何だか同じようなことをしつこく書いてる気がするんだけど、いろいろと釈然としないものがあるのでもう一回だけ。
どうもこういう映画が公開されるみたいでね。
いやもちろん宣伝でもなければステマでもない。というか、これもしつこく書いてるけど、アタシは実際に観てもない映画についてあれこれ書くことに批判的なんですが、いやはや、あらすじを読んだだけで心底ウンザリしてしまった。ひと言で言えば
もうこういうテーマのフィクションはいいよ・・・
ということになるわけで。
「他人さんから見たら変かもしれないけど、自分はこの生き方がラクだし楽しい。しかし家族をはじめとした周りは自分に<普通>の生き方を求めてくる」というね、はっきり言えばコスられすぎたテーマです。
ま、コスられすぎてるモノなんて世の中に無数にあるんだけど、何でウンザリするかといえば、アタシ自身が「マジョリティかマイノリティか」で言えば、絶対、余裕でマイノリティに属する人間だからで、当然のようにリアル知り合いも、やはりマイノリティが多い。自分を含めてマイノリティに囲まれて暮らしている、と言っても過言ではない。
だからこそ思う。こういう映画ってね、ぜんぜんマイノリティの気持ちがわかってないんですよ。
そもそもですが、これは結局ポリ○レとも通じる話なんだけど、マジョリティにマイノリティの気持ちをわかって欲しいというのが、すでに間違ってる、というか。
こんな基本的なことから言わなきゃいけないのは情けないんだけど、いいですか?周りにわかってもらえない思考の持ち主だからマイノリティなんですよ?
<普通>を要求してくるようなマジョリティに、マイノリティ特有の「マジョリティからすれば理解し難い思考」を理解させようとする、こんな傲慢な話があるか。いったい何様だ、と思う。
もう一度言います。アタシは完全にマイノリティ側の人間です。だから釈然としない。
要するにね、こういう映画の作り手って「マイノリティはマジョリティに理解されたがってる」と決めつけてるような気がするんですよ。ま、マイノリティは傲慢と決めつけてると言い換えてもいい。
ではアタシはどうか、です。
正直、マジョリティに理解されたいなんて気持ちは早々に投げた。そんなの無理に決まってるってかなり早い段階で理解していた。
そんなアタシがやれることといったらふたつしかない。
ひとつは、閉鎖的かもしれないけど、そして間違っても大多数(=マジョリティ)ではないんだけど、アタシの心情を理解してくれる小さなコミュニティを作ろう、ということ。
もうひとつは、アタシよりさらにマイノリティな思考の<クセ>を持った人たちの気持ちに寄り添えたらな、ということです。
しかしね、閉鎖的なコミュニティってやっぱ、難しい。小さな、と言っても実際はせいぜい、ひとりかふたりしかいないレベルの小さいものしか作れません。
だから本当に重要なのは「さらにマイノリティな人たちの気持ちに寄り添う」ことの方なんです。
つまりね、アタシだって理解されたい、では結局それで終わる。だから発想を変えて「アタシだけでも理解してあげたい」という側に回る、というか。
しつこいですが、マイノリティな人たちは「<普通>を要求してくるようなマジョリティに理解されたい」とは思ってないんですよ。でもひとりでも、ふたりでも、そしてその人がどれだけマイノリティであっても、理解してくれる人がいればいい、とは思っている。それはアタシ自身がそうだったからよくわかる。
でもここで一方的に「理解されたい」ってのは結局はワガママなだけで、オッサンのワガママほど見苦しいものはない。
だからアタシは、少しでも、その人の思考のほんの一部分だけかもしれないけど、可能な限り、理解しようと試みないとな、と。
マイノリティは生きづらいです。もうそれは当たり前すぎるくらい当たり前の話だし、前にも書いたようにマイノリティが生きやすい世の中=マジョリティが生きづらい世の中になる。それはどう考えても正しいとは思えない。
だから「マイノリティはこんなに生きづらいんだ!」と声高に叫ばれても、ましてや「マイノリティが生きづらさを訴えかける」ような映画なんか作られても困るだけです。
困るってか、もっと正直に言えば、マジで止めてくれ。自分らしく生きる、なんて綺麗事で消化しないでくれ。そんなことをされたらモノホンのマイノリティはもっともっと生きづらくなるんだから。