どこでも生きていける人
FirstUPDATE2023.1.26
@Scribble #Scribble2023 #世間の話題 単ページ Iターン 柳に風 テキオー灯 #ドラえもん 鋼のメンタル #2020年代 #人間関係

ちょっと気になるニュースを見かけたものでね。ま、よくあるIターンの話なんですが。



 男性はコロナ禍で行動制限が多い都会暮らしに疑問を抱き、小学校教員を退職して地域おこし協力隊に応募。2021年に妻子と共に東京都調布市から四国地方の山間部の限界集落に移住した。
 しかし、地域振興の活動の中で地元の顔役的な数人との関係が悪化したという。
 男性は「集落の大半の人とは仲良くさせてもらい、農作業や猟など様々な体験をさせてもらった」と感謝しつつ、「身に覚えのないうわさ話が出回り、親しかったのに関係がギクシャクしてしまった人もいた」と振り返る。
 男性は「人間関係の問題はどこでもあるけど、私が行った集落では都市部のような付かず離れずの関係は許されなかった。郷に入るか、出るかの二者択一だった」と話す。(中略)男性は「後になって知ったが、過去にも同じようなトラブルで地域を去った隊員がいた」と言い、移住者の定住率を事前に調べなかったことを後悔している。

これねぇ、そもそも件の男性は「都会は特殊」という概念が欠如していたとしか思えないんですよ。
よく「排他的な村」が話題になるけど、人間ってのは排他的なもんなんです。そんなの、いきなり、どこぞの馬の骨かもわからんヤツを受け入れる方が特殊で、これはサークルのような小さなコミュニティでも結局は同じなんです。
要するにね、都会は人口が多すぎて「寄り添わない」という考えでないと成立しなかった。だから結果として「個のペース」が重要視されるようになっただけなんです。

アタシは大の都会好き、大の田舎嫌いですが、だからこそ留意しすぎるくらい留意する必要があるわけで、自分が属する方が普通、と単純に考えるととんでもないことになる。
自分がどちらに属するかは一旦横っちょへ置いといて、人間の本質としてどちらが普通なのか、と考えるとね、やっぱ、排他的な方がどう考えても普通なんですよね。
都会好きのアタシからすれば非常に残念なんだけど、他人はそう簡単に自分を受け入れない、そう考えた方がスッキリするっていうか。

じゃあね、都会で生まれ育って、完全に都会の生活が染み付いた人がIターンとか無理なのか、と言われると、もうほとんどの人は無理だと思う。
だけれども、ごく一部、例外と思えるような人がいるのもたしかなわけで。
と言っても「鋼のメンタル」とか「図太い」とかじゃないんですよ。仮にそういう人であっても、都会生まれ都会育ちの人間はやっぱり多少なりとも無理はしているわけで、周りから見て平気そうってのと自身がどう思うかは別モンです。

そうじゃなくて、たまに、ホントにごくたま~にですが「この人、マジでどこでも生きていけるな」という人がいるんですよ。
どんな環境であっても適度に合わせて、適度に自分の<我>が出せる。それでいて周りとの軋轢を生まない。
あるならあるで、それを目一杯活用もすれば楽しむし、ないならないで、とくに不満を抱くこともなく「ない生活」に適応してしまう。
ホント、ドラえもんからテキオー灯でも当ててもらったのか、というほど、天性の適応力がある人がね、いるんですよ。

こういう人はマジでどこにでも住める。田舎だろうが都会だろうが、海外だろうが。
海外ったっていろいろあるけど、極端に衛生観念がない国でさえ、気がついたら適応してしまっている。
メチャクチャわかりやすい例で言えば千原せいじ、わかりづらい例で言えば馬場章夫ですか。わかりづらすぎるか。
たまたま両名とも関西人だけど、別に関西人が適応力があるって話でもない。プライベートの知り合いなので名前を出すわけにはいかないけど、これに該当する東京の人も九州の人もいますから。

にしてもですよ。
そういう人らとジカで接してみると、羨ましいとかとは違う、本当に上手く言えないんだけど、すげぇな、と思ってしまう。
柳に風、なんていうと、どんなことでも受け流してしまえる、みたいなイメージですが、別に全部を受け流してしまうってこともなく、適度に我を張ることもあるんですよ。なのに一切軋轢を生まないってのは、ちょっとアタシのような軋轢だらけの人間からしたら信じられないというか。
でも当人は別に、自身のことをそういうふうに思ってないケースが多くて、え?普通だよ?みたいな感じなんですよね。

記事の男性もさ、もしかしたら自身を柳に風タイプって勘違いしてたのかもしれないけど、本当に柳に風タイプの人ってその手の自我が一切ないから柳に風なんですよねぇ。







Copyright © 2003 yabunira. All rights reserved.