俺たちの野球とは何だったのか
FirstUPDATE2022.10.18
@Scribble #Scribble2022 #プロ野球2022年 単ページ 阪神 矢野燿大 ミス許容 積極的

まァ、阪神タイガースはクライマックスシリーズのファイナルステージで破れて、矢野燿大政権は終焉を迎えたわけですが、ちょっと、いろいろ書いてみます。

矢野監督は盛んに「俺たちの野球」という言葉を口にしていましたが、結局、最後まで「俺たちの野球」とは何だったのか、アタシはわからないままでした。
確実に言えるのは、矢野は積極野球を全面に押し出していた。これは間違いない。「チャレンジした結果のミスならばしょうがない。しかし受け身になった上でのミスは許されない」とも言っていた。

ただその「チャレンジした結果」なのかどうかは選手本人でないとわからないのですよ。
内野守備で言えば、少しでも前に出てボールを取ろうとする。これはわかりやすいチャレンジですが、グラウンド状況や打者走者の走力その他諸々を鑑みて「ここは<あえて>待ってボールを取る」というのも実はチャレンジなわけで、となると「実はチャレンジした結果です」と本人が言えばいくらミスをしても許されることななってしまうわけで。

とくに今年に入って強く感じるようになったことだけど、何だか全力でやってる<風>であれば、失敗か成功かは問われないような空気があるように感じた。
もちろん二軍であれば、ま、これも「ある程度」ではありますが、そういうことも大切です。
しかし一軍の場合は「完全にゼロにするのは不可能であったもしても、ミスなんてなければない方が良い」んですよ。
チャレンジしたのであれば「ミスは仕方がない」から、だんだん「いくらミスしても構わない」に変化していったんじゃないかと。

ファイナルステージのマルテと浜地のエラーも「チャレンジ」した結果なんだから構わないのか?それで試合に負けて、ファンも納得すると思うのか?

矢野が言いたかったこともわかるんですよ。
消極的になるな、消極的になった方が悪い結果につながりやすい、実力が発揮出来ない、というのは正しいとは思う。
しかし「消極的になるな」と「いくら大事な試合、大事な場面でもチャレンジさえしていればミスはオッケー」とはぜんぜん違う。
プロである限り、目指すのは「積極的に、しかしミスは許されない」とならなければファンは納得しづらい。それでもミスは生まれるものだし、それはもうしょうがない。しかしそれこそ浜地のグラブトスなんか、あんな場面でやることでは絶対ない。

勝敗度外視のミス許容が「俺たちの野球」なのであれば、そんなチームはいくら強くても優勝は無理です。
つまり矢野は伝え方を間違っていた。「積極的に行った方が良い結果が出る。ミスも減る。だから消極的になってはいけないんだ」でなければならなかった。
ミスしないために積極的になる、こう伝えずに、チャレンジしていればミスしようがどうでもいい、それは結果なんだから、となってしまった時点で、ファイナルステージでああなってしまうのは必然だったような気がするわけで。

ミスは即勝敗に直結する。誰が考えても理解出来る話です。
チャレンジしてようがしてなかろうがミス上等の野球なんてあり得ない。しかしどうも、最後まで改善出来なかったし、矢野自身も監督しての成長を妨げたのではないかと。「チャレンジした上での采配だったのだから、しょうがない」と。
つまり、結果的には「チャレンジ」が<言い訳>になってしまった、とね。

今回はあえて功績には触れずに、功罪のうちの<罪>にスポットを当てたのですが、もちろん矢野の功績はいっぱいあります。
でも、もし、次に<チャレンジ>することがあるのなら<チャレンジ>を言い訳に出来るようにしちゃマズい。それでは選手も、矢野自身も、結局成長しないことになるから。

ま、難しいことは百も承知だけど、もうその一点ですよ。散々批判された守備位置コロコロも「ミスなんかどんな気持ちであろうが許されない」「だからこそ選手がミスをしない采配をしなきゃいけないんだ」ってことにつながると思うしね。







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