だいぶ前ですが「大泉洋という役者の使い方が悪すぎる」みたいな、かなり辛辣に書いたことがありますが、それと前阪神監督の矢野燿大の何の関係があるのかって話ですが。
その時も書いたのですが「大泉洋は主役がつとめられる花形喜劇役者になれる存在だった」と書いた上で「なのに何でも演じられる器用なだけの役者という枠に押し込められてしまった」と。
これはしつこく書いてることですが、演技の上手い下手なんてアタシはわからないし、別段わかったからといって受取手であるアタシには何のトクもない。
というか「何でも出来る器用な役者」が「ある傾向の役しか出来ないけど強く光り輝く役者」よりも上ってこと自体に納得していないのです。
この話、野球に置き換えるとわかりやすい。
どこのポジションでもそこそこレベルで器用に守れる、いわゆるユーティリティ選手より、一塁しか守れない、いやもっと極端に言うとDHでしか出場出来ない打撃専のが価値が低いのかって話で。
いやね、アタシはユーティリティプレーヤーと打撃専のどちらが上とか言いたいわけではない。ただチームとして考えたら「両方とも絶対必要」なんですよ。
映画だろうがテレビドラマだろうが舞台だろうが、これは演技だって同じのはずで、やたらユーティリティを称賛したがる人は「両方とも絶対必要」というのがわかっていないんです。
だとしてもですよ、さっきも書いたように、受取手はそこまでわかる必要はないんだし、多少トンチンカンな意見があっても問題はない。
ただ大泉洋の周りにいるスタッフまでがそんな発想だったのがわからない。実際どんな発想だったか聞いたことはないけど、過去に大泉洋がやった役柄を見るだけで、それは十分透けて見えるから。
大泉洋の話はこれくらいにして、矢野燿大のことを書いていきたい。
矢野はやたらとマルチポジションとやらにこだわった。昨シーズンで言えば、ひとつのポジションしか守っていないのは近本と中野だけです。
これが、正直レギュラーを張るには難しい、それこそ植田や熊谷あたりにマルチポジションを強いるってのは理解出来るんですよ。
しかし矢野の<やり方>はまさしく「聖域なし」で、主軸であるはずの大山や佐藤にまでマルチポジションを強いた。それも一試合の間に、内野から外野、外野から内野、みたいなことも平気でやらせたわけです。
この件について矢野は、一度たりともはっきりと意図を明言しなかった。どうも「その方がベンチとしては動きやすい」という発言があったという伝聞はあるのですが、もしこれが事実なら由々しき問題です。
あえて<たかが>と書きますが、たかがベンチワークのために主軸までポジションをたらい回しにするなんて言語道断で、いわば「主軸を張れる選手までユーティリティなんていう、器用な何でも出来る選手にしようとしていた」ということだから。
主軸とか主役というのは誰でもなれるものではありません。
それこそ持って生まれた<運>というより<運命>なのですが、主軸や主役は「望む望まないにかかわらず、自分が中心とならざるを得ない宿命を背負っている」んですよ。
一緒くたにするのは自分でもどうかと思うけど、大山やサトテル、そして大泉洋は、そうした宿命を背負う存在なのです。そしてそういう人はそうはいない、希少な人材です。
なのに、もう失礼は承知で書くけど、凡百の、器用貧乏に育てるなんて、すべてが狂ってる。前述した通り、チームには主役もワキも「両方とも絶対必要」というのがわかってなさすぎる。
わかっていれば「主役となるべき人材をワキと同等の扱いをしてはいけない」なんて当たり前のことなのに。
東宝クレージー映画の中でも植木等が単独主演の「無責任」シリーズや「日本一」シリーズは「植木等のワンマン映画」と叩かれた。
しかし、今だから余計に思う。いったい現今、ワンマン映画として成立させられる役者がいるのか?と。
それで言えばヤクルトは村上のワンマンチームです。もちろん山田や外国人もいるけど、それでも村上のワンマンチームということに異論がある人もそういないと思う。
日本一になったオリックスは山本由伸と吉田正尚の、いわばツーマンチームだったし、強いチームには必ずといっていいほどワントップ、ツートップといった看板がいるのです。
看板なんていらない、でも大山やサトテルには看板らしい働きをせよ、とか、もうムチャクチャだわ。そんなことが出来るわけがない。
それでもね、大山とサトテルはまだ年齢的にも取り返しがつくけど、大泉洋ですよ。正直大泉洋の年齢では取り返しがつかない。せっかく植木等や渥美清のようなワンマン喜劇映画が作れる人材、いや逸材だったのに。あーあ。