どうにもよくわからない傾向なんですが、ここ最近の異様なまでの「昭和サゲ」が活発なのは、いったいどういうことだろうと。
令和になるちょうど1年ほど前、日大アメフト部による悪質タックル騒動がありました。
この件はリアルタイムで文章を書いてますが、かいつまんで言えば、日大選手による相手チーム選手へのタックルが問題となったのですが、すべて監督の指示だった、というのがあきらかになり、ひいては日大アメフト部の<体質>までがあきらかになっていった、という騒動です。
この時の日大アメフト部の監督の<やり方>にたいして当時のアタシは「黄金時代を築いた前々監督の「暴力的指導」だけを受け継ぎ、部員と密なコミュニケーションをとる、という指導の根幹を蔑ろにしたために起こった」というようなことを記しています。
日大アメフト部監督の指導法が叩かれるのは当然なんですが、その叩かれ方が異常だった。
いや、やってることがやってることなので、叩き方が酷いか酷くないかはどうでいい。問題はこの監督にたいして、やたら「昭和の<やり方>」という言葉を、それも有識者まで使うケースが多かったのです。
これについてもアタシは当時苦言を呈している。当時この監督とインパール作戦で指揮をとった牟田口廉也とを比較する声があったことにたいして「牟田口の悪名が残ったのは当時でさえ牟田口のやり方は異常だったから。つまり「暴力的指導」は昭和だろうが当たり前なんてあり得ない」と。
この騒動が起こったのは、まァ令和になる1年前なので、ギリギリ平成ということになるわけですが、結果的にはこの騒動が「昭和=野蛮」というイメージを司る口火になった。
今現在、それ<昭和>だろ、と言われるのは、つまり「野蛮」とか「強権的」とか、すべてネガティブなイメージの代名詞として使われる。要するに「昭和なんて野蛮で強権的で不潔でモラルなんて何もない時代」だった、という感じなのでしょう。
逆に平成の頃はどうだったかで言えば、昭和は必要以上に美化されていた。
「昭和はぬくもりがある、人の心を大切にする素晴らしい時代だった」というように。
はっきり言って、昭和ヲタク呼ばわりされることの多いアタシからすればどっちも嘘っぱちです。
昭和が暴力肯定の時代ではなかったのはあきらかだし、かと言って「ぬくもり」なんてあるわけがない。
昭和なんて言ってもほぼ63年あるわけで、もちろん63年が同じモラル、同じ空気感なんてあり得ないわけですが、間違いなく言えるのは、昭和には何度か空前の好景気時代がありました。んで、どうしようもない貧困の時代もあったわけです。
つまりね、昭和だからどうこう、ではなく、ナニ時代とか関係なく「好景気時には好景気特有のムードがある」し、逆に「貧困時には貧困時特有のムードがある」んです。
正直言えば、令和と昭和の違いなんて、何もない。もう、相変わらず、としか言いようがない。とにかくアタシがここ数年、昔のことを調べれば調べるほど感じるのは「人間って本当に進歩しないんだなぁ」ということなんです。
何でこんなエントリを書いたかというと、昭和が誤解されている!許せない!とかじゃないんですよ。
すごく気になるのが、何で令和になったタイミングで、唐突な昭和サゲがはじまったか、逆に言えば平成は何であんな昭和アゲがあったのか、ということです。
たぶんどのような事象でも、見る角度を変えるだけで宝石にも汚物にも見えるんですよ。で、平成の頃はぜんぜん宝石でない箇所を宝石のように美化し、令和になるとごく一部でしかなかった汚点をさも全体がそうだったかのように叩きまくる。
上手く言えないんだけど、これって本当に自然発生的に起こったムーブメントなのかなぁ。どうもそこがわからない。
平成の頃に権力を持ってた一部の人が個人の都合で「昭和をあげ奉る方向に持っていった方が利益が出ると踏んで」あんなことになったんじゃないの?んで今は一部の人が「昭和はサゲればサゲるほど利益がある」ってことのような。
何だか陰謀論みたいになっちゃったけど、どちらも唐突すぎてマジで理由が見えないんですよ。
ま、どっちにしろ、昨今の「昭和サゲ」は一種の流行ですな。流行に目くじらを立ててもしょうがない。それはわかってるけど、何かね、あまりにもタイミングが、いやもういいや。