。
こちらが細心の注意、最大の敬意を払って誰かと付き合ったりしても、じゃあその分の見返りがあるのかというと、と書くとイヤラシイけど、実は<ぞんざい>に扱った場合と関係性は変わらなかったりする。
だからといって誰にでも<ぞんざい>になるのか、というと、ならない。かといって損得で敬意を払うか<ぞんざい>に扱うかは決めない。
じゃあ、どういう場合に、というか、どういう人に敬意を払って接するか、ですが、これはもう、ものすごく単純で「自分がそうしたい」と思える人です。
自然に、あ、この人には敬意を払いたい、と思える人には勝手に敬意を払ってる。つまりすべて「自分主導」なんですよ。
でも、逆に言えば、敬意を払いたいと思えない人には、そりゃまあ、大人なんだから最低限の敬語は使うけど、気持ち的にはかなりテキトーで、酷い言い方をすれば「あしらう」みたいな接し方というか。
でね、実際、敬語を払いたいと思える人なんてそうはいない。いやこう言っちゃうと語弊があるけど、よく知らない人ってのはよく知らないわけですよ。当たり前のことだけど、敬意を払いたいかどうかわからない人にまで敬意を払う必要はないんじゃないかと。
これがもし損得で物事を考えるならば、よく知らない人にでも敬意を払う方が絶対得です。これは言い切れる。でも損得抜き、いや得かもしれないけど損との差がそれほどない、なんてなってくると、今度は「ラクかしんどいか」が大きな基準になるわけで、多少は損かもしれないけどラクを選んじゃう、というか。
何だかさっきから要領を得ないことばかり書いてますが、トシをとるにつれ、マジで年々、何をやるのもしんどくなってくるのですよ。
ただ普通に生きてるだけでしんどいんだから、極力、人間関係くらいはラクをしたくなる。ラクをするためには人間関係に損得を持ち込まない。なるべく身近に<ぞんざい>に扱える人が欲しくなる。
ま、<ぞんざい>っていうと感じ悪いけど、要するに「気の置けない」というかね、ワガママが言える関係というよりは「カッコつけなくて良い」と思える人たちに囲まれていたいというか。
若いうちは無理なんですよ。とくに異性にたいしては無意識にカッコつけたくなる。でもカッコつけるのが何よりしんどい。というか面倒くさい。
こうなると、気がつきゃ、図々しいヤツになってる。
アタシはね、昔からずっとフシギだったんですよ。オッサンとかオバチャンって、もう、ほぼ例外なく、みんな図々しいじゃないですか。
でもそんなオッサンにも初々しい頃はあったはずだし、オバチャンだってうら若き乙女時代があったはずで、じゃあ何で<変化>しちゃったのかってことになる。
つまりね、オッサンオバチャンになると、結局「しんどい」んです。ただでさえしんどいから、極力ラク出来るところはラクしたい。で、人間関係においてラクしようとしたら、周りから見たら「図々しいオッサンオバチャン」になってるというか。
若い頃は「損得抜き」とか「カッコつける」のがデフォなので、オッサンオバチャンの行動が理解出来ない。何だあの図々しい老害は、となる。自分は間違ってもあんなのにはならない、と思ってしまう。
でもさ、アタシはまだ図々しくはなり切れてないけど、図々しくなる気持ちはわかるわ。つか今の若い人もあと何年か経ったらわかるよ。
そんなんどうでもええやん。オレはしんどいねん
って気持ちが。