昨日のヤフーニュースに、フィンガー5の妙子のインタビューが載ってたんで、タイミングとしてはちょうどいいかな、と。
というかね、今年に入ったくらいからフィンガー5のことが気になりだして、軽く検索とかしてたんですよ。
んで、その時初めて知ったのが
フィンガー5はジャクソン5にインスパイアされて結成されたグループではない
という衝撃の事実です。
アタシはてっきり、アチラでジャクソン5なる、実の兄弟で結成されたモータウンサウンドのグループが人気を集めている、ついては「和製ジャクソン5」を作りたいので、そこそこ歌える5、6人の兄弟はいないか?みたいな感じで、いわばレコード会社主導で<作られた>グループだと思ってたんですよ。
ところがこれが違うらしい。
Wikipediaによると結成は1960年代で、1969年の時点でレコードデビューを目指して沖縄から東京に移住している。
1969年というとちょうどジャクソン5がレコードデビューした年であり、つまり、ほとんど影響を受けてない、ということになるわけです。
さらに驚いたのが、デビューシングルはアタシ世代がよく知る「個人授業」ではなく、というか「個人授業」のリリースは1973年ですが、彼らのデビューは1970年、つまり上京した次の年で「個人授業」の3年も前になる。
何となく、勝手に、デビューしてすぐに人気に火がついた人たち、というふうに思ってたら、何と3年もの「レコードデビューはしたけどまったく売れない」時期があったというのです。
当時の芸能界の常識と彼らの年齢を考えると3年という下積み期間は驚くほど長い。つか3年もダメとなったら見切りをつけるレベルですもん。
もうひとつ、当初のグループ名はフィンガー5ではなく「オールブラザーズ」で、レコードデビューを期に「ベイビー・ブラザーズ」と改名しますが、ここでも驚かされるのは「ジャクソン5を意識してフィンガー5に改名した途端、爆発的に売れた」ということでもないのです。
フィンガー5改名は「個人授業」リリースの1年前、つまり1972年。これは「ジャクソン5を意識したからと言って売れたわけではない」ということになります。
何より面白いのが、最初のヒット曲となる「個人授業」が「プロデューサー・世志凡太」、「レコードジャケットイラスト・水島新司」という、なんだこれは、というコンビが手掛けたことです。
世志凡太と言えば、まァ世間では浅香光代の内縁の夫ですが、アタシのようなクレージーキャッツフリークからすれば「ニッポン無責任野郎」の人見明の腰巾着役になるわけで。
その世志凡太がプロデューサーで、野球漫画の新進気鋭だった水島新司がイラストって、これはすごいわ。
話をフィンガー5に戻しますが、どうにも、いろんな意味でキメラ感があるというか、いろんな要素をグッチャグチャに煮込んだら意外にもスタイリッシュになったというかね。
「アメリカに行ってる間に人気が凋落した」なんてピンクレディーの先駆けって感じだし、「ドリームガールズ」の<ノリ>で映画化しても面白いんじゃないかなと思う。
個人的には、いわゆるデュエットという形ではなく、完全な男女ツインヴォーカル、しかも変声期前の少年少女ってのは画期的だったと思う。
元ネタ(じゃないけど)のジャクソン5にはジャネット・ジャクソンは年齢的に加入してなかったわけで、男女ツインヴォーカルを実現させてたって意味で、フィンガー5のが先進的だったところもあったように思うんですよ。
じゃあ何で、あそこまで人気が出たのか、これは難しい。パフォーマンスが良かったってのは当たり前として。
個人的には、まァ、ルッキズムがうるさいから簡単に書くけど、アキラも妙子もけして美形じゃないんだけど、ともに妙に女ウケ、男ウケする顔なんですよね。
とくに妙子は本当に絶妙っていうか、ってこれ以上書くとマズそうだけど、アタシも妙子みたいな顔は嫌いじゃないですから。